歴史のIF-もしも渡辺が…
歴史を学問としてみる場合、
「もしあそこで殺されなかったら」
「戦争が起こっていなかったら」
などの「IF」は絶対禁物です。
しかし、人間は想像力の生き物。足かせを外し広い想像の世界に遊ぶことは至って良し。

もし渡辺大将が殺されてへんかったら…
二二六事件以降も生きていたと想像してみましょう。
陸軍が、特に二・二六事件以降暴走したのは、佐官クラスの幕僚が将軍たちをロボットにしていた下剋上にあります。それをあらわす典型的なエピソードがあります。
昭和12年の国会議事堂で、陸軍省の武藤章中佐1が記者たちに「陸軍の方針」を書いたビラを配っていました。一般企業で言えば経営戦略を書いた行動方針です。

そこに、当時の陸軍大臣寺内寿一(大将)が通りかかりました。
寺内はビラを見て、

なにこれ?
と頭の上が「??」になっているところに、武藤は悪びれることなく言いました。

ああ、これ大臣にはまだ言ってなかったですな
一般企業に例えたら、本社の総務課長が勝手に経営方針を作り、部長どころか代表取締役社長の決裁も同席もなしで、
「これ弊社の経営方針です〜」
とマスコミに発表しているようなもの。とんでもない越権行為だとわかるでしょう。
しかし、こんなことが平然と行われ、上層部も

若いのは勉強してるね〜
と黙認していたのが昭和初期の陸軍だったのです。
しかし、渡辺の視野と見識の広さでは下剋上は不可能。
自分らのやりたい放題に軍や国を動かし、その責任は上に取らせようとする幕僚の思惑通りには、絶対に動いてくれません。
さらに、渡辺は軍政・軍令・現場(部隊勤務)・海外勤務と、非常にバランスが取れた軍歴であるオールマイティ。そのバランスの上で考えたら、その後の支那事変や対米戦争は愚の骨頂と感じるのは言うまでもない。
「軍隊は強くなければならない。でも戦争だけはしてはいけない」
渡辺は家族に何度も言っていたそうです。
経歴を見ると、1917年から3年間、武官として第一次大戦中のオランダに赴任しています。「戦争だけはするな」は、敗戦国ドイツや戦場を現場で見た実感としての感想のはずです。当然、日独伊三国同盟などは反対。生命が狙われるけれど、国を滅ぼす行為は生命を賭けて止めるでしょう。
まあ、殺される時期が早いか遅いかかもしれませんが…。
私が二・二六事件の概要を知った小学5年生の頃、農民の貧窮を憂いた青年将校は素敵だと思っていました。
しかし、長じて渡辺や海軍など、違うフィルタを通して二・二六事件を見ると、事件が全く違うスクリーンで見えてくるのです。私の評価は一周回ってさらに180度回転したほどの衝撃でした。
個人的には、渡辺大将は日本陸軍、いや大日本帝国にとって、二二六事件で亡くなるには惜しすぎる人財でした。
改めて、二・二六事件から84年。事件の生き証人だった娘の和子さんも2016年に亡くなり、事件もすでに遠くなってしまいました。仮に事件当日に生まれたとしても約90歳ですから。
それだけに、やっと昭和を客観的に考察することができる世の中になった今、陸軍にはこういう人もいたことを認識する時期でもあると思います。

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