以前、現在の阪和線の前身、阪和電気鉄道の記事で、住宅地経営にも乗り出したと書きました。他の私鉄も沿線沿いに行っていた住宅地経営、私鉄時代の阪和電鉄が経営に乗り出した住宅地は以下の4つでした。
・上野芝向ケ丘、霞ヶ丘
・信太聖ヶ岡(現北信太駅前の住宅街)
・泉州泉ヶ丘(泉北ニュータウンのとは全く別もの)
・富木の里(おそらく計画倒れに終わったのではないかと)
・信太聖ヶ岡(現北信太駅前の住宅街)
・泉州泉ヶ丘(泉北ニュータウンのとは全く別もの)
・富木の里(おそらく計画倒れに終わったのではないかと)
その中でも、今回は阪和電鉄が最初に経営を始めた「上野芝向ケ丘」を採り上げます。
上野芝向ヶ丘町の歴史
上野芝とは?
「そもそもなんでここは『上野芝』って言うの?」
見方が斜め上なのか細かすぎるのか、いつも変なところに疑問を持ってしまいます。
ほっとけ!と言われるとそれまでですが、こういう、ホンマどうでもいいことを調べることによって出てきた事実が、今まで漠然とした疑問や謎の解決への突破口になることもあるから、止められない。
「上野芝」を分解してみると、
「上野」
「芝」
に分けることにできます。
「芝」はそのままとしておいて、「上野」は何なのか、どこなのか。まさか東京の上野ではあるまい。そこで調べてみると、「上野芝」の「上野」は、元々「上の」または「上之」だったということがわかりました。これで、「上の(上之)」は場所を指す可能性が高いと。
さらにほじくってみると、もっと前は「神の芝」と呼ばれていたそうです。
「神の芝」とは、
上野芝駅のすぐ近くにある履中天皇陵のこと。
すぐそこに、天下にその名が鳴り響く仁徳天皇陵があるので知名度は低く見逃されがちですが、この古墳の大きさもあなどれない。
その昔、履中天皇陵の周りには芝生が生えていたという言い伝えがあります。天皇陵の周りの芝なので「神の芝」と。それがいつの間にか「上の(之)芝」に変わっており、現在に至ると。
「上の芝」が「上野芝」に変わったのは、意外に新しく昭和4年、阪和電鉄の上野芝駅が出来てから。「上の芝」だと駅名としてなんだかな…漢字にして締まりを良くしよう!というのが、その理由だったそうです。