上野芝と向ヶ丘町の歴史-陸にかかる謎の橋

上野芝向ヶ丘町の歴史 野良歴史家の歴史探偵
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■向ヶ丘にかかる謎の橋

上野芝駅から向ヶ丘の住宅地へと向かう道の途中に、「月見橋」という橋がかかっています。

 

現在の上野芝向ヶ丘町の月見橋

月見うどんを食べたくなるような名前の橋ですが、この先に謎の建築物があります。

 

 

現代の月見橋(上野芝)

地元の人以外、いや地元の人だからこそ目を向けることのないものですが、コンクリート製の橋の片割れに見えます。

前述のとおり、ここ近辺は中学~高校生前期の縄張りなので何十回と通っていたはずですが、これに気づきもしませんでした。この建造物の存在に気づいたのはいつか忘れたのですが、一時上野芝在住だった黒岩重吾文学にハマっていた頃に、上野芝を訪ねた時だったと思います。

その時は既にこのような歴史探索なるものを行っていたため、中学生の時には気づかなかった細かい所に気がつく能力が身についていたのでしょう。

 

上野芝の月見橋跡

 

上野芝駅から逆の方向には、
「月見橋」
と書かれたプレートも残っています。

今の月見橋とは違う橋、「旧月見橋」が架かっていたことは確かなようです。

ふつうに考えると、ここに川が通っていたのかと思います。事実、すぐ横に百済川という川が流れていますし。
しかし、何かがおかしい。この違和感は一体何なのか。

言語化できない違和感を解消しようと、大昔の航空写真をほじくり出します。

 

昭和23年の上野芝向ヶ丘町の航空写真と月見橋
(昭和23年(1948)航空写真)

黄色矢印の部分に「つきみばし」はあるのですが、そこに川は流れていません。川が流れていない所に、何故橋を架けたのか?謎はますます深まります。

 

昭和8年頃上野芝の月見橋の絵

「つきみばし」は「月見橋」と書き、向ヶ丘住宅地が開発された頃から存在していました。上述したとおり、この絵は昭和8年頃のものです。
この月見橋の名付け親は上野芝向ヶ丘住宅最初の住人、吉川万次郎氏と言われています。

「上野芝駅に出るためには誰もが通らなければならない長い陸橋である。
夕刻上野芝駅に下車して橋にさしかかったとき、田を隔てた丘の森の上から昇る円かな月を背に影絵のように浮かび上がる丘の家々や街の灯を目にする時、たちまち一日の労苦は忘れられ、我が家に帰り着いた安堵感と喜びが湧いてくる。自然、『月見橋』として親しまれるようになった」
自治会館初代理事長、西村駒吉氏の回想(上野芝向ケ丘史 昭和39年)

上の回想にも「陸橋」と書かれている通り、月見橋は川にかかった橋ではないようです。しかし、川もないのに何故橋をかけるのか?

 

◆何故川のないところに橋を作ったのか

月見橋の部分は湿地帯で、住宅地になった今も一部跡が残っています。

 

上野芝月見橋跡の横の湿地帯

橋の跡の左にある緑の部分が、湿地帯の跡です。

湿地帯を埋め立てて道路を作るのは当然ですが、なにも金がかかる橋を作る必要はないと思います。ただでさえ資金難でピーピー言ってた会社なのに

橋は川や堀などを跨ぐ建造物ですが、日本では伝統的に「娑婆(俗世界)と別世界を分ける境界」という考えがあるように思えます。

遊廓や花街では、実際に川や堀で隔離されているところが多かったものの、そこに橋を架けることによって、別世界観を演出する働きがありました。

惚れた男と女が橋の向こうだけでは「男女」になれる。しかし、橋を渡り娑婆に戻ればそれは夢は幻の如く。決して結ばれることのなき二人、この密かな愛を結ぶのは、赤色に塗られた一本の橋のみであった。

と詩人になっている場合ではありません。

もちろん、上野芝は遊廓でも花街でもないのですが、「舞台装置」と考えればなかなか面白い仕掛けではないかと。
上野芝駅から向ヶ丘の住宅地へ向かうと、まず下り坂が待っており、下り坂が終わったところで平地になり、そこに月見橋がかかっている。月見橋の端に差し掛かると上り坂が始まり、そこが住宅地の入り口となります。

ディズニーランドもUSJも、ゲートにインパクトがあり「これから別世界に行くんだ」というワクワク感があります。月見橋の端が向ヶ丘へのメインゲートという建築的事実もあるので、これはやはり「演出」だなと。
出来た当時の下り坂から月見橋を通して住宅地を見ると、月見橋が「別世界」へ架かる橋に見える。その奥には、まだ自然の森が残る我が家の住宅地が。月明かりと橋の電灯が橋を照らし、さらに別世界への入り口ぶりを演出する。
これを狙っていたのではないかと推定しています。

 

月見橋には、もう一つの謎があります。

■月見橋のもう一つの演出!?

資料によると、月見橋の欄干の上には電灯が灯り、夜はライトアップまでされていたと記録にあります。

 

昭和8年頃上野芝の月見橋の絵

この絵にも、橋の上に「何か」がついていたことがわかりますが、それが街灯かどうかはわかりません。ただの装飾という可能性もある。

上野芝向ヶ丘町月見橋跡の上

今の月見橋の跡の上を覗いてみると、「何か」が上に載っていた跡が見受けられます。

 

そこで、いろいろな角度から月見橋のこの謎を探り当てました。しかし、私一人の力では限界があります。そこで、「助手」にヘルプをお願いしました。

公共図書館員のお仕事は、本の整理や管理はもちろんですが、もう一つ重要な仕事があります。それは、利用者が探している資料や書籍などを探すこと。利用者は、ある資料を探していると館員に伝えれば、ちゃんと調べてくれることがあります。

都道府県級、や政令指定都市級の図書館になると、「調査課」という部署があったり、「専門調査員」という郷土史の専門家が常駐していることがあります。経験が浅いバイトの館員では太刀打ちできない、マニアックな人たちの大きな味方です。こういう人をフル活用するっきゃない。
堺市立図書館には運良く専門の調査員が常駐しているので、向ヶ丘やその他のことを調べていると伝えた上で、ヘルプをお願いしました。まず挨拶として向ヶ丘と書いている資料をありったけ、山盛り持って来いと。

調査員の方が持ってきてくれた資料の中に、戦前の月見橋の写真がありました。

 

昭和7年か8年頃の上野芝月見橋の写真

昭和7~8年頃の月見橋の写真には、これは百聞は一見にしかず、橋の上に明らかに街灯が据えられています。

また、橋が途中で欠けているように見えます。おそらく手前が百済川に架かる部分で、途切れているように見えるところが小道になっており、その奥が「陸橋」の部分だと思われます。反対側も同じような構造になっていました。

 

上野芝の旧月見橋の先端部分

 

現在の反対側の先端部分ですが、このように途切れています。

調子に乗ってさらに探してもらうと、

 

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住宅地が開発中の写真や、

 

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ネットではほとんど出ていない、昭和10年の写真も出てきました。
この新たな2枚を見ても、月見橋の欄干の上には街灯があり、夜になると

 

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こんな風にライトアップされていたのでしょう。上の画像はあくまでイメージのためのジャンピングボードですが、これを出汁に当時の月見橋を脳内で再現し、想像力を膨らませて在りし日の月見橋を渡っていただきたい。

 

現在の上野芝向ヶ丘町と月見橋の跡

現在は、向かって左側しか残っていませんが、昔は右側にも橋が残っていました。

それがいつなくなったのか。これも航空写真で確認しました。

 

昭和36年1961年上野芝駅周辺と月見橋航空写真

昭和36年(1961)の写真ですが、まだ原型をとどめています。

 

昭和46年1971年上野芝駅周辺と月見橋航空写真

その10年後の昭和46年(1971)5月9日撮影の写真ですが、まだ原型をとどめています。が、住宅化の並がすぐそこまで迫っています。

 

昭和50年1975年上野芝駅周辺と月見橋航空写真

しかし、昭和50年(1975)1月24日の写真では。現在のように片側が商店街になり、現在の形となっています。

これでわかることは、月見橋が片側だけになったのは、昭和46年5月から昭和50年1月の間のどこかということ。だからと言ってなにがわかるというわけではないのですが、今後同じ疑問が沸いて調査する人への問題提起として。

 

昭和8年頃上野芝の月見橋の絵

何度も出てくる絵ですが、ついでにこのアングルで、平成29年(2017)現在の風景を撮ってみました。

 

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84年の月見…もとい月日を隔てた風景がこれ。
風景がすっかり変わっていますが、向かって右側の奥にある旧月見橋がわずかに存在感を出しているかなと思わないこともない。

中学生時代は当然、ただの住宅街にしか感じず「宝の山」を目の前にして何もできなかった悔しさが今になってこみあげてくるのですが、あなたが「ただの住宅街」と思っている場所も、掘ってゆくととんでもない「お宝」が見つかるやもしれません。
それは金やダイヤのように光り輝いていないけれども、新たな歴史という好奇心の宝石を発見できるやしれません。
そこから好奇心の羅針盤を好きなように進め、未知の海原へ漕ぎ出してゆくのも、また面白い航海になると思います。

毎日がつまらない、何のために生きているのだろうと悩んでいる若い人には特に伝えたい。あなたは大きな海原の前の海岸で、小さな貝殻を拾っているだけなのだと。

 

■追記(悲しいお知らせ)

この記事を書いて半年後(2017年9月)、用事で月見橋がある道路を車で通った時、思ってもみない光景に無意識にブレーキを踏みました。

 

2017年12月上野芝月見橋1

月見橋の片割れが、ついにお無くなりになってしまったようです。

橋の横はずっと湿地帯で、誰も手をつけない無主の地だったのですが、そこが埋め立てられていました。土地の活用の目星がついたのでしょう。それによって、残っていた橋の片割れがついに姿を消すこととなったようです。

 

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先端の部分はかろうじて残ってはいましたが、これも風前の灯火でしょう。こんな姿になるとは予想もしていなかったので、この記事が月見橋に対する弔辞になってしまうとは。

 

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80年の間、上野芝の喜怒哀楽を黙って見つめてきた月見橋の最期は、まことにあっけないものでした。コンクリートの成れの果てが言葉を出さず、ただそこにうずくまっていました。

しかし、私は月見橋にさようならは言いません。80年間お疲れ様でしたと労いを込め、彼女の最期を送りたいと思います。

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