新阪堺線(大阪市電阪堺線)と幻の浜寺駅

新阪堺阪堺電鉄鉄道史

 

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新阪堺最大の試練

昭和9年(1934)、新阪堺にとって最凶の苦難が訪れます。伝説の台風、室戸台風です。
大阪を直撃した風速60m/s(60m/sまで観測できる風速計が壊れたのでそれ以上)の猛烈な台風は東日本大震災の津波と同レベルの高潮を呼び、大阪ベイエリアに壊滅的な被害をもたらしました。

新阪堺室戸台風
(『アサヒグラフ』より)

大阪湾に最も近いライン(ほぼ海沿い)を走っていた新阪堺は、当然高潮の直撃をまともに食らってしまい、線路はこのとおり無残な姿に。

室戸台風新阪堺
(出典:『アサヒグラフ』)
三宝の車庫も、このとおり高潮と暴風により破壊されました。施設の6割をやられた新阪堺は半壊だというダジャレを弄する暇もなく、全壊の危機を迎えました。

ただでさえ経営難なのに泣きっ面に蜂。万事休すか…と思われた時、「神風」が吹きます。それが昭和12年以降のシナ事変(日中戦争)以降の軍需景気。
そもそも大浜や浜寺へのリゾート客を目当てに作られた新阪堺でしたが、その目論見は見事に外れたものの、沿線沿いに作られた工場向けの通勤路線に脱皮。おかげさまで経営はかなり落ち着くこととなりました。

新阪堺営業成績
『大阪府統計書』の数字を追っていくと、昭和12年以降に数字がえらい伸びていることが明白です。4年間で乗客数がほぼ3倍になり、昭和5~10年の足踏み状態と比べるとその増加ぶりは顕著なんてものではありません。

が、やはり経営地盤が弱っていたのが祟ったか、車両故障などのトラブルが頻発しました。改善の兆しも見られず、昭和19年(1944)に国の仲介で大阪市が事業を引き取るという形で買収、新阪堺はわずか17年の短い命を終えました。

大阪市に買収と同時に、浜寺~湊までの路線は不要不急路線として休止となりました。
湊ノ浜~出島間もすぐに空襲で施設が破壊されたか戦後すぐに廃線となったものの、残りの区間は大阪市電阪堺線(三宝線)として、昭和43年まで運行されていました。

大阪市電三宝車庫
(市電時代の三宝車庫。ぎんがてつどう様「なつかしの大阪市電」より)
戦後も20年以上存在していたので、「大阪市電として」は記憶に残っている地元の方も多いかと思います。

その残滓と呼べるものが、一つ存在します。
1時間に1本くらいの割合で、堺駅西口から住之江公園方面行きの大阪シティバス(旧市バス)が走っています。これはかつて、大阪市内から「新阪堺」の旧路線に沿って堺の出島までを結んでおり、大阪市電、いや新阪堺の背景放射的な路線でした。
私が小中学生のころは出島まで走っており、「出島」の方向幕を掲げたレモン色の市バスが走る姿は、濃緑の南海バスがうごめく堺市では明らかな異物感がありました。
大阪市バス?なんでこんな所に市バスが走ってんの?
と不思議な気分がしたものですが、こうして歴史を調べ背景を知ると納得できます。

 

新阪堺と本社

上記のとおり、新阪堺は設立当初からかなりの経営難だったのですが、後期には小林一三のパク…もとい手法を真似て沿線住宅地の開発に乗り出しました。
「墨江経営地」と名付けられたその新興住宅地は、現在の住之江区西加賀屋4丁目周辺にありました。「墨江」という名前はついているものの、実際の墨江はもうちょっと内陸側にあり、関係はありません。

 

昭和初期新阪堺住之江公園付近航空写真
昭和3年(1928)の写真の「墨江経営地」周辺には、家どころか建物一つみあたりません。ところが、

 

所和初期住之江公園付近航空写真新阪堺
昭和17年の写真になると住宅地が建設されています。
ここで心配になるのが、住宅地への電力供給。戦前は、本事業と大いに関係があるのと、利益率が高いこともあり、鉄道会社が電力供給事業を行っていました。
南海も堺を中心に電気供給を行っており、堺に自前の火力発電所も所有する事実上の「南海でんき」でもありました。阪和電鉄直営の上野芝向ヶ丘住宅地のように、ライバル会社経営の住宅地には、
「なんで商売敵に電気やらなあかんねん!」
と供給拒否を行っていますが、ここ「墨江経営地」は大丈夫だったのか、まあ大阪市内だったから大丈夫か?と少し心配になってしまいます。

墨江経営地のすぐ近くには、住之江公園もありました。

住之江公園

住之江公園野球場
(大阪市立図書館デジタルアーカイブより)

昭和5年(1930)に開園した住之江公園は野球場も併設しており、野球の試合もけっこう行われていたようです。その輸送も新阪堺にお任せとばかりに広告を打っていました。下の電車は、それ何か違うくない(実際はチンチン電車)と今なら虚偽広告扱いされそうですが、JAROもなかった当時はある意味「やりたい放題」だったのです(笑

新阪堺の本社は、その経営難を指し示すようにあちこちに移転しました。
最初は大阪市の中心地、西区京町堀にありましたが、すぐに都落ちするように現在の北津守周辺へ移転。昭和13年(1938)にはさらに郊外へ…それが「墨江経営地」こと西加賀屋4丁目でした。

 

新阪堺墨江経営地本社社屋
本社建物は、地元の方のHPによると「木造2階建て」とのこと。昭和17年の航空写真で見てみると、これではないかと。
また、昭和40年(1965)には空き地となり、50年代まで空き地のまま放置プレイだったという記述をもとに戦後の航空写真と照合すると、
ここで間違いないと思われます。

 

新阪堺の浜寺駅

新阪堺の残骸は、1980年代まで沿線の各地に残っていたようです。が、現在はほとんど残っていません。
廃線になってすでに50年以上の月日が経っているので、仕方ない面もあります。
が、唯一残っているものがあります。新なにわ筋と南海汐見橋線との交差にある跨線橋(鶴見橋跨線橋)です。昭和2年(1927)、新阪堺が開通した当時のものです。

鶴見橋跨線橋
ここ、実際に通るとわかりますが、「車用」にしては車幅がやけに狭い。
実際、積載4.5t以上のトラックと二輪車は通行禁止ですが、以前乗っていたプリウスでもここを通るときはヒヤヒヤしたものです。
不思議な跨線橋やなとは思っていましたが、新阪堺が南海を跨ぐ用だったと知ればさもありなん。

大阪市電三宝線と鶴見橋跨線橋
(ぎんがてつどう様「なつかしの大阪市電」より)

昔はこのようにチンチン電車が走っていたのですね。本当に鶴見橋跨線橋に市電が走っていた貴重な画像です。

 

浜寺駅公園内にも新阪堺の残滓は残っておらず、浜寺駅も「公園の北にあった」というだけで、はっきりとした場所は明確ではありませんでした。
が、過去の航空写真を見ると、新阪堺の路線がくっきり判別できます。

 

航空写真浜寺新阪堺
公園の北の端から、なんだか申し訳ございません程度に公園内に入っていたことが、この写真からわかります。
本当に申し訳ございません程度なのか、駅舎どころかプラットホームさえも、航空写真からは確認できません。
終着駅なのに、なんだか寂しい感じがします。

 

新阪堺浜寺駅
現在の地図と照らし合わせると、こんなところに駅がありました。
現在の浜寺公園北交差点から公園内に入り、北側のスペースにちょこんと停留所があったという感じでしょうか。
停留所があった(と思われる)場所は現在、松の木が生える緑地となっています。鉄路の跡は痕跡すら存在せず、自然に還っている感があります。

コメント

  1. mymy より:

    こんばんは。ちょっと位置が違いますし新阪堺ではありませんが、40年ほど前浜寺公園正面の門あたりから南西に幅の狭い線路状のレンガが埋め込まれたコンクリートの舗道がありました。(今はない?)こちらは阪堺線が現在よりも線路が伸びてて公園内に終点が存在して、そのモニュメントでは?とかいう話を聞きましたが、真偽はわかりません。

    • ちりとてちん より:

      今年64才の元堺市住民です。私もその記憶はあります。阪堺電鉄(第一期)の営業路線申請にも、浜寺から浜寺終点の200Mがあります。父母や親戚からも聞いたことがあり、小学校時代に遊びに行ったときにも見ているはずです。懐かしい思い出を呼び出して頂き、ありがとうございました。

    • 米澤光司 より:

      >mymyさん
      はじめまして、コメントありがとうございます。
      そのコンクリートの舗道みたいなもの、私もうっすらですが記憶があります。40年前ならあそこ界隈でよく遊んでいたので。
      その記憶が当たりかどうかは知りませんが、なかなか面白そうな話ではあります。

  2. 西天王 より:

     西天界隈(西天下茶屋近辺)で生まれ今も住んでいる70才老人です。
     幼少の頃、この電車で大浜へ海水浴によく行きました。市電三宝線と言っていましたが、明治生まれの祖父は「新阪堺線」と呼んでいました。
     津守電停から乗車し、加賀屋付近に至ると、一面の農地の中を電車は走り、線路は無舗装の土の上、しかも電車の横を農夫が牛に荷車を曳かせて通っていました。市電は舗装道路の敷石の上を自動車と一緒に走るものと思っていたので強い違和感を持ちました。
     大和川を渡り三宝電停を過ぎると間もなく国道26号線に合流し、ほどなくガタガタとポイントを横断しました。これが記事に記載のダイアモンドクロスで、既に東西の線路は無くダイヤモンドクロスだけが残っていました、子供ながらどこに行く電車が走っていたのか疑問に思っていました。
     やがて、大浜で埋立が始まり、この電車で海水浴に行かなくなったので、いつポイントがなくなったのかは分かりません。昭和30年代前半の記憶です。

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