遊女になった理由
『千と千尋』の「親を助けるために必死に働く子供」という構成自体、遊廓の匂いがプンプンします。そもそも親が他人のところで無銭飲食ってあーた。
大人、特に子供を持つ親にとっては耳が、いやそれ以上に心が痛くなって欲しいようなストーリーですが、遊廓にいた女性たちは何も好きで苦海に身を落としたわけではないのです。
遊廓は警察や行政に厳しく管理されていたのですが、昔は遊女の性病や健康診断を行う専門病院が、都道府県に必ず一つ存在していました。
その一つに、大阪の難波にあった「府立難波病院」がありました。難波病院は大正13年(1924)住吉区に移転、公娼の廃止と共に一般病院となり、現在は府立急性期・総合医療センターと名前を変えて現存します。
難波病院の院長に、上村行彰という人物がいました。彼は遊女を診察しているうちに彼女らの生態に興味を持ち、今となっては貴重すぎるデータを遺してくれています。
彼が大正7(1918)年にまとめたデータの中に、「娼妓となった原因」という項目があります。遊廓で働く遊女809人にヒアリングをし、遊郭で働く理由を聞いたところ、以下のデータが出ました。
家の借金や貧窮のため:364人(44%)
家族を養うため:86人 (10%)
その他家族の事情(親の事業失敗など):55人 (6%)
「家族の事情」で遊女になった者が半分以上、特に「家の借金や貧窮」が44%と最多となっています。
遊郭は誰でも働けるわけではありません。遊女になるには、「遊廓で働かざるを得ない理由」を警察に提出し、審査してもらう必要があります。もちろん、審査で落とされることもあります。
よって、審査が通りやすい「家族の貧窮」を書いて提出していた事情もあるものの、筆者は「それだけじゃない」と述べており、「親が無職、または働いていても生活に困るくらい遊び呆ける『因襲的貧民』もある」と結論づけています。
あと、生々しい事情と言えば、「口減らし」があります。
『口減らし』
家計の負担を軽くするために、子供を奉公に出したり養子に出したりして、養うべき家族の人数を減らすこと。
コトバンクより
口減らしの典型的な例が、NHKの連続テレビ小説の殿堂、「おしん」です。
ドラマの背景でもあるように、家族が多いとそれだけ食べ物が必要です。しかし、食うもののキャパが、気候が厳しい東北などではそもそも狭い。なら家族を減らせば食い扶持が減る…基本的にはそういう発想です。
生々しい話ですが、山形県某市の資料によると、その地方で女の子が生まれると大喜びだったそうです。なぜなら「男より売れる」から。また、昭和初期の凶作による「娘の身売り」が起こった頃には、人買いと呼ばれた女衒の出張所が東北のあちこちにあり、親が女衒に「うちに娘がいるからどうだ」とたれこみ、実の娘を「買わせた」といいます。
遊郭の話になると遊女になり、遊女の話になると決まって
遊女さんたちかわいそう…
という流れになります。
遊女かわいそうは、感情としてそうなってしまいます。が、「かわいそう」はすなわち思考停止。その涙をぬぐって理性的に当時の社会情勢を見つめていくと、その「かわいそう」の根本に貧困問題や、親の無理解があるのです。そこを知らずに、いや、確証バイアスでガン無視して表の事象にしか見ないから、この問題が解決しなかったのです。
遊女と言えば東北から身売りで…というイメージが強いですが、それも実は一面的なもの。こちらも信頼できる一次資料が存在します。
1位:長崎県(6.9%)
2位:福岡県(6.3%)
3位:熊本県(5.9%)
4位:山形県(4.6%)
5位:東京府(4.0%)*1
出典:内務省警保局内部資料(昭和5年(1930)6月時点。娼妓50,355人中)
*1:当時は東京都ではない
「遊女=東北=身売り=かわいそう」というイメージで凝り固まっている人には信じられない(人によっては故意に無視する)データでしょうが、現実は九州でワンツースリーを独占。確かに東京だけなら東北出身者(主に山形・秋田県)が多いのですが、逆に言えば「遊女=東北」な人は東京しか見ていない証左でもあります。
神戸の福原遊郭になると、長崎県出身だけで2割近く。兵庫県全体では九州女の割合なんと46%。地元関西2府4県出身の遊女(13.7%)が束になっても叶いません。
では、なぜ九州出身者が多いのか。
遊郭とて日本という大きな経済の歯車の一つである以上、需要と供給の法則からは逃れられません。つまり、九州出身者を遊郭や貸座敷側が欲していたと推定しています。
九州の女性と言えば情が深く、「博多へ来る時ゃ一人で来たが、帰りゃ人形と二人連れ」と博多節に唄われるほど。
また、佐世保は海軍時代、「士官の墓場」と呼ばれていました。佐世保芸者の情の深さに魂を抜かれるため、佐世保で青年士官時代を過ごした軍人は、佐世保芸者にメロメロになり出世しないというジンクスまでありました。
私は遊里史を研究する前からこの海軍話を知っていたので、娼妓出身地第一位が長崎県と聞いて、ああなるほどなと納得した次第であります。
ああ、そう言えば、佐世保出身の女性に惚れて長崎県に移住してしまった身近な知人が一人いましたわ…。
遊郭で働く女性たちがここで働かざるをえない事情は、もう一つあります。それは教育レベルの低さ、つまり「低学歴」。
実際に遊郭で働いている女性の学歴はどうだったのでしょうか。ここに信頼すべきデータがあります。
小学校を出ているだけまだマシ、それどころか「無就学」という、小学校にすら行っていない人も1割以上いることに驚きます。
同じ大正時代、上村行彰が大阪の遊女たちから聞き取った学歴は以下の通り。
この学歴は、道府県によってけっこう差があるそうなのですが、上村のデータによると大阪の遊女たちの4分の1(約26%)は大阪出身で占められ、近畿2府5県で半数を占めています。他は四国・中国・九州の順に多い。
また、昭和9年(1934)に白石遊廓(北海道札幌市)の事務所の書記の回想によると、
「ほとんど(の遊女)が尋常小学校卒程度で、字も満足に書けない、自分の名前がやっとという有様でした」
『ものいわぬ娼妓たち』
「自分の名前」も、おそらくはひらがなカタカナが関の山、漢字も書けないレベルだったのでしょう。
遊女はかわいそう…遊郭の話題になると、この面ばかり取り上げられます。特に女性が遊郭のことについて話すと、こういう感情に走る人が多い。しかし、それは一面に過ぎません。「かわいそう」の一つは教育、果ては親の無教養や教育に対する無理解にも一因があることを、決して忘れてはいけません。
「湯女」とメイドカフェ?
千尋が働くことになる「油屋」というのは銭湯のことですが、江戸時代、お風呂屋には湯女と呼ばれた女性たちがいました。
湯女とは何か?手元の辞書にはこう書かれています。
■湯女(ゆな)
①温泉宿にいて客の接待をする女
『大辞林』より
②市中の湯屋(銭湯)にいた売春婦
湯女とは、上の意味にもあるとおり、元々は銭湯で客の垢すりを落とすサービスをする女性でした。が、それがだんだんと性のサービス、今で言うソープランドのようになっていきました。湯女はソープランド姫のご先祖様と見ることもできます。
江戸にはもちろん、公許の遊郭として吉原が存在していました。が、「庶民的」な銭湯にいる湯女が人気を集め、遊廓を脅かす存在になりました。こちらの方が気楽に行けるし、何より風呂行ってくるわ~という大義名分で風俗に行けるのだから。
しかし、それにつれて風紀も乱れてきたという理由で湯女は取締の対象になり、今で言う警察のガサ入れで大量の湯女が吉原送りになったこともありました。
元々はそんなつもりで誕生したわけではないけれども、次第に性風俗っぽくなったものは湯女だけではありません。
大正時代末期に大阪の道頓堀に出現した「カフェー」もその一つ。「カフェ」ではありません。「カフェー(カフヱー)」です。
喫茶店と違うのは、「客に『女給』と言われる女性が隣につく」ということ。
最初はそれこそ、女の子としゃべりするだけでした。ところが、大阪のカフェーがエロいサービスを売りにしたところ、それが大ウケ。たちまち全国に広がりました。
カフェーは、大正末期~昭和はじめの不景気時代には社会現象にもなり、『エロ・グロ・ナンセンス』の象徴ともなりました。
このカフェーは、昭和10年前後に法的に「喫茶店」と「バー」などにくっきり区分され、戦後に赤線(特殊飲食店)として名は復活するものの、現存はしません。が、風俗営業法第二条第二項に、「待合、料理店、カフェーその他設備を設けて客の接待をして客に遊興又は飲食をさせる営業」と法律用語として残っています。
そして時代が昭和から平成に、世紀が20世紀から21世紀に変わり、カフェーは形を変えて「復活」しました。その名はメイドカフェ。
初期のメイドカフェは、有名なトミー・リー・ジョーンズ出演の缶コーヒーBOSSのCMのように、
メイド姿の女の子が横についてくれ、「萌え萌えじゃんけん」や、オムライスの「あーん」もしてくれます。
何気ないシーンに見えますが、これはまさしく「平成のカフェー」。アルコールとオプションの「エロサービス」があれば、昭和初期のエロカフェーの完全復活です。
CMでおおっぴらにやってたので、当時は受け入れられたのだと思いますが、実はこれ、思い切り風俗営業法違反。「カフェ」は「萌え萌えじゃんけん」どころか、従業員が客の横について私語する自体アウト。今やったら、一発で営業停止でしょうな。
よって、今のメイドカフェはこんなことをやっていない、というかできないはず。風俗営業店の許可を取っていれば話は別ですが…。