ヤングタウン跡は今…
ヤングタウンの跡は現在どうなっているのでしょうか。
まずは泉北高速鉄道の泉ヶ丘駅から始まります。
泉ヶ丘駅からヤングタウンの跡は、距離的にはそれほどでもありません。直線距離だと5~600mといったところですが、本人の距離センサーが生まれつき壊れて全くアテにならないので、実際の距離はわかりません。当時のパンフによると800mだそうなので、今回に限り私のセンサーはまんざらハズレではなかったか。2~300メートルなんてただの誤差です(笑
ところが、元々丘陵地を切り開いたところに建てられた場所柄な上に、泉北ニュータウンは歩行者道路が区分けされており、事実上パンジョとジョイパーク泉ヶ丘というショッピングモールを2つ通らないと行けない仕組みに。Google mapを見るとすぐ近くなんですけどね~。
そんな遠回りはイヤだという人は、バスがあるのでそれでもいいでしょう。私は気温40℃近い真夏に行ったこともあり、もう年だから無理は禁物と素直にバスで現場へ向かいました。
上述のとおり、ヤングタウンの大阪府供給公社棟はすべて取り壊され、現在はマンションが建てられています。もともと駅近の立地条件だけあって、マンションを建てるにはもってこいですね。
公社住宅の跡にはもう一つ、東大谷高校という学校も建てられています。東大谷高校といえば大阪市内の阿倍野にある女子校でしたが、こちらも時代の変化と共に共学化、同時にこちらに移転したそうです。
旧事業団住宅だった場所も、現在は一般マンションや分譲住宅が立ち並ぶ住宅地になっています。私のPC内フォルダには、そこの写真が1枚もありません。撮る価値なしと判断したのか、熱中症で頭をやられていたのかのどちらか。たぶん後者だと思います。
ヤングタウンのバス停は今…
現地調査の前に一通りヤングタウンのことを調べると、ある情報が眼に入ってきました。
ヤングタウンはなくなったけど、バス停の名前はまだ残っている
ヤングタウンの前にはバスも通っており、バス停も設置されていました。その名はそのまま「ヤングタウン」。初めてこのバス停を知った小学生の時、漢字ばかりのバス停の中で孤島のように存在するカタカナのバス停に、不思議な興奮を覚えました。なんでこれに食いついたのかはわかりませんが、このカタカナは一体何なんやと、小学生の好奇心をくすぐるには十分でした。
そのヤングタウンのバス停も、ヤングタウン自体もなくなったけれども、その北口、以前の位置なら民間棟の北の端に「ヤングタウン北口」という名前のバス停がまだ残っていると。
40℃近い炎天下で噴き出る汗をぬぐいながら、ヤングタウン唯一の遺構が残るそのバス停へ向かいました。地図で見るとそれほどでもないですが、何せアップダウンが激しく、運動不足の老体の身体ではかなりこたえました…。
そして、ヘトヘトになりながら目的地へ到着、私の視界に現れたものは!
あ、あれ???
ここは「ヤングタウン北口」という名前ではなかったのだろうか?
もしかしてバス停間違えた?とGoogle mapを見てみても、位置は間違っていないのでここのはず。私の頭上に「???」が飛び交っている中、目をバス停の下へやると。
Oh My God!!
変わったのはいつかわかりませんが、堺市のHPには2017年3月の日付で「そろそろバス停の名前変えない?」という市民の声が寄せられていました。
HP上では「改名?考えときますわ」と事務的回答な南海バスでしたが、私が訪問した2020年7月にはすでに「三原台北」に改名。それも堺市HPにある市民の提案名のまま。
2017年時点ではヤングタウン北口だったことがHPから明らかなので、私が訪問した2020年夏の間に変わったのでしょう。それも、張り紙からしてそんなに古くない時期に。いずれにしても、少し来るのが遅かったようでした。
ちなみに、「ヤングタウン」と「ヤングタウン北口」は同じ南海バスでも管轄が違うそうで(バスの運ちゃんに確認済み)、今の東大谷高校の前あたりにあった泉ヶ丘営業所管轄の「ヤングタウン」(今は「東大谷高校前」に)は、2013年4月1日に改名されました。
その後、ある情報が私のもとに飛び込むことになりました。
コメント
雨上がりのぬかるみの中、大阪府立勤労青少年会館へ出勤し、まだ机もなく、床におかれた黒い電話器が鮮明に残っています。
それは50年以前のことですね~
1972年の2月15日のことです。
あの骸骨のようなヤンタンシンボルマークのレプリカ、久し振りに手に持ちました。
真鍮製でずっしりと重く、自分の生きざまをと重なりました。自宅の書棚や段ボールのままのヤンタン資料が眠っています。人生と想い出の資産です。
地元住民です。
「にれの町」ですが、今月(2021年9月)ついに解体が始まってしまいました…
これが無くなると、本当にヤングタウンが過去の記憶になってしまうのだな…と寂しく感じます。
>Pわらびもちさん
コメントありがとうございます。
解体の話は別の地元の方から伺っていて、本来なら金曜日に有給取って帰阪し「にれの町」の最期を写真に撮っておこうかと思ったのですが、
間に合わなかったようですね…残念です。
近々に妻が所要で初めて泉ヶ丘に車で行くということで道案内のためにリサーチをしておりましたところ、ふと、確かこの辺りに昔ヤングタウンというものがあったはずと思い出し、このページにたどり着いた老人です。自分が高校生、ながら勉強で深夜放送ばかり聞いていた頃、繰り返しラジオCMで耳にしていたのが半世紀も経った今でも遠い記憶の中に残っていたものだと思います。このページを拝見するまで名前以外の詳しいことは知らなかったので大変参考になりました。これまで全く縁のなかったのにもかかわらずどこか懐かしい思いを深くしました。せっかくの機会なので今度周辺を妻と散策し、”ご昭和”させていただこうと思います。
大阪府立勤労青少年会館2Fの指導かに勤務しておりました。多くのイベントを企画運営し、同年代の地方出身の方々と昼夜共に行動を共にしておりました。本当に楽しかった思い出がたくさんあります。大阪に定着されたヤンタン出身の方々との交流は現在も続いています。当時の資料は手元にないのですが・・自分が書いたニューズヤングタウンの記事など見てみたいものです。
>指導課美穂様
コメントありがとうございます。拙記事によって楽しい思い出を思い出していただき、ありがたく思います。
>自分が書いたニューズヤングタウンの記事など見てみたいものです。
全巻揃っているかは定かではないですが、堺市立中央図書館がかなりの数のバックナンバーを保存しており、もちろん閲覧も可能です(私も執筆の参考にしました)。
米澤様、情報有難う御座います。又、ヤンタンに関するサイト立ち上げて頂き有難うございます!ヤンタンは私にとって青春の1ページです…ニューズヤングタウンは堺市立中央図書館に保管閲覧出来るのですね!今は地方在住ですが、時折帰省してますので、中央図書館に赴いてみます。
三原台、懐かしすぎます
涙、涙
えーーん
しかし。電気代異常に高かったなあ
米澤様 元指導課美穂様
私も50年ほど前ヤンタンの三原台の企業棟に住んでいました。
そのとき勤労青少年会館2階には何度も足を運ばせていただきました。遠藤先生が指導主事をされていたように記憶しています。まだヤンタンが出来たばかりの時で、ポスターを貼って部員募集をし、サッカー部を作り、妻とは茶道部で知り合いました。本当に懐かしく当時のことを思い出しています。
ありがとうございました。
はじめまして。
ヤングタウンの跡地に建ったマンションに住んでる者です。
偶然見つけて興味深く読ませて頂きました。
当時の写真やパンジョの事等も合わせて、実に興味深い内容でございました。
ありがとうございます。
現在は泉ヶ丘プールも無くなって、ヤングタウン前の岸池も公園化されて、数年後には阪大病院がすぐ近くに移転してきます。
時と共に街並みもどんどん変化していくものですね。
泉ヶ丘周辺は特にそう感じます。
ただ、ヤングタウンのすぐ傍にあるガソリンスタンドでは今でも給油が終わった際に「どちらに帰られますか?」と聞いてこられ、西から出る際は「ヤンタン方面にお帰りで~す!」と声掛けをしてくれます。
地元民の中では、ヤングタウンはまだ記憶の中で健在してるようですね。
ガソリンスタンドの西出口は東出口の間違いでした。
交差点の角にあるENEOSのガソリンスタンドです。
近くに来られた際には寄ってみてください(笑)。
野出榮一です。
当時、府立勤労青少年会館(青少年の町事務局)に勤務していました。
最近、ヤンタンの元職員の数人で再会ができればという話がありました。
あれから半世紀がたちましたが、自宅には、当時の資料がたくさん保管してあります。
中でも「ニューズヤングタウン」は創刊号から最終号まで、そろっています。
ヤンタンで生活されて居た頃が判れば、周辺年月の発行号のコピーを差し上げようかと
考えています。
よろしければ、ご連絡ください。
assist-nodeyan@nifty.com