真田山陸軍墓地-大阪の中心にある異空間

歴史探偵千夜一夜
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日清戦争戦没者の墓標

「鹿児島賊」や「生兵」のエリアから移動します。

真田山陸軍墓地

まだまだ同じような墓がズラリと並んでいました。墓標をチェックすると、今度は明治廿七年 or 明治廿八年という文字が目立ちます。
明治27年に28年は、西暦に直すと1894年に1895年。

筆者
筆者

ははん、今度は日清戦争やな


これは容易に推測がつきます。
それを裏付けるように、墓標の「戦没地」が「清国」だらけ。清国はもちろん今の中国のこと。
それに紛れて、少数ではありましたが、

台湾○○ニ於ヒテ戦病死

とかなんとか書かれているものもありました。

日清戦争の主戦場は朝鮮半島と中国の東北部。台湾が出てくるのは何故!?と思うかもしれませんが、これは日清戦争の講和条約、「下関条約」で日本領になった台湾の反乱の「鎮定」に赴いた兵士の墓なのでしょう。

戦病死の意外な現実

ここで気付いたことがあります。

確かに戦争で戦った兵隊の墓につき「戦死」もいるのですが、非常に目立つのが「戦病死」という文字。
戦病死とは、実際に敵に弾に当たって亡くなったのではなく、現地で病気に罹って亡くなったということ。

更に墓地を探索してみる

真田山陸軍墓地

そして、将校たちの墓も一画にあります。
一般兵卒と違い墓石も立派です。調べてみると、兵隊の墓石は和泉砂岩という安物の脆い石を使っています。だから風化が激しく朽ち果てているのか。

事実、ちょっと修繕せなあかんのとちゃうの?と思うくらい風化が進んでいるものもけっこうあります。
「旧真田山陸軍墓地とその保存を考える会」というNPO団体が、保存を大阪市などに求めているようですが、なかなか事は進まないらしい。

対して、将校や偉いさんクラスの墓は、上の堀内利国の墓もそうですが、保存状態がかなり良好なのです。ホンマに明治時代に作られたもんか!?というくらいのものまであり、同じ石でもこれだけ違うものなのかと、違う所で感心してまいました。

そして、兵隊クラスで個人での墓標があるんはこの日清戦争まで。
日露戦争になったら戦死や戦病死が多すぎて墓を作る土地がなかったのか、

真田山陸軍墓地の日露戦争合同墓

こんな風に合葬碑として省略されてしまっております。

「明治三十七八年戦役」(明治37年=1904年)とはまさしく日露戦争のことです。

真田山陸軍墓地の満州事変合葬碑

満州事変も「省略」されています。

「俘虜」たちの墓標

また、ここに埋葬されているのは何も日本人だけではありません。

日清戦争や第一次世界大戦で捕虜になり日本で死亡したと思われる、清国(中国)人やドイツ人捕虜の墓もあります。

真田山陸軍墓地俘虜墓
左が「ルードビッヒ・クラウト」、右が「ヘルマン・ゴル」と読めます。
墓石によると彼ら二人は大阪の衛戍病院で亡くなったそうですが、よく見ると墓の一部が削れています。
これは元々身分を表すために「俘虜」という文字を入れていたのですが、昭和に入り当時の第四師団長が、

師団長
師団長

墓に「俘虜」って…気の毒やないかい

「俘虜」の文字を削れと命令したそうです。

泉大津市ロシア兵の墓

大阪南部の泉大津市には、日露戦争中に捕虜収容所が作られました。

そこでも故郷の土を踏むことなく捕虜たちが亡くなったのですが、市の墓地の片隅に捕虜の墓があります。市民により綺麗に整備され、東京のロシア大使と大阪領事館の公使も110年前の英霊たちに敬意を表するため訪れています。

真田山の方も、ドイツと中国の領事館に慰霊祭の参加を呼び掛けています。
ドイツは毎回参加しているものの、中国は「清国と中華人民共和国は関係ない」と参加を渋っているとのこと。

都合がいい時だけ「同胞」と持ち上げて、利益がないとわかったら「そんなの関係ねー」。まことに中国人らしくて微笑ましい対応です。
というか、「関係ない」って言っているなら、清と中華人民共和国は国として「連続」していないと政府関係機関が公に言ってるようなものではないか?
それなら「中国68年」であって「中国4000年」と言う資格ないのではないか。
これを突っ込んだら中国はどんな詭弁を繰り出すのか。一度突っ込んでみたいものです。

それにしてもこの陸軍墓地、端から端まで歩いてみるとかなり広いことがわかります。
東京ドーム何個分かはわかりませんが、敷地は4500坪あるらしく、昔は隣にある真田山小学校の敷地も合わせて8000坪もあったそうです。
人里離れた郊外なら、これより大きい墓地や霊園はいくらでもありますが、大阪市内の真ん中にこんな広い墓地があるなんて、大阪人数十年やっていて今まで知らなかったです。

実際に敷地内を歩いていて驚いたのは、市内のノイズがほとんど耳に入らず、不気味なほど静寂な空間だったということ。人もほとんどおらず、聞こえるのは私が草を踏む音のみ。今でもあんな所にこんなものが、と少し信じられない気持ちもあったりします。

この墓地、戦前は陸軍がきちんと管理していて遺族以外は立ち入り禁止、入口には衛兵が立っていたとか。それが戦後になったら軍もなくなり、行政も放置状態で次第に忘れられた存在になってしまいました。
(今は大阪市と「保存の会」のボランティアが管理・整備)
墓守の方が敷地内に住んでる(らしい)ものの、墓石はおろか敷地内は草が生え放題、墓も一部を除いて最近墓参りに来たという形跡もなく、崩壊、と言うたらオーバーですが、確実に荒廃という名にふさわしい感じさえ見受けられました。

国に命を捧げた人たちの…という以前に、これは立派な近代遺産。ここまで残っているのは珍しい。

国とは言わないけれど、大阪府も大阪市もこういう遺産の保存・活用に税金をかければいいのではないかと。もちろん、国が管理主になり「保存の会」に委託するという形がベストですが、今はベストよりベターを目指すべきではないかな、というのが個人的見解です。

真田山陸軍墓地の場所

この地図の通り、大阪の陣の「真田丸」の跡がすぐ横にあります。大河ドラマ『真田丸』の影響で、三光神社をはじめ真田丸跡にも戦国時代ファンが大勢詰めかけたことは想像に難くありません。

しかし、その横にある真田山陸軍墓地に気づいた人は、果たして何人いたでしょうか。
ここは日本の近代史が凝縮したよーな所とも言えます。近代史の遺産として保存した方がいいんじゃないだろうか、というのが率直な意見です。
偶然見つけた「副産物」とは言え、ある意味良いものを見させていただきました。

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