真田山陸軍墓地-大阪の中心にある異空間

大阪史
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日清戦争戦没者の墓標

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真田山陸軍墓地

まだまだ同じような墓がズラリと並んでいました。墓標をチェックすると、今度は明治廿七年 or明治廿八年という文字が目立ちます。
明治27年に28年は、西暦に直すと1894年に1895年。
「ははん、今度は日清戦争やな」
これはもう、すぐにわかります。
それを裏付けるように、墓標の「戦没地」が「清国」だらけ。清国はもちろん今の中国のこと。
それに紛れて、少数ではありましたが、

台湾○○ニ於ヒテ戦病死

とかなんとか書かれているものもありました。
日清戦争の主戦場は朝鮮半島と中国の東北部。台湾が出てくるのは何故!?と思うかもしれませんが、これは日清戦争の講和条約、「下関条約」で日本領になった台湾の反乱の「鎮定」に赴いた兵士の墓なのでしょう。

戦病死の意外な現実

ここで気付いたことがあります。

確かに戦争で戦った兵隊の墓につき「戦死」もいるのですが、非常に目立つのが「戦病死」という文字。
戦病死とは、実際に敵に弾に当たって亡くなったのではなく、現地で病気に罹って亡くなったということ。
当時はもちろん抗生物質などなく、戦場の病院の衛生状態も良かったわけではない。さらに赤痢などの伝染病が蔓延していたので、戦死より戦病死の方が多かったそうです。これは日本だけではなく、世界全部で言えること。
こんなデータがあります。

■日清戦争における陸軍兵士死亡者数
戦死:1,417人
変死・死因不明:177名
戦病死:11,894
(陸軍参謀本部の統計より)

何ということでしょう!
実際に弾に当たった人なんかごく少数、「戦死者」の9割以上が「病死」やん。というか、実際に戦って亡くなった人はたった1417人かい。

何故そんなに「戦病死」が多かったのか。
コレラや赤痢、腸チフスなど、今でもほっといたら死んでまうような伝染病が打つ手もなく放置されていた事情もあります。
上述した西南戦争の時も戦地で赤痢やコレラが現場で流行り、手塚治虫の曽祖父に当たる手塚良仙も軍医として従軍中、赤痢で「戦病死」しています。

戦病死がゴロゴロ出たいちばんの原因の、とある病気があります。それが脚気。読みは「かっけ」。誰や、「あしげ」って読んだのは。

上の日清戦争時の「戦病死者数」をもう少し細かく見てみると、以下の通り。

■日清戦争の戦病者・戦病死者疾患の順位(※戦後の台湾での戦いも含む)
①入院患者数
1位:脚気 30,125(26.1%)
2位:赤痢 11,164名(9.6%)
3位:マラリア 10,511名(9.1%)
4位:コレラ 8,481名(7.3%)
②死亡患者数
1位:コレラ 5,709名
2位:脚気 3,944
3位:赤痢 1,944名
4位:急性胃腸カタル(急性胃炎・腸炎の古い呼び名)1,703名
(出典:山下政三『明治期における脚気の歴史』東京大学出版会 1894.6.6-1895.12.31までのデータ)

脚気は、端的に言ってしまえばビタミンB1欠乏症です。が、当時は原因はもちろんビタミンB1はおろかビタミンという存在すら知られておらず、謎の病気として結核・梅毒に次ぐ「日本三大国民病」と呼ばれていました。

脚気は江戸時代から存在し、白米を食べすぎると罹ることは経験則でわかっていました。よって、麦を中心とした食事療法が有効だということは漢方の世界では常識でした。
当時の脚気予防かつ治療薬が「そば」。関東、特に東京でそばが食べられるのも、一説には脚気予防として食べられたのが定着したものと言われています。実際、未精白のそばにはビタミンB1が豊富なので、食べると一発で快方に向かうそうな。今ならラーメンもB1が豊富なのでOK1

しかし、別名を「江戸患い」と言われていた通り、江戸以外では一部の裕福な人たち以外あまり目立つ病気でもありませんでした。
それが「大」がつく社会問題となったのは、明治以降の徴兵制からでした。当時の一般庶民の主食は麦飯、それが軍隊では白い飯食いたい放題。陸軍も「血税」などという徴兵のイメージを和らげるため、

「軍に入れば銀シャリがたらふく食えるぞヒャッハー!!」

というのをキャッチコピーにしていました。
その結果、入営したら約束通り銀シャリをたらふく食わせないといけない→ご飯を「おかず」にして栄養が偏る→脚気患者が続出するハメに。
白米をあまり口に出来なかった当時の脚気は「贅沢病」でしたが、贅沢病なんて暢気に構えてられない事情もあります。脚気は死亡率10~20%とヘタなガンより高い。放置したら100%死あるのみ。これでは戦争になっても戦場に行くまでに倒れてしまいます。

実は、明治天皇も脚気にかかり、終生苦しんでいます。
明治天皇は漢方の「脚気には麦食が良い」という慣習的な療法を望みます。が、西洋医学万能に凝り固まった側近たちが漢方医を近づけず、結果天皇の症状は悪化。内親王まで脚気で亡くなってしまう有様。それ以来、明治天皇は大の西洋医学嫌いになってしまいました。

この脚気対策、最初は陸海軍共に頭を悩ませていました。
陸軍はドイツ式なので、「病気の原因はすべて細菌のしわざである」というドイツ式に従い衛生改善にシフトしたものの、患者数は増える一方。

対して万事イギリス式の海軍は、臨床を重んじるイギリス医学に基づいて調査すると、

・患者は和食中心の兵や下士官に多く、洋食中心の士官には患者が少ない
・そもそもイギリス海軍には脚気患者がほとんどいない

という傾向があらわれることを発見。これは食事に原因ありと踏んだ海軍は、当時最先端科学だった栄養学と統計学を採用しました。
試しに、ある軍艦に長期航海をさせ逃げられない状態にした上で、乗員全員の食事を洋食(パン食)中心に変えると、あれだけ多かった脚気患者がゼロに。海軍の予測は当たりでした。

しかし、万事が万事ドイツ式医学の陸軍は、「細菌の仕業に違いない」という考えに凝り固っていました。経験則から「麦飯にしたら患者が激減する」は頭ではわかっていたものの、「銀シャリ食い放題」をキャッチコピーにしている以上、やめるわけにもいかない。
あまりの脚気患者の多さに、陸軍トップは一度麦飯にチェンジせよという命令を出したものの、士気にかかわると現場から反対論が出て中止。

陸軍vs海軍の「脚気戦争」は、日露戦争で決着がつきました。
脚気患者数の陸海軍比較@日露戦争は、以下の通り。

陸軍:約25万人 内死者約3万人
海軍:87人 内死者ゼロ

この痛い経験で脚気の犯人がおぼろげに判明。海軍の食事改革を断行した 高木兼寛海軍軍医は男爵の爵位を得ます。

敢えて陸軍を弁護すると、脚気=細菌説は当時の医学界の常識でした。陸軍軍医でもあった文豪森鴎外も、細菌説の熱烈な支持者でした。
「いや、違うぞ」と観点を変えた高木兼寛の見方が、当時の常識に照らせばとんだ非常識でした。ビタミンすら発見されていなかった当時の栄養学なんて、雲をつかむオカルト扱いでしたから。
高木説が当たりということが科学的に証明されたのは、1910年に鈴木梅太郎がビタミンB1を発見、それが脚気を予防する効果があるとわかってからです。

明治天皇は述べています。

明治天皇
明治天皇

「病気に関しては漢方・西洋医学の区別なく研究すべきであり、お互い協力すべきである。脚気については漢方の麦食療法が確実に効果を挙げている。それを西洋医学の方が学ぶべきではないのか」

明治天皇のお言葉、ロジカルでかつごもっとも。

脚気の日本史から学ぶ歴史の教訓は、

「最先端の科学でも盲信することなかれ。違う見方の説も一考の余地あり」

というところでしょうか。

ある意味日本海海戦以上の成果を上げた海軍でしたが、ここで慢心してしまい脚気患者が増えていきます。
それを憂慮したか、大正時代から昭和初期にかけて優秀な主計担当2に、科学として成立しつつあった管理栄養学を学ばせるべく、栄養専門学校に派遣しました。
そこで学ぶ内容は、今でこそ当たり前の常識になったカロリー計算など最先端のものでした。海軍は昭和一桁の、カロリー何それおいしいの?という時から学び、食事の改善・向上に活かしていました。

当時の海軍経理学校のテキストやテスト問題が残っていますが、現役の管理栄養士に問題を見せると、約100年前に、それも軍隊が現代の栄養専門学校と同レベルの教育してたのかと驚いていました。

対する陸軍も日露戦争で懲りに懲りたか、軍隊内のメシを麦飯にチェンジ。それ以来脚気の大量発生はなくなりましたが、それでも腐れ縁だったか終戦までなくなることはなかったそうです。
その陸軍が太平洋戦争中の昭和18年、某製薬会社に脚気予防薬の開発を依頼しました。
終戦で依頼主の陸軍は消滅しますが、製薬会社はやり甲斐があると思ったか独自で研究を続け、昭和30年代にある薬(サプリメント)を開発します。

アリナミンAと陸軍

それが今のアリナミンAです。

アリナミンAの「アリナミン」は、陸軍依頼の脚気予防薬開発中に見つけたビタミンB1誘導体のことで、それを凝縮したものだそう。
陸軍にまつわる薬といえば正露丸が有名ですが、アリナミンAも隠れた陸軍との接点がある薬だったのです。

閑話休題。

明治陸軍は、なにもカチンコチンの細菌論者ばかりではありませんでした。
明治初期の陸軍黎明期に、堀内利国という陸軍軍医がいました。
彼は米麦混合飯の神戸監獄に脚気患者がほとんど発生しないことに注目。そこで部下を派遣し調査させたところ、脚気の原因を栄養の偏りと見抜きました。
堀内は細菌説にこだわる上層部を無視、庶民に偏見が少ない大阪の部隊で麦飯を試してみたところ、麦飯を食べる隊の脚気患者が数人程度に減少しました。
同時期の歩兵第一連隊(東京)の患者数967人、歩兵第四連隊(仙台)で272人の患者が発生したことを考えると、数人ならゼロと見なして良いでしょう。

この報告は、同じ脚気で悩んでいた明治天皇の耳にも届き、天皇自ら大阪へ出向き、堀内から話を聞かれた記録が残っています。
が、日清・日露戦争で陸軍が脚気に頭を抱える歴史的事実を見ると、その結果が採用されることはなかったんでしょうな。

真田山陸軍墓地の堀内利国の墓

その堀内利国の墓がこの真田山墓地にあったりします。
明治28年(1895)に亡くなり、ここに埋葬されたそうです。

更に墓地を探索してみる

真田山陸軍墓地

そして、将校たちの墓も一画にあります。
一般兵卒と違い墓石も立派です。調べてみると、兵隊の墓石は和泉砂岩という安物の脆い石を使っています。だから風化が激しく朽ち果てているのか。

事実、ちょっと修繕せなあかんのとちゃうの?と思うくらい風化が進んでいるものもけっこうあります。
「旧真田山陸軍墓地とその保存を考える会」というNPO団体が、保存を大阪市などに求めているようですが、なかなか事は進まないらしい。
対して、将校や偉いさんクラスの墓は、上の堀内利国の墓もそうですが、保存状態がかなり良好なのです。ホンマに明治時代に作られたもんか!?というくらいのものまであり、同じ石でもこれだけ違うものなのかと、違う所で感心してまいました。

そして、兵隊クラスで個人での墓標があるんはこの日清戦争まで。
日露戦争になったら戦死や戦病死が多すぎて墓を作る土地がなかったのか、

真田山陸軍墓地の日露戦争合同墓

こんな風に合葬碑として省略されてしまっております。

「明治三十七八年戦役」(明治37年=1904年)とはまさしく日露戦争のことです。

真田山陸軍墓地の満州事変合葬碑

満州事変も「省略」されています。

「俘虜」たちの墓標

また、ここに埋葬されているのは何も日本人だけではありません。
日清戦争や第一次世界大戦で捕虜になり日本で死亡したと思われる、清国(中国)人やドイツ人捕虜の墓もあります。

真田山陸軍墓地俘虜墓
左が「ルードビッヒ・クラウト」、右が「ヘルマン・ゴル」と読めます。
墓石によると彼ら二人は大阪の衛戍病院で亡くなったそうですが、よく見ると墓の一部が削れています。
これは元々身分を表すために「俘虜」という文字を入れていたのですが、昭和に入り当時の第四師団長が、

師団長
師団長

墓に「俘虜」って…気の毒やないかい

「俘虜」の文字を削れと命令したそうです。

泉大津市ロシア兵の墓

大阪南部の泉大津市には、日露戦争中に捕虜収容所が作られました。
そこでも故郷の土を踏むことなく捕虜たちが亡くなったのですが、市の墓地の片隅に捕虜の墓があります。市民により綺麗に整備され、東京のロシア大使と大阪領事館の公使も110年前の英霊たちに敬意を表するため訪れています。

真田山の方も、ドイツと中国の領事館に慰霊祭の参加を呼び掛けています。
ドイツは毎回参加しているものの、中国は「清国と中華人民共和国は関係ない」と参加を渋っているとのこと。
都合がいい時だけ「同胞」と持ち上げて、利益がないとわかったら「そんなの関係ねー」。まことに中国人らしくて微笑ましい対応です。
というか、「関係ない」って言っているなら、清と中華人民共和国は国として「連続」していないと政府関係機関が公に言ってるようなものではないか?
それなら「中国68年」であって「中国4000年」と言う資格ないのではないか。
これを突っ込んだら中国はどんな詭弁を繰り出すのか。一度突っ込んでみたいものです。

それにしてもこの陸軍墓地、端から端まで歩いてみるとかなり広いことがわかります。
東京ドーム何個分かはわかりませんが、敷地は4500坪あるらしく、昔は隣にある真田山小学校の敷地も合わせて8000坪もあったそうです。
人里離れた郊外なら、これより大きい墓地や霊園はいくらでもありますが、大阪市内の真ん中にこんな広い墓地があるなんて、大阪人数十年やっていて今まで知らなかったです。

実際に敷地内を歩いていて驚いたのは、市内のノイズがほとんど耳に入らず、不気味なほど静寂な空間だったということ。人もほとんどおらず、聞こえるのは私が草を踏む音のみ。今でもあんな所にこんなものが、と少し信じられない気持ちもあったりします。

この墓地、戦前は陸軍がきちんと管理していて遺族以外は立ち入り禁止、入口には衛兵が立っていたとか。それが戦後になったら軍もなくなり、行政も放置状態で次第に忘れられた存在になってしまいました。
(今は大阪市と「保存の会」のボランティアが管理・整備)
墓守の方が敷地内に住んでる(らしい)ものの、墓石はおろか敷地内は草が生え放題、墓も一部を除いて最近墓参りに来たという形跡もなく、崩壊、と言うたらオーバーですが、確実に荒廃という名にふさわしい感じさえ見受けられました。

国に命を捧げた人たちの…という以前に、これは立派な近代遺産。ここまで残っているのは珍しい。

国とは言わないけれど、大阪府も大阪市もこういう遺産の保存・活用に税金をかければいいのではないかと。もちろん、国が管理主になり「保存の会」に委託するという形がベストですが、今はベストよりベターを目指すべきではないかな、というのが個人的見解です。

真田山陸軍墓地の場所

この地図の通り、大阪の陣の「真田丸」の跡がすぐ横にあります。大河ドラマ『真田丸』の影響で、三光神社をはじめ真田丸跡にも戦国時代ファンが大勢詰めかけたことは想像に難くありません。

しかし、その横にある真田山陸軍墓地に気づいた人は、果たして何人いたでしょうか。
ここは日本の近代史が凝縮したよーな所とも言えます。近代史の遺産として保存した方がいいんじゃないだろうか、というのが率直な意見です。
偶然見つけた「副産物」とは言え、ある意味良いものを見させていただきました。

  1. ラーメンのB1含有量はハンパなく、インスタントラーメンすら侮れない量。
  2. 総務や経理・食事担当の兵士や下士官。
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