戦後の釜ヶ崎
釜ヶ崎の「オカマ伝説」は、戦後になっても健在でした。
現在の「飛田本通り商店街」周辺の山王界隈は、遊郭界の土星こと飛田新地の衛星のような存在で、「青線」として同じく売春地帯となっていました。
飛田界隈には現在でも喫茶店が多いですが、昔はそこがすべてそういう場所で、女給もみんな娼婦。ただ、東京の特殊飲食店こと「カフェー」と違うところは、大阪の「カフェ」は実際にコーヒーが飲めること。コーヒー飲みながら「女給」と値段交渉、成立したらママに目配せして二人で近くの連れ込み宿に直行…というシステムだったそうです。
ここ界隈には派手なタイルで装飾された宿が残っており、場所が場所なら赤線カフェー建築と見まがうほどのケバさがあります。
現在は日雇い労働者のための木賃宿となっているこれらの宿、かつてはいわゆる「連れ込み宿」だったのではないかと、私は勘ぐっております。少なくても、上記の宿は男娼華やかな頃から存在していたことは確かですし。
ちなみにここ、入居者募集の張り紙見てみると、1ヶ月の家賃は2万円らしい。誰か住んでみる?お前が住めって?すみません、私はそこまで物好きではありません(笑
そして、すでに10年以上前にお取り潰しになっていますが、下記のような建物もありました。
地元の人しか知らないような生活道を奥に進んだ先にこれを見つけたのは、11年前のことでした。
なんじゃこりゃあぁぁぁ!!
思わず松田優作の名言が口に出てしまったほど、全身をタイルで武装されたこの家のインパクトは強烈なものでした。タイル張りのカフェー建築と言えば東京ですが、これはカフェーにあらず。
昔の住宅地図で調べてみると、ここは元旅館だったようですが(まあそうやろうと思う)、『明楽』が和洋折衷の美に対し、これは厚化粧しすぎた娼婦のごとし。
前述のとおり、私が発見したのが2008年か9年の頃、その後すぐに壊されたようです。その時は遊郭赤線探索者は数少なく、発信者はもっと少なかったので、現物を拝めた人はなかなかいないと思います。
昭和31年(1956)の出典不明の資料によると、「釜ヶ崎」全体で、
・業者数:200軒
・娼婦数:320人
とあり、同じ時期の飛田新地が
・業者数:203軒
・接客婦数:1,350人
(松島新地:195軒、1,020人。吉原(東京):291軒、898人)
当時日本最大クラスの赤線、飛田に匹敵する青線が横にあったのです。
当時の大阪府や警察資料を見てみると、青線は惑星「飛田新地」を回る衛星のような感じで、当時の町を一つの衛星とすると、「山王町」「東田町」「今池町」「東入船町」「西入船町」「海道町」「甲南町」「霞町」と8つの「衛星」が”惑星飛田”の北側を回っているかのよう。
これに「限りなくクロに近いあやすぃ地区」な「東萩町」なども入れると、飛田はまるで赤線界の木星です。
『全国女性街ガイド』(昭和30年)でも、釜ヶ崎の紹介でこう書かれています。
大阪を語る以上釜ヶ崎は女娼より首頭に語る必要がある。オカマの別称を釜ヶ崎というほど大阪の男娼は有名であり、上野の比ではない。
『全国女性街ガイド』渡辺寛著
(※註:東京の「釜ヶ崎」は今は新宿2丁目ですが、当時は上野)
現在は18歳から43歳までが約30名屯している。歌舞伎を毎日にように見て、身のこなしやもてなし方を研究するというから色っぽい点はうけ合い、暗がりなら扇雀はだしの美女がいる。
(中略)部屋は女よりも清潔、といっても洋服ダンスの中に炭も下駄もお乳パットも放り込んであるから、タンスを開けて見せてくれるようになったら馴染である。
遊びは素泊別で300円、泊りは1,200円くらい。ただしだますと執念深く「捨ててみやがれ唯おくものか」と後を追っかける代物である(住所氏名は知らせぬがよい)。
女の味のなかに、この項を入れるについて相当長い時間検討を試みたが、酔ったりすると女よりも女らしく色っぽく、完全な錯覚を起すから、瞬間的には女の味だろうと、挿入することにした。
ただ「オカマ」について語るのみ。それほどインパクトが強かったのでしょう。
興味深いのは、「オカマの別称を釜ヶ崎という」箇所。当時は「オカマ」の隠語に「釜ヶ崎」があったことがわかります。
いつかここに、「オカマ発祥の地」の石碑でも建てられる日が来る…ことはないでしょうが、決して表に出ることがない「大阪の黒歴史」でもあります。釜ヶ崎を語らずして大阪の黒歴史を語ることなかれ。
この青線は、売防法施行と警察の取り締まりでなくなった…と思ったらそうは問屋が卸さなかったようです。売防法施行から3年経った昭和36年(1961)11月の大阪府警刑事課の調べによると、釜ヶ崎地区の隠れ売春者は女娼261人に対し、男娼は88人とまだまだいたことがわかります。
「女娼」と「男娼」と分けているところを見ても、「お釜」は数が少なくなっても不滅だったみたいで。
それはなぜか。
施行時の売春防止法は、日本法制史上まれに見るザル法だったそうで、当時の弁護士が
なんじゃこの穴だらけの法律は!よくこんな法が国会通ったなwww
と新聞紙上で嗤ったほどでした。私は法学部を出たわけではないので、どういう「穴」があるのかはわかりません。が、そんな声があちこちから聞こえていました。
その穴の一つが、男娼の扱い。売春防止法の対象はあくまで売春”婦”の方。売春”夫”である男娼は全くの対象外。露骨な客引きや勧誘はアウトですが、「立ち話」程度に値段交渉していても、警察は取り締まれませんでした。それをわかったか、東京新宿の男娼地区は売春防止法施行で余計に栄えたんだとか。
もちろん、現在は法改正され穴が埋まっている…はず。
警察が上の調査をしていた同じ昭和36年、こんな人がこんなことを書いています。
好きものの旅行者たちが、新世界・飛田周辺を歩いてひどい目にあった、という話をときどき聞く。むりもないのだ。背のすらりとした美人に言い寄られてしかるべく交渉して、いざ寝てみると男だったというのである。
司馬遼太郎 昭和36年12月のエッセイより
この界わいは男娼が多い。かつては、もと陸軍軍曹やもと海軍少尉の男娼もいた。かれらは、戦場で鍛えた勇気もあり、腕力もあった。客が気づいて、
「モノが違うやないか」
とひらきなおっても、腕では負けていなかった。当然、かれらが受け取るべき正当の代価を取り上げた。
べつに私はかれらを悪いとは思わない。間違う客のとんまさに責任がある、というのがこの界わいの論理なのだ。
司馬遼太郎が産経新聞社を退職し、専業作家として独り立ちした頃の随筆です1。
司馬氏がサラリとながら、こういうことを書き残しているのは貴重であります。「こういうの」に興味がなかった彼もジモピーとして知っているというくらい、「釜」の男娼は有名だったということでしょう。
しかしながら、男娼も高齢化が進み商売として成り立たなくなり、誰にも知られぬまま消えていきました。その時期は、今もわかりません。
その後、日本には高度経済成長時代が到来し、釜ヶ崎は日雇い労働者の聖地として全国から人が集まってきました。釜ヶ崎の土着の元貧困層は、昭和30年代後半からの大阪市の政策でほとんどが釜ヶ崎を離れ、その後にやってきたのが彼ら。
汚いとかガラが悪いとかマイナスイメージがついて回りますが、彼らも日本の経済成長を支えた陰のキャストだったことを、忘れてはいけません。
しかし、そんな彼らも高齢化で半ばリタイアし、現在は上述したとおりかなりクリーンな町となっています。
また、コロナ前は「ドヤ」の安さに目を付けた外国人バックパッカーで賑わい、まるで浪速のカオサンロード2かジャラン・ジャクサ3のような雰囲気を醸し出していました。「カマ」も時代に合わせて変わっていっているのです。
釜ヶ崎・飛田界隈、大阪市内の記事はこちら!
コメント
お釜さんは、よく谷町線側の地下街で客引きしていました。今では見かけることは無いですが、娼婦の客引き禁止みたいな看板は今でも付いています。ではお釜が居なくなったのかと言うと、今は国際劇場の地下にいます。たまに引かれるますが、そっちはちょっと、、、です。
私はあいりん地区にも思い出があって、あいりん会館の2階で祖母が働いていたのでよく行きました。同館が出来た頃には1階に噴水があって、2階まで吹き抜けになっていました。晩年の噴水跡はふさがれていましたが、開館当時は噴水がライトアップされて、金魚や亀まで居て、それはそれは綺麗なところでした。今では想像もつきませんがご参考まで