大和郡山西岡町の謎の建物と、幻の歌劇団『日本少女歌劇座』

大和郡山の日本少女歌劇座歴史探偵千夜一夜

大和郡山。金魚の町として全国的に有名な奈良県の都市ですが、そこに東岡町という町があります。
そこにはかつて100年の歴史を持った遊郭がありました。昔に比べてかなり少なくなりましたが、かつての大通りには木造三階建ての元妓楼が道の両側に建ち、まるで木の摩天楼ではないかと驚きを隠せなかったのですが、現在はそれがまるで「色街の死体」のように放置されています。建物の老朽化も激しく、東岡町の「木の摩天楼」が姿を消すのはそう遅くはないでしょう。

東岡町の遊郭の詳細は、こちらをどうぞ。

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大和郡山市ー西岡町にある謎の建物

大和郡山には、東岡町があれば西岡町もあります。

東岡町からすぐ西の方向、近鉄橿原線を跨いだ向かい側に西岡町はあります。
郡山の郷土史をめくると、江戸時代は同じ「岡町」だったのが次第に「西」と「東」に分かれたようです。おそらく鉄道で町を真っ二つに分けられたからか!?

西岡町は色街となんの関係もありませんが、江戸~明治時代の面影を残す静かな住宅街となっています。

そこに、ある特徴的な家があります。

大和郡山西岡町の洋館

和風の家の横の洋風建築。和ばかりの西岡町の建物にあって、唯一の「超」洋風建築なので、非常に目立ちます。近鉄電車からも見えるので、車窓で目に入り気になっている人もいると思います。

水捌け用の配管が青銅製、外観はコンクリ製だと思われるので、大正中期~昭和初期の築かと推定しています。

大和郡山西岡町洋風建築

この建物のいちばんの特徴は、丸窓に装飾された孔雀が羽を広げた姿のステンドグラス。これも、今作ろうと思えば相当高価なはず、ここまで作れるほど裕福な家だったのでしょう。

「和」の西岡町の建物群とは明らかに(良い意味で)浮いているという意味で印象に残っているこの建物。大和郡山の遊郭史の片手間に、しこしことここを調査して尻尾をつかみかけたところ、ある情報が飛び込んできました。

ブログ読者さん
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『日本少女歌劇座』の本拠地だったと聞きました

ソースは、洞泉寺町にある元妓楼「川本楼」のスタッフの方とのこと。私が直接確認したわけではないのですが、スタッフさんなら調べた上で根拠を持って言っているはず。

では、『日本少女歌劇座』とは一体何なのか?

100年前のアイドルグループ『日本少女歌劇座』

大正3年(1914)、兵庫県の温泉郷宝塚の客寄せに、『少女歌劇団』が結成されました。
今でこそ日本の「タカラヅカ」、いや世界唯一の女性だけの歌劇団として「TAKARAZUKA」になりつつある宝塚歌劇団ですが、結成当時は温泉の「おまけ」、料理で言えばお新香のような存在から始まりました。

しかし、これがウケてこれを真似た歌劇団が全国に、雨後の筍のように結成されることに。歴史上100個以上は確実に存在していたそうですが、わずか数年で消えたものも多く、日本の歌劇団の歴史を追っている研究者でも実数は「わからない」としています。

『日本少女歌劇座』は、大正10年(1921)に大阪で開業した温泉施設の専属劇団として誕生しました。その温泉施設とは、現在の東大阪市の石切にあった日下温泉というところだそうですが、詳細はわかりません。「NSK」「ニッショウ」という名で呼ばれていたそうです。
が、温泉の経営不振により島興行社が経営権を取得、すぐに大和郡山に拠点を移しました。今でこそ、「なんとか48」シリーズなどローカルアイドルグループが花開りですが、それは今に始まったことではなく、歌劇団という形で1世紀前から存在していました。AKB48だって、見る人が見れば宝塚や松竹歌劇団のパク…ゲフンゲフン、焼き写しですし1。『日本少女歌劇座』は、100年前にあった「KRY48」的な存在であります。

大和郡山市のHPの記述にある展覧会のチラシには、

「昭和初めの大和郡山に花開いたモダンな少女文化に思いをはせていただきたい」

と書かれていますが、おそらく本拠地を移したのが昭和初期なのかもしれません。2

『日本少女歌劇座』は、タカラヅカやAKB48のような専用劇場を持ちませんでした。なので必然的に公演は巡業という形になり、全国の巡業元とのタイアップや、劇団員の故郷での記念公演など、戦略的な活動を行っていたそうです。

日本少女歌劇座
(大和郡山市立図書館蔵)

専用の劇場を持たなかった『日本少女歌劇座』ですが、昭和11年(1936)には九州の宮崎の劇場を買収、そこを専用劇場としました。しかし本部は大和郡山のまま。現住所が変わっても本籍地はそのまま(大和郡山)という感じだったのでしょうか。その後は宮崎県を中心に、満洲や外地(台湾・朝鮮)巡業や戦場慰問も行っていました。

日本少女歌劇座
(昭和27年の公演写真)

終戦後も宮崎県を中心に活動し、敗戦で心が荒んだ人々の癒しになったそうです。戦後は宮崎県出身者の劇団員が中心となり、何人か人気スターもあらわれたようですが、研究者によると昭和32年に活動した記録を最後に、人知れず解散したとされています。具体的な解散期日は明らかになっていません。
巡業が多く、「ご当地アイドル」なのに本拠地の奈良県での公演が少なかったのと、途中で宮崎に本拠地を移してしまったせいか、『日本少女歌劇座』は歴史に埋もれたまま、長年見向きもされませんでした。最近になって研究者によって発掘されるまでは…。

では、西岡町にある洋風建築と歌劇団との関係は?

ここに決定的な写真があります。

大和郡山西岡町歌劇団
(大和郡山市立図書館蔵)

「本社本館」の建物が、西岡町のあの建物ではないですか!
建物が残っているだけでも感動ものですが、戦前のポスターのままの姿で残っていようとは。
この建物のハイカラさは気のせいではなかった、なぜなら大正ハイカラの象徴だった歌劇団の本部だったのだから。むしろハイカラでなければならない。
何気に移した一軒の洋風の家でしたが、こんな歴史が隠されていたとは写した本人がビックリでした。

他にもこんな記事もいかがですか?


 

平成28年5月「大和郡山に少女歌劇があった」~市長てくてく城下町/大和郡山市 (yamatokoriyama.lg.jp)

Microsoft Word – 大和郡山プレスリリース.doc (shinjuku-shobo.co.jp)

旅する歌劇団 日本少女歌劇座を追う(2018年9月22放送)|特集|U-doki|UMKテレビ宮崎
他ブログなど

  1. 期間限定ながらAKB48が歌劇団をやったこともある。
  2. 平成28年5月「大和郡山に少女歌劇があった」~市長てくてく城下町/大和郡山市 (yamatokoriyama.lg.jp)
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