大阪市と南部の河内・泉州を結ぶ南海電鉄。南海は大きく分けて本線と高野線に分かれますが、二つともある街を通ります。それが堺。
本線は堺、そして高野線は堺東駅が堺市の中心駅ですが、地元に疎い人は名前から本線の堺の方が栄えていると思いがちです。
が、実際に栄えているのは堺東の方。市役所も堺東駅前にあり、百貨店である高島屋も堺東。本線の堺の方は、特急が停まるなど中心駅としての体裁を整えているものの、どこか場末の…という感が否めません。あくまで堺東と比べたらですけどね。
そんな本線側には、かつて栄光の時代がありました。海浜リゾートを抱え、特に夏には黒山の人だかりで身動きができなかった時代が。
しかし、それは今の堺駅ではありません。「もう一つの堺駅」があったのです。それが、今回の主役である龍神駅でした。
龍神駅-その長くも短き生涯
堺市の臨海沿いに位置する大浜公園は、現在は海が埋め立てられ「やや陸地」にあります。
が、かつては西端が遠浅の海水浴場となっていました。100年前の大浜公園ですが、現在の姿を知っている人ほど、この写真が現実にあったことなど信じられないことでしょう。
海水浴だけでなく、潮干狩りもできるこの海岸は堺市や阪堺電鉄(のちに南海と合併)が整備し、料亭や旅館が立ち並ぶ近代の海浜リゾートとして明治から昭和にかけて大変な賑わいでした。
それを物語る、一つの新聞記事があります。
(神戸大学付属図書館デジタルアーカイブ新聞記事文庫より)
関西の郊外鉄道、つまり私鉄の利用客がめちゃ増えてまっせーという大正11年(1922)の新聞記事ですが、その中でも南海が、1年間で2000万人以上の乗客を運んでぶっちぎりとのこと。旅客収入が約138万円、そのうち100万円が大浜へ向かう客の運賃だったというから驚きです。数字盛りすぎちゃうのん!?と思ってしまいますが、それくらい大浜は南海にとってドル箱だったのです。関西屈指の近代海浜リゾート輸送を独占した南海は、左団扇の我に敵なし。
龍神駅は、そんなリゾートへの最寄駅として作られました。
明治から大正に年号が変わった1912年、大阪と堺の浜寺公園を結んでいた阪堺電気軌道(当時)が、大浜公園へのアクセス線として「大浜支線」を開業させました。
大浜支線は、戦前は堺一の繁華街だった宿院から西へ分岐し、現在のフェニックス通りに沿って大浜公園までほぼ直進。公園内を迂回し、同じく阪堺が開発した「大浜潮湯」や海水浴場へ通じるルートでした。海水浴場や潮湯へ徒歩0分という至便さで、夏には積み残し当たり前という状況だったそうです。
当時は別会社だった南海も、阪堺の縄張り荒らしを黙って見過ごすわけがない。
同じく1912年12月、大浜公園の近くに駅を開業させます。それが龍神駅でした。大浜支線は南海龍神駅を跨ぐ形で通るのですが、4年後に合併して同じ会社になる両線、ちゃんと接続を考えていたようで、阪堺の龍神駅は南海と接続しやすいようすぐ近くに作られていました。
堺居住の画家岸谷勢造が、戦争中の昭和19年(1944)に遺した絵が残っています。残念ながら龍神駅の写真は堺市立図書館にも残っていないようで、この絵が唯一この世に残る龍神駅の姿となります。そして、奇しくもこの絵の1年後に空襲で駅周辺が「更地」と化してしまったので、戦前の堺を描いた最期の姿ともなります。
この絵によると、龍神駅は2面4線の駅で、その真上に阪堺…もとい南海軌道線の龍神駅があるのがわかります。しかし、やはり「阪堺線」と呼ばれていたようで、絵にも括弧で「阪堺線」と書かれています。やはり「阪堺」の方が元堺市民である私もしっくりくる。
こちらも昭和19年の、違う画家が描いた龍神駅前です。手前の茶色い部分が南海本線で、その奥の右側の茶色い屋根が駅舎。踏切の遮断機の向こうで人が待っている様子です。なお、他の挿絵によるとこの踏切は当時としてはけっこう広かったようで、警手も常駐していたようです。
特急も止まった堺の玄関口-龍神
もともと大浜海浜リゾートのために作られた金の卵、龍神駅は乗客の伸びと共に急成長を遂げます。のちに特急も停車するようになり、龍神駅は大変な賑わいをみせます。
その成長ぶりを、『大阪府統計書』の数字から見ていきましょう。
開業から数年は、先輩駅である堺駅はもちろん、高野線の堺東の足元にすら及びません。が、やはり徐々に客数が上がっていき、特に大正6→7年の伸びが300%以上と文字通りの爆増となっています。
この時期に堺か大浜公園に何かあったのだろうか!?とひととおり堺市史を調べてみても、これにつながるイベントはありませんでした。
開業から10年、乗客数、旅客収入ともに先輩の堺駅を抜き、堺市のトップの駅の位置に立ちます。大正13年には乗客数100万人を突破、ここからは龍神駅の独壇場が続きます。
龍神駅が堺市の代表駅として存在感を増すにつれ、特急も無視できなくなったのか、
昭和初期には全特急が龍神に停車していることがわかります。
ここでガン無視されているのが「堺駅」。そう、堺駅って龍神駅の前から存在していたのです。が、龍神駅の繁栄に比例して影がどんどん薄くなり、ほとんど貨物駅扱いというありさまでした。
大正14年(1924)の乗客数は698,893人。けっこう多いやんとお思いでしょうが、この数字は同時期の貝塚駅(902,091人)、岸和田駅(1,311,022人)どころか、高野線の西天下茶屋駅(700,374人)すら下回っています。これじゃあローカル駅。
ただし、貨物ターミナルとしての堺駅の存在感は、敷地の広さもあって重要な地位でした。堺駅は貨物、旅客さばきは龍神と、役割分担ができていたと解釈すればよろしいかと。
龍神駅、もう一つの玄関口
龍神駅には、当時関西屈指のリゾート地だった大浜への玄関口という顔があったと述べましたが、これはあくまで「表の顔」。実はもう一つの顔が存在していました。
実は栄橋・龍神遊郭への最寄り駅でもありました。
駅と遊郭の位置関係を地図に落とし込んだら一目瞭然。戦前はフェニックス通りがなかったので、駅前がほぼ遊郭と言っても言い過ぎではありません。龍神・栄橋遊郭は私の造語でいう「駅前遊郭」だったのです。
堺の龍神・栄橋遊郭と言えば、さずがに「遊廓界の化け物」松島や飛田にはかなわなかったものの、全国的に見ると規模は中の上、大遊郭を語るには一歩足りないけれども、かなり繁盛した遊里でした。
龍神駅の開業効果か、龍神・栄橋遊郭の数字にも変化が見えてきます。
=栄橋遊郭の遊客数及売上(一部)=
西暦 | 元号 | 遊客数(人) | 売上(円) |
1915 | 大正5 | 54,415 | 57,097 |
1916 | 大正6 | 88,430 | 78,007 |
1917 | 大正7 | 115,843 | 152,002 |
栄橋遊郭だけのデータですが、やはり爆増しています。前述した龍神駅の乗客数爆増と時期がリンクしているこの数字の増加ぶり、第一次大戦の「戦争バブル」の影響で遊興客が増えたという理由もあるでしょうが、龍神駅開業と共に交通アクセスが良くなった遊郭に客が殺到→南海も遊郭も堺市もみんな仲良く儲けてWin-Win-Winの関係となったのではないでしょうか。
龍神駅は、大浜という「表リゾート」の玄関口であると同時に、「裏リゾート」の大門も兼ねた「総合のエンターテイメント駅」だったのです。
その他、栄橋・龍神遊郭の詳細は以下の記事をどうぞ。
コメント
今回も大変勉強になりました。
小学校の時の担任の先生が龍神駅近くに住んでいて、「龍神駅は浜寺公園駅のようにお洒落な駅舎だった」と言っていました。その方は堺の空襲も経験されていました。
20年以上前の鉄道ピクトリアルの南海特集で戦後のホームの写真を見て存在は知っていましたが、これほど話題があるんだと、いつもながらのぶさんのブログには感心するばかりです。
堺は、東西軸を巡る近鉄との攻防等、エピソードはまだまだ掘ればでてきそうですね。
>komeさん
まいどありがとうございます。
龍神駅で検索してくる人がちょくちょくいて、だれも書いてないし2000文字くらいでいいから適当に書くか…と書き出したら、すごい勢いで情報が出てきてこうなりました(笑)
龍神駅の駅舎は、本文に載せた絵の左側に出てきますが、ここは「東口」というか裏口というか、大浜公園に面したメインの駅舎があったと推定しています。どんな駅舎だったんでしょうね。ほんと写真残ってないんですよ…
いつも興味深く拝読しております。
「堺の鉄道110年―日本の私鉄発祥の地・堺市の鉄道史」の本に阪堺線の龍神駅一部が
写った写真が掲載されています。
>oceanさん
はじめまして、拙ブログにコメントありがとうございます。
「堺の鉄道110年―日本の私鉄発祥の地・堺市の鉄道史」は本文を書いた後にTwitterのフォロワーさんのツイートにあったのですが、これは「駅」というより「駅前」と判断したのと、堺市立図書館が「もっとデジタルアーカイブ活用して」と嘆いていたのでそちらを採用し、掲載はしませんでした。
とても勉強になりました。
コメント機能があるのを今の今まで存じ上げておらず、初めてコメントさせていただきます(笑)
古い地図を見てみると、大浜駅には芦原駅という名前もあったようです。
(芦原というのは、町名と言ったものには残っておりませんが、大浜駅跡の周辺を本拠地とするふとん太鼓の団体名などに残っていたりしております。)
拙い文章で申し訳ございません。
>Drome様
はじめまして、拙ブログにコメントありがとうございます。
芦原駅と言えば高野線に芦原町って駅がありましたね。芦原とくるとそっちをイメージするのですが、大浜周辺を昔は芦原と呼んでいたか、旧町名などにあったのでしょうかね。堺市の古地図って持ってそうで持ってないので、東北にいる身ではすぐに調べることはできません。
ガードの写真の看板の池上医院は、まだやってますよ。
医院の建物改築で昔のコンクリートがでてきたそうです。
コメント失礼します。長崎在住、昭和16年生まれの母が幼い頃、大阪に住んでいたことがあり、耳に「りゅうじーん、りゅうじーん」という声が残っているとよく言っておりました。お手伝いさんに手を引かれ、訪れていたそうです。つい先日、亡くなってしまい、母に代わりその場所を訪れてみたいと思いますが、偲ぶものは何も残されていないのですね。