発見!曳船・大門通駅の「シン命日」
引き続き台帳を丹念に調べていったのですが、駅の焼失記録はいっこうに見つからず。
おかしいな…必ずあるはすやのに…ここで私はある先入観を持っていました。
駅名が「曳船」やから、「曳船町」にあったはずや!
そう、この先入観で「曳船町」の台帳を探していたのです。
しかし、ここで冷静になって航空写真をいまいちど見直してみました。
「駅舎」らしきものは線路の北にあると推定していました。「曳船町」は駅の南側、北側は曳船町にあらず、海道町という別の町名だったのです。
これでスッキリして改めて探してみると!
ついに見つけたぜ…曳船駅の「本当の命日」が書かれた一次資料を…それにしても、駅は「雑種家屋」やねんな。
さて、そこに書かれていた日付とは…
3月14日!!!
駅は3月の第一回大阪大空襲で焼けていたのです。
6月26日ではないはずだ…5年間にわたる疑問と勘が当たりました。
定説、ここに破れたり!
お次は大門通駅の「命日」はどうなっているのでしょうか。
大門通駅の住所は様々な資料を調べても判明せず。しかし、だいたいの場所の目星はついているので、地番か細かく書かれた地籍図とにらめっこしつつ、台帳を調べたら一目瞭然。
戦前の地図に記載の駅の位置とビンゴでこの台帳を発見。こちらも「3月14日焼失」と明記されており、6月26日説が覆ることになります。
今までの常識を自分の手でひっくり返すこの瞬間…まさにエクスタシーの極致。
私にも言わせて欲しい…
天上天下唯我独尊!
…気を取り直して、この台帳で面白いことが見つかりました。
所有者が南海鉄道ではなく、近畿日本鉄道となっています。
昭和19年(1944)6月1日、南海鉄道は国策につき「近畿日本鉄道」の一部となります。近畿日本鉄道とは、あの近鉄のこと。短い間ながら南海は近鉄だった時代があったのです。
なお、南海が保有していた「南海ホークス」はこの時、「近畿日本グレートリンク」に改名されています。ホークスも「近鉄」だった時代があったのです。
しかし、それだけなら特に驚くに値しない、歴鉄なら常識の事実。
上の台帳の「近畿日本鉄道」の住所を見て下さい、阿倍野になっています。
要は今の近鉄阿部野橋駅が住所になっていますが、ここで「あれ?」と引っかかったのですが、どうやら昭和18年(1943)に本社が上本町→天王寺(阿部野橋)に移ったようです。
ついでに報告しておくと…
「海道町64番地」こと阪堺線の今池駅も、3月14日の空襲で焼けています。
さて、この両駅はどうなっているでしょうか。
新世界から飛田新地へ伸びる飛田本通り沿い、天王寺支線の南側に駅舎がありました。現在はカラオケ居酒屋になっています。
そのすぐ右が廃線跡、大門通駅の遺構のかけらが少しでもあれば…と目を凝らして金網越しから覗いてみたのですが、おそらく何一つ残っていません…。
お次は曳船駅の跡。
その駅跡は現在、「三角公園」と呼ばれる有名なルンペンのたまり場になっています。
正式名称は「萩之茶屋南公園」というのですが、誰もそんな名前では呼んでいません。みんな「三角公園」です。私もGoogle mapを見てビックリ。ここって『三角公園』ちゃうのん?と。
そして南海がなくなった現在、その真下を地下鉄堺筋線が走っています。
以上、令和の世の中には幻となった都会のローカル線の、そのまた幻の駅の歴史でした。
今回はこれにて読み終わり。
南海電鉄歴史紀行は他にもあります、よかったらどうぞ!
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