キャラバシ園-ユートピアに終わったユートピア

キャラバシ伽羅橋園大阪史
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現在のキヤラバシ園

キャラバシ園までは、当然羽衣駅から高師浜線に乗り伽羅橋駅で降りればすぐなのですが、今回私は敢えて、羽衣駅から歩いて行くことにしました。
羽衣駅界隈は、物心がついたたった数年間でしたが、私の幼少期の思い出が詰まった「ゆりかご」でもあります。その懐かしさと、日頃貯まった運動不足解消を兼ね、少し歩いてみようと思ったのがその理由です。

東羽衣

東羽衣
羽衣駅で下車するのは、当然久しぶり。界隈を歩いてみると、変わった部分は全く変わっており、昔そこに何があったのか記憶から消えてしまったものすらあります。
が、変わっていないところは全く変わっていません。幼稚園時代の同級生が住んでいた家、お年玉を握りしめて向かったおもちゃ屋、親に駄々をこねて買ってもらったケーキ屋など、数えてみると40年以上も前になる記憶がよみがえってくるのが不思議です。懐かしいと言えば非常に懐かしい。やはりここは私にとって「ゆりかご」に還ってきたような気分なのです。

羽衣駅から「キャラバシ園」があった界隈へは、大人になった現在歩いてみると近からず遠からずといった距離です。距離的には大したことはありません。
が、幼少の頃はちょっとした「冒険」でした。
南海本線の踏切から「海側」(と我々は言っていた)、つまり高石市を流れる芦田川より西側は「異世界」であり、芦田川と南海の鉄路が幼きわれわれの「国境」でもありました。もちろん、40年以上前の話です。

10年前、車でここを通った路(みち)の途中、分譲マンションか住宅の幟が目に入りました。別に何ということもない、どこにでもあるような不動産会社の新築物件の宣伝でしたが、その向かい側には更地が広がっていました。

ここには確か、住友なんとかの社宅があったはずでした。
ここも、私の幼少時の思い出の地の一つだったりします。羽衣界隈には新日鉄や住友グループなどの社宅がいくつかあり、特に新日鉄はちょっとした公団か公営団地ほどの規模でした。
この場所は、住友グループの社宅がありました。ここにクラスメートが何人か住んでおり、クラスメートと社宅の敷地を遊び場にして記憶があります。それが今、見る影もない更地になって私の前に。
別にここに住んでいたわけではないものの、自分の幼い日の思い出が凝縮された記憶の場所の一つが消えたと、心の中に複雑な思いが渦のように巻いていました。

かつて社宅の入り口であった場所にしばし立つと、もう「大昔」と表現しても良さそうな、ここで友人たちと日が暮れるまで遊んでいた頃の笑い声まで、耳に伝わってくるかのような感覚がしました。
しばしその「声」に耳、いや頭を傾けていたのだが、ふと現実に戻って「更地」と化した敷地を見てみると、あることに気づきました。
「更地」の面積が意外に小さい、というか狭いのです。私の記憶が正しければ、というのは某テレビ番組の常套句ですが、社宅の敷地はもっと広々としていたはず。なのにえらい狭いな…そう感じるのは、私が大人になったせいなのでしょうか。

(Google mapストリートビューより)

それから10年の月日が経ち、更地だった場所はすっか分譲住宅地に。ここに住友グループの社宅団地があったことなど、現在の住人は知らないだろうと思います。

ここはなくなってしまったか…と失われた思い出の場所を離れ、南海電鉄本線の踏切をくぐりました。ここからは、幼い頃の私流にいうと「外国」。私は数十年ぶりに「外国」へ「入国」を果たしました。

伽羅橋園

前項で述べた「噴水公園」の現在の姿は、このようにふつうの住宅地と化しています。当時の片鱗はかけらもなく、年月が経ち住宅の森に同化してしまい、実地をじかに見ると全くわからない。住民も、ここがかつて『高師浜の桃源郷』だったことなど信じられないででしょう。
ちなみに、正面には1980年代まで洋館が建っていたそうです。
ここで一首。

大正の 高師の浜の 夢の跡 静けさのみぞ 今に残りし

キャラバシ園伽羅橋赤木邸

逸郎が設計したという家が、奇跡的に現在でも残っています。
大阪の大料亭のオーナー、飯井定吉の邸宅として大正14年(1925)に建てられたこの家は、のちに現在はカステラで有名な「銀装」の社長の赤木氏が昭和26年にこの家を買い取ったと、高石市の調査で判明しています。
木造2階建て、20世紀のアメリカ式コテージスタイルが残る数少ない建築物で、木造平屋建瓦葺入母屋造りの和館も併設されています。平成14年(2002)に国の登録有形文化財に指定されています。

伽羅橋園旧山川邸

もう一つ残る「夢の跡」がこちら。
ここは逸郎の邸宅跡で、「キャラバシ園」の住宅事務所も兼ねていました。逸郎の夢はここから始まり、ここで大きな夢を膨らませていたに違いない。

この邸宅のとなりには、洋館の持ち主と同じ名前の耳鼻科医院があります。
ここは、実は私とは少なからず縁があったりします。
幼い頃の私は鼻炎を患っており、冬になると鼻水が止まらず常にずるずると音を立ていた。親もその姿を見ていられなかったのでしょう、治療のために私を何度か病院に連れていったことがあります。私はそこで鼻にチューブのようなものを突っ込まれ、そこから「蒸気」が出て不快な思いをしたことがあります。その「蒸気」が、実は気化した薬だったことを知ったのはかなり後のことになります。
その病院が、洋館の隣にある耳鼻科なのです。
病院の建物こそ、昔は洋館のような感じだった記憶があるので新しくなってはいるが、場所は全く変わっておらず。それにしても、幼い頃の記憶ってけっこう残ってるものだなと。
当時の自宅から母親が自転車に私を載せ「国境」を越え、「異郷の地」であるここまで通っていた。自転車で行くにはそこそこ距離があるので、伽羅橋まで通院させていたということは、評判が良かった病院だったのでしょう。そして、子供の鼻の病をどうにかして治してやろうという母親の愛を、齢40を越えここの前に立ち感じたように思えました。

ところで、「キャラバシ園」を造った逸郎は一体どこへ行ってしまったのか。
記録によると、「キャラバシ園」の第一期工事は大正12年(1923)に完成したものの、翌々年の大正14年には逸郎の住宅にかける熱意も失せたのか、「キャラバシ園」は第一期で終了したとあります。
のち昭和6年、逸郎は自邸を手放し芦屋に移住。イオン交換による水処理装置の特許を取るなど数々の特許を取得。昭和37年(1962)5月14日に永眠しました。享年73歳。
何故急に「キャラバシ園」の開発に熱意を失ったのかはわかりません。が、大正後期から続く不景気に、追い打ちをかけた昭和の大恐慌で買い手がつかなくなり、経営的に成り立たなくなったのかもしれません。
キャラバシ園は、結局は金持ちのボンボンの夢に終わったのかもしれません。
しかし、一人の男の夢はわずかながら、現在もその片鱗が残っています。ユートピアは、今はそこに流れる空気のみが霊魂のように留まっていました。

おまけ

伽羅橋ギリシャ料理

ところで、伽羅橋を界隈を歩いていると、こんな奇妙な看板に出くわしました。中華料理にギリシャ料理。一見何の交わりもなさそうなコラボです…。
シルクロードは西の文化と東の文化との通り道、東西を歩いた商人、遊牧民族、軍隊などがユーラシア各地に東西融合の跡を残しています。それがここ日本、それも伽羅橋という一角でも融合していたのかと思うと、店は小さいがスケールはユーラシアンサイズ。
違う意味で世界遺産級ですが、しかし営業はすでにしていないのが残念です。

『高石市史』
『開通五十年』(南海鉄道編)
『南海電気鉄道百年史』
『大正期洋風住宅伽羅橋園』(安田孝論文)
『キャラバシ園 大正時代のスーパーモダニストが遺したもの』(徳尾野徹『家とまちなみ2001.9』

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