第ゼロ回神戸空襲(昭和17年4月18日)
最初の空襲は、昭和17年(1942)にまでさかのぼります。
空母ホーネットに無理やり搭載したアメリカのB25爆撃機16機が、東京や横須賀などを奇襲したこの空襲は、爆撃の指揮官の名をとって「ドーリットル空襲」と呼ばれ、知る人ぞ知る米軍による日本初の空襲です。
このB25爆撃機は元の空母に着艦できるわけがなく、日本をそのまま通り過ぎ中国大陸などに不時着。墜落して亡くなったり、日ソ中立条約を盾にソ連に着陸を拒否られたりという、良く言うとかなり大胆ですが、悪く言うと相当無茶な作戦でした。「アメリカ人が考えた特攻作戦」と言ってもいい。
その上、その割には物理的な被害は少なく、ドーリットルをもじって「Do nothing」(しかし、なにもおこらなかった)だと笑いのネタにされました。
当時はまだ性能も低く、不発弾(=不良品爆弾)も多かったといいます。それが「アメリカ恐るるに足らず」と余計に慢心させることになったのが、皮肉なものです。
小売業のダイエーの創始者、中内功の生家サカエ薬局が神戸の川崎重工の近くにありました。生家は現在、神戸の西区にある流通科学大学の中に移転・保存されていますが、この空襲の際、焼夷弾が何発か家に落下したそうです。
が、大量ではなかったせいか、火事になるまでもなく消し止められました1。
しかし、神国日本の空が鬼畜米英に汚されたという心理的ダメージは大きく、水際で防ぐべき海軍は何やってるんだと批難の声も高まりました。
これがかのミッドウェー海戦への伏線となったことから、太平洋戦争史のキーポイントでもあります。そういう意味では、「ドーリットル空襲」は戦術的には失敗だったものの、戦略的には大成功でした。
「ドーリットル空襲」は東京など関東では目撃者も多く、作家の阿川弘之も徴兵検査当日ではっきり覚えていたこともあり、エッセイにしたためています。当時東京に在住していた外国人(大使館員など)も、傍観者として記録に残しています。
それだけに、「ドーリットル空襲=東京だけ」というイメージも強いことは確かです。
数年以上前になりますが、Twitterで
横須賀で空母『龍鳳』に改装中の潜水母艦『大鯨』が、ドーリットル空襲の流れ爆弾に当たって損傷した
と書いたら、東京しか空襲していない、知ったか乙と嘘つき呼ばわりされたほどでした。そんなおバカさんにはとりあえず一次資料でぶん殴っておきましたが、それだけ東京「だけ」というイメージが強いのです。
しかし、B25は東京の他、川崎市、横須賀市、名古屋市、四日市市を爆撃しており、神戸市にも1機が来襲、爆弾を落としています。大阪より早くに空襲されていたことに、驚く人も多いかもしれません。
これが記録に残る神戸最初の空襲ですが、被害はほとんどなく、神戸市の公式記録でも空襲にカウントしておらず。当時の市民の回想も、
なんか飛行機が来てたよね…
程度で、どうやら「Do nothing」だったようです。
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