第二のドヤ街、貝塚地区
川崎には実はもう一つ、ドヤ街が存在します。実はもなにもタイトルに明記していますが、こちらは日進町以上に知られていない穴場of穴場。日進町は知っていても、ここを知らない人はけっこういるのではないでしょうか。
場所は、川崎駅から南へ徒歩10分ほど歩いた貝塚地区。厳密に言えば、貝塚2丁目及び渡田向町の一部界隈ですが、日進町と方角が違うだけで距離的にはほとんど変わりません。
ドヤ街の真ん中には、現在も「吉の湯」という創業70年以上という銭湯があります。
知の冒険さんのブログによると、1950年(昭和25年)10月の創業となっています。が、昭和32年の地図には「貝の湯」と記載されており、現在名になったのは、住宅地図を追っていくと昭和50年(1975)前後。「貝の湯」からの継続なのか、それとも記憶違いなのか。細かいことを気になり始めると夜もぐっする眠れるのが私の悪い癖ですが、今回はそれがメインじゃないのでスルー。
貝塚周辺を散歩してみましたが、ここがドヤ街という空気はほとんどしません。下町っぽい個人商店はいっぱいあるけれども、釜ヶ崎のように朝から酒飲んでとぐろを巻いているような人たちは見当たりません。それは日進町もそうですが、貝塚は日進町のようなドヤ街の空気すらありません。
それは、過去の住宅地図を見て判明しました。貝塚のドヤは、他のドヤ街と比べ簡易宿泊所が狭い地域に固まって存在しているわけではないのだと。
昭和32年(1957)の地図を見てみると、貝塚周辺のドヤは1~2軒のみでしたが、6年後の昭和38年(1962)になると、上の地図のようにその数が急増しドヤ街の様相を呈してきました。その数16~7軒。高度経済成長の流れが続き、好景気に支えられ労働者が急増、それにつれ「住」の需要も出てきたのでしょう。
この状態が、実は2015年まで続くこととなります。
貴館に所蔵してる川崎市街地の住宅地図、ありったけ持って来い!
と図書館のおねーさん方をあたふたさせながら貝塚地区の変遷を見ていると、ある不思議なことに気づきました。
2015年まで数十年間ほとんど変化がなかったドヤ数が、2018年になるとほとんどが消えていたのです。ある宿泊所は個人宅になり、ある宿泊所は駐車場に。3年間の間に何があった!?
これは何かあるぞ…と私のカンは申しておりました。
そして、そのカンは当たることとなりました。
2015年と言えば、上述した日進町の吉田屋火災が起こった年でもあります。
日進町で起こった火災なので貝塚地区は関係なさそうなのですが、この火事により、吉田屋は2階建てで認可されたのに勝手に3階部分を建て増ししていたことが問題になりました。それが多数の死者を生んだ原因とされたのです。
その結果、貝塚のドヤにも一斉査察が入りました。その結果、数軒を除きすべての違法増築が明らかになり即営業停止を食らったというのです。
かつては「鈴や」「大国屋」、吉の湯の隣にあった「丘園荘」、「第一・第二厚生館」などがありましたが、それらはすべて廃業。建物すら残っていません。
現在は「花家」「亀島荘」の2軒のみが残っており、宿屋の看板はすでにないものの、側面から見ると洗濯ものが干されていたりと住人がおり、廃業はしていないようです。
見た限り、日進町と違い外部からの宿泊客をすでに受け入れていない様子。
「花家」の脇にも木造3階建てのドヤが2~3軒連なっていたのですが、「3階建て」ということでアウトとなり取り壊されこのように駐車場に。そのせいで、「花家」の脇が丸見えになっています。
在りし日の貝塚ドヤについては、こちらのブログ(東京DEEPさん)が外観写真も残っているので、こちらをどうぞ。
昭和の高度経済成長を支えた労働者が作ったとも言えるドヤ街、成長しきった現在はその労働者たちの最期の場ともなっていますが、ドヤ街も立派な昭和の生き残りではなかろうか。
昭和のブログである以上、昭和遺産としてドヤ街もブログに遺す。これも昭和史を歩く私の宿命なのかもしれません。
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