姫路モノレールの痕跡を訪ねる
廃止になった後は、地元の人以外からは忘れられつつありました。実働8年なのでさもありなん。しかし、廃止になっても撤去費用はかかる。それをケチった姫路市は、跡なんかほっとけと完全放置プレイとなりました。
しかし、行政が放置プレイをかましてくれたおかげで、モノレールの遺物は一部を除いてそのまま残り、廃線跡専門の鉄道マニアから熱い視線を受けていました。保存状態はさておき、けっこうな数が残っているので、ある社会学者をして「現代遺跡」と言わしめたほどでした。
開業後のモノレールの姫路駅前を写した、貴重な写真です。今の姫路駅と比べると信じられないかもしれませんが、本当に姫路駅前です。
開業当時の航空写真を探してみると、モノレールが走っていることがはっきりわかります。
1967年(昭和42)の姫路駅前の航空写真を適当に切り抜いたものですが、写真上の赤で◯をした部分が、上の写真の位置になります。当時は新幹線はまだ未開業どころか、写真を見ると駅の建設すら始まっていないようで、影も形もありません。
開業前のモノレールのパンフからの抜粋ですが、こう見ると鉄腕アトムのような近未来を想像できて、ワクワクドキドキする脈動感を覚えます。モノレール自体は間違っていなかったと思うのですが、やはり「武士の商売」ではね。
上の写真の角度にできるだけ忠実に従って撮影してみました。「姫路キャスパホール」と姫路駅の間の位置にモノレール姫路駅があったのですが、ちょうど良い具合に歩道橋があり、「モノレール目線」に近い高さで撮影ができました。
モノレールが走っていた跡は、これまた昭和の匂いが強く残っている「ガード下」となっています。この写真では姫路モノレールの遺物は残っていないようにみえますが…
角度を変えて撮影すると、「お柱」がまだ残っていることがわかります。山陽電鉄の高架の手前に残る柱は、かなり原型を留めて残っています。
かつてここに、モノレールが走っていたことを知らない人がこれらの柱群を見ると、
なんでこんな所にこんなものが?
と、姫路の七不思議なモニュメントに見えることでしょう。
モノレールの強烈な個性、大将軍駅
そのモノレールの唯一の途中に、「大将軍」という駅がありました。モノレール唯一の途中駅で、ただの途中駅と言えばそうなのですが、この駅が非常に熱い視線を注がれていた理由は、駅の構造というか、その外観でした。
モノレールが現役だった頃の大将軍駅です。なんや、ただのビルやんと思うでしょうが、実は大将軍駅は「高尾アパート」という高層マンションの中に駅があるという、全国でも珍しい構造の駅でした。
駅はビルの3,4階にあり、その上は公団(今のUR)の団地、階下には銭湯やビジネスホテルがあったそうです。
マンションの中から電車が発車する、電車がマンションを貫いて走る…今の時代から見ても相当奇抜な光景なので、50年前だと近未来感がハンパじゃなかったでしょう。
駅直結の公団団地自体は、昭和40年(1965)にできた名古屋の上飯田駅などがあるのですが、マンションを貫く構造のものは、この大将軍駅以外には過去にも未来にもなかったと思います。ちなみに、駅ビルを貫くものなら、北九州市営モノレールの小倉駅が現役であります。
更にこのマンションには、当時の姫路のマンションでは珍しかったエレベーターがついていて、学校の友達に相当驚かれた、と当時の住人の回想にあります。もっとも、今ではクレームがつきそうなくらい遅かったそうですけどね。
開通2年目の昭和42年(1967)のものですが、航空写真を見ても大将軍駅こと高尾ビルが周りの建物と比べて、相当大きかったことがわかると思います。
地元の方いわく、当時は高層マンションなんてなく、頭3つ分くらい突き抜けていたそうです。というか、高架化された今の姫路駅からもかなり目立って見えたそうです。
しかし、この大将軍駅は悲劇の最後を遂げます。モノレール開通からまだ2年も経っていない昭和43年(1968)1月31日で駅が休止となってしまったのです。
その理由は利用客が少なかったこと。1日平均7人という目も当てられない有様で、せっかくエスカレーターまでつけた気合も完全に空回り。つまり、マンションの住人のほとんどは、敷地内にある駅とモノレールを使っていなかったということですな…。
その理由は姫路駅から実際に歩いてみるとわかります。姫路駅から大将軍駅の高尾アパートまでは、実はそれほど距離はなく、私の歩く速度なら徒歩3~4分。Google Mapのナビ案内でも5分ほど。雨が降ってなければ姫路駅まで歩くのは全く苦になりません。
大将軍駅は姫路モノレールの唯一の中間駅でしたが、中心駅の目と鼻の先に途中駅を作っても、そりゃあまり乗る客はいなかったんじゃないかと思いました。仮に通勤・通学で姫路駅までモノレールを使うと仮定しても、ただでさえクソ高い料金な上に、歩ける距離の一区間のために定期代を払うのはバカバカしくなりそうです。
休業になり駅は通過となったものの、モノレールが速度を下げず走ると駅上の住居に宋音が響き渡るという、予想外の事態まで発生。休業したものの駅を徐行して通過せざるを得ない羽目に。弱り目に祟り目とはこのことでしょうね。
この大将軍駅と高尾アパートは、モノレールが廃止になっても、マンションは現役のまま使われていたのですが、築50年という老朽化の波には勝てませんでした。
更に、鉄道がマンションを突き抜けるという近未来構造が逆に仇となり、耐震構造補修をURがコスト的に拒否したため、ついに解体となりました。
解体が決定した去年7月、長らく封印されていた大将軍駅が期間限定で開放され、10倍の競争率を乗り越えた約700人の見物客が、歴史の流れに消えた駅の最後の姿を目にしました。
2017年3月に一度訪ねた時、解体作業は予想以上のハイペースで進み、あの外観は既に100%消えていました。残念ですが、これは時代の流れなので仕方がない。
そして2020年。
このとおり完全に更地と化していました。ここにモノレールが走り、大将軍という奇想天外な駅があった碑すら建てられておらず、ただただ空だけがそこに残ると。
しかし、姫路モノレールの遺物が完全に消えたわけではありません。
高尾アパート跡の横にあるこの木…いや、これは木ではない…。
蔦で覆われているので遠目で見ると木に見えるこれ、実は姫路モノレールの忘れ形見の一つ、レールを支える支柱なのです。柱にからみついた蔦が、時代の流れを物語っています。
大将軍駅の現役時代の写真や解体寸前の写真を比較してみると、
右端のこの柱で間違いないと思います。そうじゃなかったらその左。幸いGoogle mapの航空写真がまだ解体前だったので、簡単に比較することができました。
そして2020年。3年前と同じアングルで撮影してみました。
蔦で囲まれた柱が、こんなに立派な「木」になっています。ここまで来るとこれはコンクリの柱ですと言っても、誰も信じないでしょう。
それにしても、3年でここまで成長するものなのかと、植物の生命力と繁殖力に驚かされます。東京も、人類が滅亡しメンテする人がいなくなれば1000年足らずで森になるといいますが、モノレールの遺物のはずの支柱の「木」っぷりを見ると、少し納得してしまいます。
モノレールの遺物は、今は大将軍駅跡から手柄山方面へ断片的に続いています。
これらの柱は、近年中に撤去される…という話をよく聞きます。建物の下に老朽化した柱をそのままにしておくのは危ないことこの上なく、いつコンクリートが剥離して落ちてくるかわからない。地震が起こったらヤバいんじゃないの!?と思ったりもしますが、撤去にもお金がかかる上に、遺物の近くに住宅などはないようなので、壊れてもさほど影響ないんじゃない!?
とでも思われているのか、撤去工事どころかなくなる気配すら感じません。
私は時間の都合で見ることができなかったのですが、かつての終点、手柄山駅は手柄山遊園の一部(手柄山交流交流ステーション)として開放されており、留置されたまま放置された車両も見ることができます。詳細はこちらをご覧下さい。
終わりに
日本全体が高度経済成長のビッグウェーブに乗っていた昭和40年代、とんだ箱物モノレールを作ってしまった姫路市。もし今なら、
税金の無駄やないかい!
と市民から猛反発を食らいそうですが、やはり経済成長に伴う市の近代化の勢いがあったのでしょうね。
日本の経済史上、いちばんノリにノッていた高度経済成長時代の置き土産、それも今は使われない昭和の遺物が、21世紀になり、元号も昭和から平成、そして令和に変わっても都市の中心に残っている不思議さとアンバランスさ、これを見られるのもいつまでか。それは神と姫路市のみぞ知る。
こんなブログもいかがでしょうか?
・『姫路モノレール』(姫路市編)
・『姫路モノレールについて』(姫路市役所編)
・『姫路市の昭和』(樹林舎)
・国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス
・Wikipedia
・Webサイト「麗しの姫路モノレール」http://himejimonorail.web.fc2.com/
・その他いろいろ
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