海道畑停留所-阪堺電車に残る廃駅

海道畑停留所鉄道史
スポンサーリンク

海道畑駅

阪堺浜寺駅前駅
南海電鉄浜寺公園駅から徒歩約2分くらいの場所に、阪堺電気軌道の浜寺駅前停留場があります。阪堺電気軌道など正式名称で呼ぶ必要もなく、地元では「チンチン電車」で通用します。
浜寺の次の駅は船尾なのですが、その駅間距離が「チンチン電車」の割にはやけに長い…その間に駅でもあったのか!?と思える距離感ですが、事実その間にかつては「海道畑」という駅が存在していました。「かいどうばたけ」ではなく、「かいどうばた」と読んだそうです。
浜寺駅前を出発した電車は、南海本線を跨ぐためにいったん高架となります。南海とのガードを上りきったかどうかという場所に、海道畑駅は存在していました。

海道畑駅の開業時期ははっきりしません。
南海や阪堺の資料をいくら見ても、どこにも書かれていません。ネットでは新阪堺線との連絡用に作られたという情報が流れています。その真偽は不明ながら、少なくてもわかることは…

1928年阪堺海道畑
昭和3年(1927)の航空写真には停留所らしきものが見えます。新阪堺はこの時三宝車庫まで、浜寺へ伸びていない以前に国道26号線(現府道204号)すら出来ておらず。新阪堺の浜寺までの開業は、この7年後の昭和10年(1935)のこと。
よって、新阪堺との連絡駅というのは後付けではかろうかと私は推察します。

戦前阪堺海道畑駅
海道畑が営業してた頃(のはず)の昭和17年(1942)の航空写真でも、コンクリートのホームがはっきり確認できます。

またこの駅、いつなくなったのかもはっきりしません。
以前、同じ阪堺線の廃駅(?)の宮ノ下停留所のことを記事にしたことがあります。

ここで述べたとおり、宮ノ下も海道畑も、戦争中の昭和19年(1944)頃に休止になったとは伝えられており、郷土史の権威『大阪春秋』の阪堺線特集も、末尾に「?」をつけながらも19年としています。
ただし、19年に休止(廃駅)になったんだ!と断定する一次資料は存在しません。だからこそ『大阪春秋』は「?」にしたのでしょう。南海や阪堺にも、とどめの資料が存在しないのだと思われます。
ただし、戦後の阪堺線運転士向けの内部資料や、住宅地図などの間接的資料からは、宮ノ下は戦後も存在していたと思われるものがあります。

海道畑停留所の方はどうか。

海道畑停留所

実は、昭和20年代の内部資料にはくっきり名前が残っているのです。宮ノ下と比べこちらは住宅地図(昭和31年)には記載されておらずですが、

関西の鉄道今昔 【阪堺電車編】

こちらに掲載の昭和30年(1955)頃の浜寺駅前停留所付近の写真の線路の奥には、海道畑停留所らしきものが確認できます。

阪堺海道畑駅
(主様に連絡が取れず掲載許可が取れなかったので、写真を一部だけ切り取り加工)

アップしすぎて画像が粗くなっていますが、赤矢印は位置的に明らかに海道畑駅です。
それも、ちゃんと屋根も設置されており、まるで「営業している」かのような姿です。

昭和19年に休止したまま廃駅同然になったと仮定しましょう。
昭和16年(1941)に「金属回収令」が施行され、官民問わず金属の供出を法的に強制しました。

金属回収令によって供出される土浦国民学校の校門

(画像:Wikipediaより)

国民学校の校門も供出されているほどで、鉄道の停留所、しかも休止中のが供出されないわけがない。
状況証拠に過ぎないですが、私が「海道畑停留所は戦後すぐの間には営業していた」という仮説を採っている理由の一つが、さりげなく写っていた停留所の屋根なのです。

現在の停留所跡

海道畑のプラットホームの跡は、現在でもくっきり残っています。

海道畑停留所跡

阪堺線の車窓からでもこのように目視が余裕で可能なほどで(赤丸が跡地)、プラットフォーム部分はすでに草が生えているものの、土台のコンクリートはそのまま残っています。

海道畑駅跡

道路からも、停留所があったというコンクリート塊が放置されるように。
コンクリートから突き出している突起はなにか。
この記事を書いた後、地元の読者さんのコメントがありました。このコンクリートは停留所跡が崩壊しそうになり、平成になりコンクリで補強されたとのことです。突起は昔の停留所の屋根柱の土台か!?と思ったのですが、このコンクリ補強自体が平成に入ってからなので、何の関係もないことがわかりました。

写真と反対側(浜寺公園側)の土手は、長年の放置プレイで草が生えてしまっていたのですが、2021年GWの雨で一部が崩壊(?)。普段は見えないものが露出していました。

海道畑電停の階段
海道畑駅の階段

なんと、停留所から旧26(紀州街道)へ降りる階段の一部が姿をあらわしたのです。昭和3年の航空写真でも電停から伸びる階段が確認できますが、とっくに撤去されていたのかとばかり思っていました。が、まさか草の下に隠れていたとは。

海道畑の停留所こそ現存しませんが、文字はあるところに残っています。
浜寺公園前停留所から、南海電鉄を跨ぐために高架になる手前に一つ、踏切が存在しています。その名称は「海道畑1号踏切」。道路と一体化した併用軌道なため、踏切の存在が忘れられがちの場所にありますが、海道畑の名がひそかに残っています。

海道畑駅は休止中?廃駅?

宮ノ下駅の記事でも述べましたが、海道畑は戦争中に休止(?)になって以来、何の進展もなく氷漬けになっている感があります。個人的には、おそらく阪堺が南海電鉄と分離下際に「清算」されたとみていますが、当然証拠はありません。
そういう意味では海道畑も宮ノ下と同じ運命であるはずですが、海道畑には「復活の話」が鉄道マニアの間でモヤモヤと煙が立っています。

その根拠は、各鉄道の各駅につけられた「駅ナンバー」
阪堺線は”HN”の頭コードがつけられ、浜寺駅前停留場は”HN31”となっています。隣の船尾駅は”HN29″なのですが、あれ?”HN30”は?と思うでしょう。”HN30″はなぜか欠番となっており、阪堺にもお問合せが多数来ているはずですが、公式な回答はありません。
この欠番の謎の仮説の一つに、
「阪堺は駅の復活を画策している」
というものがあります。プラットホームも残っていないこともないので、復活させようと思えばできないこともない!?

しかし、鉄道マニアにとっては想像力をくすぐるようなこの噂は、ある計画ですべて霧散することとなります。

それが、南海本線の高架化。

南海本線連続立体交差事業

正式名称は「南海本線(堺市)連続立体交差事業」といい、要は本線の諏訪ノ森以南を高架化するというもの。羽衣駅や高石駅はすでに高架化が完了、堺市の部分、諏訪の森や浜寺公園駅の高架化も令和10年(2028)に完成予定となっています。

南海の高架化ですが、阪堺線も大きな影響を受けることになります。
現在、地面を走る南海を阪堺線が高架で跨いでいる形になっていますが、南海の高架化によってどうなるのか。

阪堺線対応について

(堺市HP「阪堺線対応について」より、一部筆者加工)

浜寺駅前の停留場が山側…と地元の言い方をするとわからなくなりますが、南海浜寺公園駅の東口側に移設するというのです。
これにより、上図青丸部分の海道畑停留所は要らない子となり廃線。これにより、海道畑停留所復活の妄想は、完全に潰えることとなりました。

 
スポンサーリンク

コメント

  1. kome より:

    ご無沙汰しております。
    海道畑について、ここまで調べたものはみたことがなかったので、感動しながら拝読しました。
    ちなみに、南海本線の連続立体工事により、浜寺駅前駅は浜寺公園駅の東側に移設される予定ですので、立体交差も無くなり、海道畑の復活も完全に無くなりそうです。
    近所ながらなかなか足を運ばないので、遺構がなくなるまでに行ってみようと思いました。

    • 米澤光司 より:

      >komeさん

      ご無沙汰しております。
      せめてこの駅の開設年月くらいはつかんでやろうと意気込んだのですが、結局どこにも資料が見つからず私としては消化不良に終わりました。
      また何か資料が見つかったら更新します。

      >南海本線の連続立体工事により、浜寺駅前駅は浜寺公園駅の東側に移設される予定
      この記事を書いて知ったことですが、阪堺線のルートどころか、予定の筋の近くには大きな洋風建築があるので、そこがなくならないか心配になってきました。
      予定通りなら浜寺界隈の様相が大きく変わりそうなので、写真に撮るなら今のうちですね。

  2. ひげ坊主 より:

     還暦前の者です。海道畑停留所は私の少年時代昭和40年代にはすでに営業はされていませんでした。近所のおっちゃん、おばちゃんの話では、海水浴場が閉鎖された時になくなった、といってました。確かに、あの辺りには当時は民家などまったくなく、地元の人間が利用するような停留所ではありませんでした。海水浴客用で、新阪堺に対抗して造ったんやと明治生まれのばあ様が仰っておりましたが、真偽のほどは不明です。
     停留所の構造ですが、周りを石垣で囲み、真ん中は土でした。営業は終了していたのですが、ストになると、よく線路の上を歩いて勾配を登って本線とのオーバークロスの鉄橋までよく行ったので海道畑停留所の構造はよく知っています。出口は海側(旧26号線側)に降りる階段しかなく、下りホームからは線路を渡って出口へ向かう構造だったようです。その後、草ぼうぼうのまま平成の世までそのままだったのですが、崩落の危険があると判断したのか、周りをコンクリートで全体的に固める作業がなされました。作業が始まった時には「海道畑復活か」と思ったのですが、そうではありませんでした。「コンクリートから突き出している突起はなにか。屋根柱を起てるための台ではないかと推定しています。」ですが、残念ながらコンクリートの突起は平成のその時にできたもので、屋根柱の台ではありません。屋根柱は昭和40年代は残っていましたが、腐食したのか、いつの間にか撤去されなくなっていました。屋根は私は見たことがありませんでした。
     今後、本線が高架になるにあたって、阪堺線のオーバークロスが邪魔になるのでこれを撤去し、路線を東側に付け替える作業がすでに始まっています。本線線路沿いの水路に植えられ、毎年見事な花を咲かせていたたくさんのサクラの木は昨年(R2年)すべて伐採され、今年はもう見られません。ここに路盤を築き、本線浜寺公園駅の東側に浜寺駅前停留所を設置すると、地元の説明会でありました。現在の自転車置き場の辺りです。用地が非常に狭いので、複線にするのか単線にするのかが不明ですが、もしも付け替え部分から新浜寺駅前停留所の間を単線にするならば、付け替え部分に「海道畑停留所」が復活設置されるかもしれません。現在の常磐浜寺線道路の踏み切りがある辺りです。説明会では、そこに新たな停留所を作り、その先は廃線という案も出されていましたので現実味はあります。いずれにせよ、ここ数年で大きく変わることでしょう。海道畑停留所の遺構もまもなくなくなってしまうことは確かです。
     

    • 米澤光司 より:

      >ひげ坊主様

      拙ブログにコメントありがとうございます。
      海道畑停留所や浜寺近辺の回想コメント、ありがとうございます。あの駅のコンクリは平成に入ってからなんですね。本文にご指摘の部分を訂正しておきました。
      阪堺線が南海の東側に行ってしまうのは確定なんですね。浜寺近辺の風景が、これでガラリと変わってしまいますね。

  3. しゅらく より:

    こちらではご無沙汰しております。
    海道畑停留場が新阪堺との連絡のために作られたというネットの情報について、私にも違和感があります。
    私が見た公文書の内容では(私の拙い記憶になりますが。)そもそも新阪堺が終点の浜寺停留場を浜寺公園の北側に置くことになったのは、南海鉄道の反対があったからです。新阪堺が置きたかった浜寺終点の停留場は現在の阪堺線浜寺駅前停留場の少し北側の旧26の道路上です。そのため、南海が新阪堺との連絡駅を作ることは可能性としてはかなり低いと思います。
    南海は決して甘い企業ではなく、ライバル会社にはしっかりとした妨害行動(鶴見跨線橋の設計に関わること、大浜支線との平面交差、阪和浜寺でのあからさまな踏切による遮断等)は行いますが、利益になるようなことはしません。三国ヶ丘駅も南海が阪和を合併し、自社の路線になり、ようやく設置するくらいですから。

  4. ドリームランド.JP より:

    こんにちは、私も気になっていろいろ調べたのですが、浜寺公園内レストハウスの元社長がはっきりと覚えておられて、戦後浜寺公園が進駐軍に接収され民間人が入れなくなり、そこで海水浴に行く人々が浜寺公園の北側から(浜寺公園に入らずに)海水用にいけるように用意された駅だと聞きました。他にも浜寺終点の駅があった位置もはっきりと覚えておられて、現在の浜寺公園第3駐車場がそれだと知りました。今でも浜寺駅前停留所を歩道上に真っ直ぐ歩くと南に向いて電柱が左にあって、途中から右に変わるので位置関係は分かると思います。東側の旧家も同じ町会の方なので何でも聞いてあげると言ってました。ただ、新阪堺の駅は覚えていないと言われましたが、こちらは私のかすかな記憶では安全地帯みたいなのだけが園内のどこかにあった覚えがあって、最初は花壇かなと思ったのですが、全部コンクリートだったのを覚えています。ただ、こちらは違うものだったかもしれません

error:Content is protected !!
タイトルとURLをコピーしました