南海電鉄浜寺公園駅-幻の5番線【南海電鉄歴史紀行】

浜寺公園駅5番線ホーム鉄道史
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浜寺公園駅、もう一つのホームとは

浜寺公園駅ホーム構造
(Wikipediaより。ホーム番号は筆者追記)
現在の駅のホームは、上記のようになっています。1番線から4番線まであり、特急などの退避もできるようになっています。
現在は存在しませんが、私が物心ついたときには当駅折り返しの普通(各駅停車ではないのが南海ならでは)もありました。

ところで、こんな話を聞いたことがあるでしょうか。
「4番線の横にはさらにホームがあった」

浜寺公園駅5番線
浜寺公園駅5番線

「幻の5番線」と仮称をつけましたが、現在は敷居によって壁になっている場所には、その昔は線路が敷かれており、そこに発着する電車もあったと。

上記のとおり、浜寺公園は昭和30年代に海岸が埋め立てられるまでは、「東洋一」の海水浴場でした。
戦前には特急電車も止まり、当然、海水浴客をさばく臨時列車も走っていたはずです。
阪和電鉄ですら、刈り入れ時の7~8月には天王寺~阪和浜寺(現東羽衣)間のノンストップ急行をガンガン走らせていたので、南海も指をくわえて見ているだけではなかったはず。
実際、旧駅舎には夏の多客期のみ使われる臨時改札口が設置されていました。

昭和39年天王寺発浜寺公園行き急行
戦後には、今はなき南海天王寺駅から浜寺公園までの臨時急行も運行されていました。天王寺発ということは、明らかに阪和線を意識しています。(※天王寺支線内は各駅、天下茶屋以降急行)
当時は駅構内に渡り線が存在しており(現在は撤去されている模様)、④ホームで折り返しも可能でしたが、それでも電車をさばき切れなかったかと思います。
おそらく夏の臨時列車が停車する用のホームが、かつて4番線の隣に存在していたと。

私も噂としては、そんな話を小耳にはさんでいました。が、確たる証拠もなく時間が数十年も流れたある日、別件で南海の資料をほじくり回していたところ、こんな資料が見つかりました。


4番線の海側(西側)に何本もの留置線があったことが、この資料から明らかに。やはり「5番線ホーム」は実在していたのです。
「8B」と書かれた先の線路が現4番線、「9A」の先が5番線です。その他にも、何本か線路があることがここから確認できます。
あと、現在の4番線は先に車止めがついた終端式で、現3番線とは接続されていなかったこともわかります。4番線には車止めがついていたことは、私の幼い記憶にも残っています。
しかし、ここで大きな壁があります。ホームがあったことはわかった。しかし、ホームは実際に使われていたのであろうか。

1946浜寺公園駅航空写真
戦後すぐの航空写真には、「5番線」、赤矢印の部分に止まっている電車らしきものが見えます。黄色矢印には、保線用車両でも止めていたのか、小屋が確認できます。
5番線に停車中の電車、これは客を乗せていた電車だったのか。そこまではさすがにわかりません。

そこでさらに資料の隅をほじくってみたところ、ありました、決定的な証拠が!

浜寺公園5番ホーム
(出典:『南海70年のあゆみ』)

戦後の夏、5番線に停車中の電車と、改札口に向かう乗客の姿が。少し見づらいですが、ホーム番号の⑤も見えます。
これで、5番線が実際に電車の発着に使われていたことが確定となりました。

5番線がいつまで使われていたかは、定かではありません。
が、浜寺一帯が臨海工業地帯として埋め立て地になり海水浴場が消滅して以降は、確実に要らない子扱いされていたと考えられます。
航空写真で追ってみると、昭和42年(1967)以降に上りホームの延長工事が行われておるようで、ホームが現在の長さになった昭和50年には既にレールが撤去されています。

5番ホーム以降の敷地を考えると、浜寺公園駅は中堅私鉄のターミナル駅以上の規模の広さとホーム・線路数を誇っていた「巨大駅」。ここまで大きかったとは、沿線住民でも知るまい。
膨大な数の観光客が行き来したこの駅も、すでに役目を終えて数十年が経ちました。
そしておそらく、往年の賑わいを残す思い出のホームも、おそらく10年以内に消えゆくこととなります。
消えていくのは仕方ないことではあります。当の本人は「小人閑居して不善をなす」防止…もとい知的道楽としてブログを書いているだけですが、それを文章に、ブログというデジタル資料として次世代に遺していく。これも残された世代の「お仕事」ではなかろうか。
そんな決意(?)を胸に秘めながら、今回の記事は終わりにします。

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・『続 堺市史』
・『開通五十年』
・『南海鉄道株式会社大観』
・『南海七十年のあゆみ』
・『南海鉄道発展史』
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コメント

  1. ひげ坊主 より:

    はじめまして。還暦前の者ですが、子供の頃は毎日、浜寺公園駅で遊んでいました。小学校時代の昭和40年代には5番線は確実に使用されていました。行き止まり式のホームで、そのとなりには6番線(?)の遺構も残っておりました。この5、6番線の切り妻式ホームの遺構はごく最近まで残っていましたが、高架工事にともなう移設工事の際に完全に破壊され、線路がひかれています。さて5番線ですが、浜寺公園折り返しの臨時電車の発着に使用されていました。となりの4番線は、浜寺公園折り返し電車が奥まで(南へ)行けるようになっており車止めがありました。定期運用の電車は5番線ではなく4番線奥まで突っ込んで停車していました。当時は夕方に1本だけ準急の浜寺公園折り返し電車があり、この電車が来ると家に帰る時間でした。和歌山市方面から来る、浜寺公園待避の電車は4番線ではずいぶんと難波側に停車するので、浜寺公園からこの電車に乗るときはずいぶんと歩かなければなりませんでした。電車が和歌山市方面から4番線に入るために、車両のカーブ分だけホームがえぐれているのが印象的でした。現在はホームも真っ直ぐになっていますが、えぐれていた部分を修正したところは今でも見られます。しかし、高架になると少年時代の浜寺公園駅の風景はすべてなくなってしまいますね。あと、3番線のホーム屋根に使用されているレールは大正時代のものではないでしょうか。南端の部分にその記載があります。

  2. タカヤママサヤ より:

    懐かしい浜寺公園駅の配線についてご調査の結果やご記憶を有難うございました。私
    に取って、浜寺公園駅の改札口の木製の柵から身を乗り出すようにして母と電車を眺めていた想い出のある懐かしい駅です。私は昭和23年に羽衣小学校に入学し、昭和26年の7月に一学期の課業を終えてすぐに東京に転校したので、南海電車の記憶も小学校低学年時代のものしかなく、その記憶がどこまで正しいかは分かりませんが、確かに、今の(6月まで使われた)4番線ホームの西側に5番線と6番線に相当する線があり、そこに電車が入っていた記憶はないのですが、おぼろげな記憶では貨車が止まっていたような記憶らしきものがあります。4番線は行き止まりで、南端部に車止めがあり、今の上り本線からの渡線はなく、折り返し専用だったと記憶します。

     亡くなった私の祖母の話では、戦時中、この5番線、6番線に終電後、難波に翌日早朝の仕業車を置かずに疎開させて来て、留置していたそうです。一時的なものか定例的なものかはわかりません。
     旧3・4番ホームが途中から切り欠けになっているのは、浜寺駅が明治40年8月の浜寺電化から、明治44年11月の全線電化まで浜寺公園駅で、電蒸接続(電車からSL列車への)乗換駅で、難波方の4番線に電車を止め、和歌山方の3番線にSL列車を止め、乗り換え客は同一ホ―ムを少し歩くだけで、乗り換えができると言うことだと、私は理解しています。 
    その証拠に、東京では中央線の高尾駅の上りホームが同じように東京寄りが切り欠けになっており、高尾駅も電車と列車の乗り継ぎ駅であったと思います。 
     おぼろげな記憶の話で恐縮ですが何かのご参考になればと思い、コメントさせていただきました。

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