南海本線の高石市の部分、羽衣駅~高石駅間が、2021年5月22日より完全に高架化されます。なぜ「完全」かというと、下り線がいつの間にか、もとい既に高架化されているから。今月は上り線も高架化され、これにて高石市部分の高架化は完成となります。
それによって、同区間の踏切が全廃することになりますが、南海の伝説を創ったある踏切も消えゆくこととなります。
羽衣駅の北側にあるこの踏切も同様、5月21日限りでその役目を終えることとなります。
田辺聖子の小説をベースにしたアニメ『ジョゼと虎と魚たち』(略称『ジョゼ虎』)の一シーンにも高架工事中のこの踏切が描かれ、アニメ聖地となり巡礼者が絶えなかったんだとか。
しかし、面白いところがアニメの聖地になるもんやな〜。
だが、今回はそんな話ではありません。
たかが踏切されど踏切ですが、この踏切には鉄道会社どうしの因縁とそれにまつわる「戦争」の主戦場だったことを知る人は少ない。
南海vs阪和の仁義なき戦い
その昔、南海本線の浜寺公園近辺は海水浴場でした。埋め立てられ臨海工業地帯と化した今、海水浴場だったと言われてもにわかに信じられないかもしれません。
筆者の出身は堺市ですが生まれは高石市のため、幼稚園の頃は浜寺公園を遊び場にしていました。その時、少し上の世代から、
砂場を掘ったら「カニやエビのミイラ」が出てきたんやで!
という話を聞いたことがあります。
なんでそんなもんが出てくるねんと、物心ついたばかりの私は思ったものですが、なるほどここはかつて海岸だったのかと歴史を知ると納得します。
遠浅の海岸は天然の海水浴場。毎年夏になると関西中から海水浴客が訪れ、「東洋一」と称されました。エアコンなど普及してなかった当時としては、夏の暑さをしのぐには海か山に行くのがいちばん。人が浜寺に殺到し新聞社はその姿を「人の津波」と表現していました。その輸送を独占していた南海は、左うちわのウハウハでした。
また、潮風漂う海沿いの地は結核などの病気療養や住宅地としての需要もあり、大正時代以降は高級住宅街としての側面としてさらに発展しました。
浜寺の隆盛が形として残っているものが、羽衣の一つ隣の駅である浜寺公園駅。
こちらも高架化工事中ですが、それにより役目を終えた旧駅舎の贅を見ると、いかにここが隆盛を極めていたことが目視で理解できると思います。
昭和初期、そんな南海鉄道(当時)に堂々と喧嘩を売ってきた鉄道会社がありました。
その名は阪和電鉄。現在のJR阪和線です。
敵なしで安心しきって胡座をかいでいた南海に、真正面から凶器を持ってケンカを挑んできた阪和電鉄。その「凶器」が、今は「東羽衣線」という名の阪和線の支線です。私鉄時代は「浜寺支線」と呼ばれていました。
今はJRになっている線路に東羽衣という駅があります。
阪和電鉄時代は「阪和浜寺」という名前でした。位置関係を見ると、まるで南海の喉元に「ナイフ」を突きつけて、「刺すぞ!」って配置になっているでしょ?
阪和線の東羽衣支線は、現在だけを見ると羽衣界隈の住宅街のために敷かれた感がありますが、そもそもは浜寺の海水浴客のための路線だったのです。
阪和電鉄は、「阪和」と銘打っているように、大阪~和歌山間の輸送を主目的とした鉄道会社でした。が、支線として浜寺(東羽衣)までの路線も敷いたということは、当時の浜寺への客、特に海水浴客の需要がどれだけのものだったかが窺えます。
実際にどれだけの需要があったのか。こんな数字があります。
当時の阪和電鉄の主な駅をピックアップした乗降者数です。天王寺駅と、大阪のベッドタウンだった南田辺駅はおいといて、阪和浜寺駅=東羽衣駅の客数の多さが目立ちます。
阪和電鉄開通前の昭和3年(1928)の航空写真を見ても、住宅は南海羽衣駅の海側に集中しており、赤丸の東羽衣駅(写真では未開業なので線路なし)周辺の住宅はまばらです。
これから察するに、阪和浜寺駅の乗降客の大多数が海水浴客、夏場に集中していたものと推察されます。月別の乗降客数のデータがないのが残念です。
阪和の宣戦布告に、南海はもちろん激怒。と同時に大きな危機感を抱きます。
それもそのはず、この数字を見ると明らかです。
阪和羽衣駅開業と同時に、利用客数が南海羽衣駅を抜いてしまいます。羽衣駅も順調に増えていっているものの、阪和の勢いやすごい。そりゃ危機感を抱くわけです。
阪和も、ただ線路を敷くだけでは南海から客は奪えません。
平常時でも天王寺からの直通列車を走らせていたのですが、夏の海水浴シーズンになるとノンストップの急行を走らせ、往復割引きっぷも販売。広告でも大々的に宣伝し南海を煽りました。
阪和電鉄と言えば、天王寺から和歌山間45分の「超特急」が狂気の沙汰だと、鉄道マニアの間で伝説となっています。が、現在の天王寺~鳳間が快速で16分であることを考えれば、阪和浜寺まで14分も十分気でも狂ってるのかレベルです。もしかして、あの鳳駅の支線に入るカーブでさえ、スピードを落とさずに入線したとか(笑
阪和の本気度は本物、南海に対する殺意満々の姿勢に鉄道ファンのテンションは上がるばかり。
しかし、いくらスピードアップをしても、阪和には超えるに超えられない難関がありました。それが…
この南海の踏切。これが阪和にとっては非常に邪魔だったのです。
阪和にええ思いはさせへんで!!
南海が採った対策は…阪和浜寺駅に電車が着くや、南海側は羽衣駅を通過する特急ですらわざとトロトロ走らせ、開かずの踏切にして通せんぼしたとかいう伝説が残ってます。またこの踏切は、シーズンになると南海と阪和の駅員どうしの殴り合いの喧嘩まで起こったという因縁の場所だったのです。
しかし、そんなセコいことをやっているだけでは、南海のメンツも廃る。
南海とて殺意満々、社のプライドを賭けて「阪和電鉄殺戮電車」を爆誕させます。
それが昭和11年(1936)に大阪金属工業(現ダイキン工業)と共同で開発させた日本初、かつ戦前唯一の冷房車。いや、電車としてはもしかして世界初かもしれません。
阪和の超特急も伝説ですが、戦前に造った南海の冷房車も関西私鉄伝説の一つとして殿堂入りしています。
浜寺海岸でくつろぐ水着美女を背景にした冷房特急の広告、当時浜寺公園には特急が停車しており、
浜寺へは、(速いだけしか能が無い阪和じゃなく)涼しい冷房特急でおいでやす!
という、水着美女に隠れた南海の強い殺意が読み取れる広告です。
冷房車については、こちらに詳細を書いたのでどうぞ。
この戦いは、ある新聞社どうしの戦いでもありました。
阪和電鉄が浜寺(といっても高石市の羽衣)に開設した海水浴場のバックには、ある会社がついていました。
阪和電鉄の浜寺海水浴場のパンフには、朝日新聞の社旗が掲げられています。そう、阪和の海水浴場は大阪朝日新聞の協賛だったのです。
海水浴場だけでなく、阪和は朝日とコンビを組んでいたらしく、阪和電鉄の広告はすべて大阪朝日新聞に掲載されています。逆の表現をすれば、戦前の大阪朝日新聞をまさぐれば阪和電鉄の広告がいっぱい出てくるわけで。
対して南海は朝日のライバル毎日新聞社がバックにつき、南海vs阪和の浜寺戦争は毎日vs朝日の代理戦争という側面も持ち合わせていました。
そんな浜寺戦争も、昭和15年末(実質昭和16年以降)の南海による阪和の吸収合併や対米戦争の勃発、そして阪和の国有化などにより消滅し、それは伝説として地元でひっそりと語り継がれるのみとなりました。
そんな戦前の関西鉄道史のハイライトを彩った南海vs阪和戦争。その主戦場の一つが、イベントも行われないままひっそりと消えていくこととなります。
JRとなった阪和線から
お互いいろいろあったけど、お疲れ様
と花束贈呈でもあれば歴史探偵として涙の一つでも出そうなものですが、そんなことも行われることもなく、因縁の踏切はひっそりとその歴史を閉じました。
踏切と共に、5月から数年間の休眠に入る南海高師浜線のリポートはこちら!
コメント
現在も残る浜寺水連学校が毎日新聞系なのも、戦前の名残なのですね