Twitterのタイムライン(以下TL)を見ていると、誰かがリツイートした赤の他人のツイートが現れていました。
Twitterに表示される情報は、とにかく膨大です。初心者はツイートの洪水に溺れてしまいがちですが、関係ないものであればスルーすればいい。TLの情報にいちいち反応していたら、24時間画面とにらめっこしても処理は不可能。
次から次へと押し寄せる情報の土石流の中で、金魚すくいよろしく欲しい情報だけをすくい出す能力、これが「Twitter力」。それに適応できないなら、あんたは(良し悪しではなく)Twitterに向いていない、Facebookやインスタの方が向いている。私はそう思っています。
で、そんな情報の鉄砲水の中に、キラリと光るものを見つけました。
大阪に、「天牛堺書店」という書店チェーンがあります、いや、ありました。
大阪人にはお馴染みの本屋さんですが、大阪人以外はまず聞いたことはないと思います。かつては関空に支店があったので、なんか昔そんな本屋があったような・・・というのが、他府県の人の認識でしょう。
ややこしいことに、大阪には「天牛書店」もあります。こちらは明治40年創業、「西の神田」と戦前は呼ばれていた日本橋筋(現でんでんタウン)古本屋街を発祥とし、創業者はそのまんま天牛さん。戦前は在阪の文士が、戦後は司馬遼太郎が御用達にしていた老舗です。戦後に出来た「堺」の方とは全く違い、資本関係もありません。え?この二つ関係ないの?と驚いた大阪人もいるかもしれません。
後発の「堺」の方は親戚が作ったのか、それとも暖簾分けなのか、それはわかりません。ただ確かなのは、お互いがお互い
「あちらさんと関係ありません!」
と言っていることだけです。
天牛堺書店が創業したのは、日本が高度経済成長で伸び始めた昭和38年(1963)のこと。創業者は藤吉信夫氏1、場所は、現在の堺市西区の津久野という国鉄の駅前でした。津久野と言って、あそこかとピンと来る人は地元の人でしょうね。
1968年7月に法人化された天牛堺書店の登記上の本社も、長年ここ津久野にありました。
(Wikipediaにも、沿革が書かれています)
生まれ故郷は違う場所ですが、私が少年・青年時代を過ごしたのがここ津久野でした。まあ、厳密にいえば津久野と言ってもちょっと外れていますが、鉄道の最寄り駅は津久野、少し遊びにというのも津久野駅前でした。
幼いときから馴れ親しんだ津久野界隈、当然そこにある天牛堺書店の本店も知っています。
1階は雑誌類や古本コーナー、階段を上って2階へあがると、漫画や文庫本、学習参考書が並ぶコーナーでした。当時は勉強嫌いの悪ガキだった私は、当然漫画や子供向けの本を読み、中学受験のため学習参考書を立ち読みする同級生をいちびって(からかって)いた「遊び場」の一つでした。2階で騒いで店長(?)に怒られたことも何度かありました。
といっても、知への興味が芽生えていくにつれ活字本が増え、私の知を育んでくれたのもここでした。
ここで買った思い出深い本が、「20世紀全記録」というものでした。
20世紀に起こった世界中の森羅万象が書かれた百科事典で、これで殴られたら首の骨が折れて死ぬほどの凶器でもあります。今でこそAmazonで2500円くらいで売っていますが、当時は1万円以上したのではないかと。
「寝食を忘れて」という言葉がありますが、これを手に入れた私は文字通り寝食を忘れて読みふけりました。人生で、これほどどっぷりハマった本はないと断言できるほどでした。
この本で培った知識は、現在でも私の知のベースとなり、ブログを書くときのぼんやりとした記憶出典元となっています。そういう意味では、津久野店は我が知の故郷でもあります。
以前、私にとってスーパーといえばダイエーと書いたことがありますが、同じく本屋といえば天牛です。紀伊国屋やジュンク堂書店、いやアマゾンが栄えようとも、私にとっては本屋=天牛。津久野店はそれほど私の一部だったわけです。
大人になり、おっさんになって地元を離れても、津久野店には近くに寄るたびに顔をのぞかせ、ちょくちょく古本を買ったりしていました。つい1年前も数冊買ったばかりでした。
そして時代が過ぎ、昭和から平成となり、その平成も数十年経ち、津久野界隈も人口減の波が押し寄せていました。人でいっぱいだった駅前の商店街も人影が少なくなり、店はひとつ、またひとつとシャッターを閉じ、子供の遊ぶ声もすっかり聞こえなくなりました。
駅を起点に通りの左右に規則正しく建っていた公団団地も、ファミコンのゲームを買ったおもちゃ屋も、よく出前をした中華料理屋も、エロい麻雀ゲームをしている姿を同級生の女の子に見つかり赤面したボーリング場も、みーんななくなってしまった。
でも、天牛は、この店だけはずっと残っている。
津久野界隈を離れるとき、なぜかはわからないものの、そんな根拠のない確信さえ持っていました。
ところが昨日、TwitterのTLに流れていたのは、津久野店閉店のお知らせでした。
慌ててHPを覗いてみると、
8月17日をもって既に閉店していました。ここにあった本店も、光明池店に移ったようです。
私の中では永遠だった、あの津久野店がなくなった。私はしばし呆然とし、何も手に付きませんでした。脳内では、30年以上前の日々が、一部色あせて再生されていました。
たかが本屋一つなくなったくらいで…と言う人もいるでしょう。確かに今は地元どころか大阪府にすらいないので、生活に支障が出るわけではありません。また、天牛堺書店自体がなくなるわけでもありません。
しかし、昭和が遠くになりつつある昨今、幼き記憶が濃縮されて残った店がまた一つ消えた心の空白感は、たとえるならば、小学校の元同級生の死亡報告を聞いた時の感覚に似ています。
あいつとはよくケンカしたけど、元気にしてるかな…と思い出にふけっていたところに、偶然、そのあいつが死んだという知らせを知った。死ぬとわかっていたならば、せめてその前に一度お見舞いに行きたかった。
今の私の心境は、こんな感じでしょうか。
活字離れ、出版不況と言われる時代、経営も厳しいと思うので閉店はやむを得ないと思います。今年のはじめ、日本橋の古びた本屋でお目当ての本を大人買いしたところ、
こんなに買ってくれる人、久しぶりや!
と店主が大喜び。大人買いといってもたった3000円くらい、ジュンク堂書店でふつうに2~3諭吉溶かす私にしてはケチった方です。3000円で喜んでくれるほど、業界は冷えているのか。
いやいや、たった3000円やで!?と驚くと、
最近、(誰も本買ってくれへんさかい)厳しいな
いかにも古本屋のオヤジという姿の店主は、寂しそうにつぶやきました。
思い出の津久野店はなくなってしまいましたが、私の中でここは永遠となりました。これで、津久野に帰る用事はしばらくないでしょう。
ここには、ほんとうに心からご愛顧させていただきました。
津久野店で築き上げられた私の知の土台は、今も私の血となり肉なり、身体の一部として息づいています。こうしてブログを書けるのも、その土台を築いてくれた津久野店があってこそ。売上的には全く貢献していなかったと思いますが、それでも私の中では特別でした。
津久野店よ、今までありがとう。
そして、永遠にさようなら。