まだあった!淡路島の忠魂碑
1.洲本の忠魂碑
調べ終えてお腹いっぱいになるはずが、満腹感が癒える間もなく次の疑問が浮かび上がりました。
淡路島には他にも忠魂碑があるのだろうか?
南あわじ市の郷土史である『三原郡史』によると、淡路島にはじめての忠魂碑ができたのは明治39年(1906)のこと。その前年に「明治三十七八年戦役」こと日露戦争が起こっていましたが、淡路島からも兵士が出征し、帰らなかった人もたくさんいたのでしょう。
島に点在する墓地を見ると、偶然こんな墓碑を見つけました。
「日清日露戦争に出征し奉天攻略及び入城に参加す」と書かれています。
墓の主は昭和32年に亡くなっているので、明治の戦役で亡くなったわけではありません。が、我が勲章とばかりに墓碑に刻んでいることから、これがよほど誇らしかったのでしょう。おそらくは、故人が生前、墓に刻めと遺言したのだと思います。
淡路島に作られた忠魂碑の場所は洲本。洲本城があった三熊山のふもとにある神社に作られたと書かれてありました。
あれ?洲本に忠魂碑なんかあったっけ?この疑問が頭をよぎりました。ググっても洲本にあるなんて情報はありません。しかし、「あった」情報はありました。
「(淡路名所)淡路洲本忠魂碑ト三熊城天守閣」と書かれた絵葉書がありました。現在ある洲本城の模擬天守は昭和3年(1928)に作られたので、昭和の初期、洲本の市街地に存在していたことが確かです。
上の絵葉書の写真の角度的に、この忠魂碑はここにあるはず。
この洲本八幡神社は、以前に市街地をブラブラしていた時にくまなく散策したはず。忠魂碑のような個性的なモニュメントがあれば、何じゃありゃ!?と記憶に残っているはず。
しかし、見逃したという可能性もあるので、もう一度探索へと足を伸ばしました。
もう一度、隅から隅まで探してはみたものの、やはり見つからず。戦後に撤去された忠魂碑の例もあるので、洲本のもそうなんやな、うん、そうに違いない。
そう自分で結論づけつつ、ふと駐車場の方向を見てみると!
あった!!!
車に追いやられるように、駐車場の片隅にそれは残っていました。絵葉書にあった忠魂碑に違いありません。もう諦めモード99.9%のところで見つかったので、思わず妙な声を出してしまいました。周囲に誰もいなかったのが幸いでした。
こちらは「忠魂碑」ではなく「招魂碑」と書かれていますが、どちらも同じようなものです。
こちらは石ではなく青銅でできており、緑青色に変化した砲弾が時代の古さを物語っているかのようです。
裏を見てみると、「明治三十九年10月」と書かれており、『三原郡史』に書かれていた忠魂碑の記述と一致。これが淡路島一古い忠魂碑です。
まさか現在でもあるとは思ってもいなかったので、これは大きな収穫でした。
2.洲本市大野の忠魂碑
さらに掘り進めていくと、ある洲本市議会議員のHPのある記述が目に入りました。
大野地域戦没者追悼慰霊祭
洲本市議会議員 小松茂氏ブログより
午前10時より、大野地区忠魂碑前で大野地域戦没者追悼慰霊祭が執り行われました。
大野という地区に忠魂碑が残っているとの情報が。この記述以外にはググっても誰も指摘していない未発掘の掘り出し物の模様。誰かに書かれる前にこの目で確認すべく、大野地区に向かってみました。
探すこと数十分、
桜の絨毯が敷き詰められた石の道の奥に、
それはありました。大野地区の忠魂碑です。
こちらは特に変わった形ではなく、ふつうの碑の形となっています。
忠魂碑の横には、すでに風化して判別がかなり難しくなった、100年以上前の日清・日露戦争の戦没者や、
まだ新しい太平洋戦争までの戦死者までの芳名碑がありました。
これで終わりではありません。まだあったりします。
3.福良の忠魂碑
島の南西部、少し手を伸ばせば徳島県という「福良」という地区にも、忠魂碑が残っているという情報をGET。ここは今でこそ南あわじ市ですが、元は「南淡町」という別の自治体だったので、そのエリアの忠魂碑なのでしょう。
しかし、これがとても難敵でした。
なぜならば、情報はGETしたものの、記述は
「休暇村施設内道路脇の高台に、東向きに碑が建つ」
のみ。
確かに福良に休暇村があるのですが、休暇村が山のてっぺんにあり、周囲は山ばかり。休暇村の周りにローラーをかけて探し回るしかないのですが、「道路脇」を探すだけでもちょっとしたトレッキング、いやミニ登山。
今どきケータイの電波も通じない秘境の如き山道を歩き、ハチに追いかけ回されつつ2時間かけても見つからず、何度もHP1となってしまいついにギブアップ。素直に休暇村のフロントで聞くことにしました。
忠魂碑がここあたりにあると聞いたのですが…(疲
ちゅ、ちゅうこんひ?
やっぱその反応か。
なにせHP1、じゅもんを唱えるMPも…ではなく説明する体力も気力も尽きていたので、ネットにただ一枚だけ残る福良の忠魂碑の写真を見せると、なにやら反応が。
ああ!これ見たことあります!
あるのはええから、どこにあるんやっちゅーねん。
すると、フロントのおねーさんの口から、とんでもない言葉が!
このふもとにありますよ!
つまり、こういうことです。
全然場所ちゃうやんけ!!(笑
どこが「休暇村施設内道路脇」やねん!俺の2時間と体力を返せ!それより福良の山の中で遭難しかけたやんけ!
と文句の一つでも言いたいものの、これもまあ見つかったからよしとしましょうか。それにしても、山登りってこんなに疲労困憊になったっけ?というほどしんどかったです。
いろいろすったもんだはあったものの、ようやく見つけました福良の忠魂碑。
こちらも砲弾の形をしています。
正面にはなにかの徽章が見えます。最初は菊の御紋か在郷軍人会のマークかと思ったのですが、どうやらどちらでもない、見たことがない模様です。一体これは何か、わかる方は教えて下さい。
裏に回ると、「昭和三年11月建之」とはっきり書かれております。
再び正面へ戻ると、「陸軍大将一戸兵衛」という人物の筆であることがわかります。
一戸兵衛(いちのへひょうえ 1855-1931)は、「陸軍三長官」のひとつである教育総監になったものの、世間的な知名度は低い人物です。大正時代に在郷軍人会長になっていますが、この碑が建てられた時の会長でもありました。
この一戸の孫娘は、のちに小野寺信少将の妻、百合子夫人となります。小野寺信のことを知ってる人がいれば、あなたはなかなかの陸軍通。
5.淡路市の忠魂碑
そして最後は、一気に島を北上。
島の北部に「釜口八幡神社」という古い神社があります。
島の東側の国道28号線を走っていると、
「なんじゃありゃ!?」
と道行く人に御慈悲と、ささやかなサプライズをもたらす大仏がそびえているのですが、その足元に神社はあります。
ここにも立派な忠魂碑が残っていました。
この紋所が目に入らぬかぁ!
とばかりに、陸軍と海軍のシンボルが正面に刻み込まれています。
ここの忠魂碑のユニークなところは、碑の形も砲弾ながら、四隅にも砲弾のモニュメントがあるところ。一つの芸術作品として格好良く、視覚的に計算されているなと感じました。
そんな忠魂碑の横に、あるものが置かれていました。いや、転がっていると言った方が的確かもしれません。
大砲と砲弾です。
兵器に詳しい人によると、右は75mm砲で左側の砲弾は安式十二吋加農砲のものと推定されるそうな。
「75mm砲」の横には、「忠」の「中」が欠けているものの、「忠魂碑」という文字が見えます。砲弾も4つあるので、かつては四隅に置かれていたのでしょう。今の忠魂碑が建てられる前はかつて本物の兵器が碑となっていたのです。しかし、鉄製のため風雨に晒され錆びた結果、現在のものに置き換えられたのでしょう。
たとえ主役を譲っても、旧碑にまだ心は残っている・・・か。
裏を見ると、「昭和七年10月建之」と書かれており、洲本市内は別格とすれば他はみな昭和ひと桁と、似たような時代に作られていることがわかります。
こちらも誰かの名前が書かれていますが、ところどころ欠けていてよくわかりません。しかし、「陸軍大将 鈴木」とあるので調べてみると、あっけなく主がわかりました。
鈴木荘六(すずきそうろく 1865-1940)陸軍大将もこれといって知名度が高いわけではないですが、上に書いた一戸兵衛の後任として在郷軍人会長となりました。頼まれたら書くと全国に揮毫が多く残っています。鈴木の揮毫による忠魂碑も、全国に残っているそうです。
私が調べた限り、淡路島に残る忠魂碑は以上ですが、ほとんどないと思われていたものが数か所も一気に見つかったので、もしかして探せばもういくつか見つかるかもしれません。島の南部にある沼島(ぬしま)にもあるという図書館員からの情報もあるのですが、情報主もそんな話を聞いたことがある…という程度。機会があればこの目で確かめてみたかったのですが、それも叶わず淡路島を離れる結果となりました。
桜という鎮魂歌
「おのころ忠魂碑」の横には、最近(平成に入って)作られた、ここの地域の戦没者の名前が刻まれた芳名碑があります。
日清・日露戦争の頃からか、それともアジア太平洋戦争だけなのかは、碑を見ただけではわかりません。
が、数えてみたところ100名以上の名前が刻まれていました。
戦争で亡くなった人のお墓は、古代エジプトのオベリスクのような独特の形をしています。
先端が尖った四角錐で、墓地でなんとなく見た人も多いと思います。
この墓の形は神道系、確か天理教信者のお墓も同じだった記憶があるのですが、軍人や戦没者の墓もなぜ同じ形なのか、諸説あってよくわかっていないようです。
墓地にある兵隊の墓標を見ると、向かった戦地や戦没地などが、お墓によっては事細かに書かれています。「墓石の数だけ人間の歴史がある」というのが私の持論。墓標に刻まれた人間の生涯だけでも、ブログが一つ作れそうです。
淡路島に点在する墓地を見てみると、
「昭和十九年五月十七日印度方面(に於て)戦死」と書かれています。
昭和史や戦史をそこそこ知っている人は、「印度方面」の文字だけでインパール作戦だなと連想するはず。史実と墓標の戦死日を照らし合わせると、インパール作戦でビンゴです。
墓石の主は「獣医曹長」と書かれていましたが、階級からして軍馬の扱いに長けた人だったのでしょう。曹長となると、二等兵スタートの兵・下士官としてはかなりの高位、終点ほぼ手前の階級です。
インパール作戦は、世界の戦史でもこれほどメチャクチャな作戦はないと世界中の研究家が呆れるほどの無謀な作戦でしたが、そこで命を散らした一兵士の無念や如何。
こちらは陸軍ではなく海軍ですが、墓石の劣化が激しく読み取りにくいものの、どうにか「巡洋艦『鈴谷』」と判別できました。
軍艦にも人間と同じく、「出生地」と「本籍地」「現住所」、そして「戦没地」があります。『鈴谷』の場合は横須賀生まれで本籍地は呉。関西での海軍の管轄は広島県の呉鎮守府なので、年齢的におそらく志願で海軍に入り、『鈴谷』乗組となったのでしょう。
墓石には「昭和19年10月xxxxテ湾ニテ戦死ス」(xは判別不能)と書かれています。『鈴谷』自身が10月25日にレイテ沖で沈んでいるので、「xxテ」はレイテ。この人は艦と運命を共にしたのでしょう。
墓石に書かれた年齢は18歳、今なら高校3年生です。記録によると『鈴谷』は戦死者90名、行方不明者504名。400名以上が僚艦によって救出されましたが、そのままレイテ島の陸戦に動員されほとんどが戦死しているので、このお墓に骨は入っていないと思います。陸軍と違い、海軍は海が墓場のようなものなのです。
私自身、祖父をはじめ周囲に元海軍関係者が多く、陸軍より海軍の方に興味のベクトルが向いている上に、この墓標を目にした時の『艦これ』のイベントがちょうどレイテ沖海戦(捷一号作戦)。ゲーム内で実際に『鈴谷』を酷使していたせいか、墓石の主は赤の他人ながら他人事ではない、親近感のような、戦友のような妙な感覚を覚えました。
しかしながら、18歳ならやりたいこともたくさんあったろうにと、自然と手を合わせ冥福を祈っていました。
戦争を指導した軍や政治のトップは万死に値します。昭和史を研究している身としても、「こんな奴らが戦争指導してたのか。そりゃあかんわ」と腹立たしくもあり、鼻で笑ってしまうこともありと、複雑な気持ちを感じることも多々あります。
戦争を賛美する人もいれば、侵略戦争の尖兵を祀るなんてと死人に鞭を打つ人もいますが、彼らは黙って戦い、黙って死んでいった歴史のかけらです。右も左もへったくれもない兵隊たちに責任を突きつけるのはどうかと思います。
ここはイデオロギーなどいったんは抜きにして、国のため、故郷のため、そして家族のために散っていった若者のため、忠魂碑に手を合わせては如何でしょうか。毎年誰にも促されることなく咲き、誰にも知られることなく散っていく忠魂碑の桜の花びらの一つ一つが、僕らを忘れないでという魂の声なのかもしれません。
そういう意味では、
ここが日本一…は言い過ぎですが、淡路島一桜が似合う場所だと私は確信しております。
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