淳仁天皇陵を歩く
淳仁天皇陵は淡路島の南部、南淡と呼ばれる地域にあります。
正式名称は「淡路陵(あわじのみささぎ)」といい、農地の真ん中にドンと鎮座しています。
現代の航空写真で見ると、周囲が農地に囲まれ天皇陵だけ「浮いている」ことがわかります。
逆に言うと、長年地元の人々によって大切に扱われてきたということ。敬意や畏怖がなければ、天皇陵といえども「ただの山」としてとっくに壊され、跡形もなくなっています。地元では古くから、ここを「天王(の)森」と呼んでいました。
宮内庁が正式に発行している『陵墓地形図集成』という、古墳・天皇陵マニア必読本があるのですが、そこから抜粋した淳仁天皇陵の図です。測量自体は戦前(昭和初期?)に、陸軍の手によって行われました。
意外と知られていない旧日本軍の仕事に、測量というものがありました。陸軍は地形などの陸を担当し、海軍は海図を担当していました。
こんなの軍の仕事なのか!?と今では不思議に思えるかもしれませんが、ちゃんと担当の部署もあった立派なお仕事です。何もテッポウを撃つだけが軍隊の仕事ではありません。
陸軍は参謀本部内に「陸地測量部」という部署があり、海軍は海軍省に大臣直轄の「水路部」があり、それぞれ測量や天気を担当していました。
母体の軍は戦後に消滅したものの、海軍の水路部は海上保安庁、海上予報は気象庁に引き継がれ、陸軍の方は国土地理院として現存しています。
図書館で見つけた、昭和初期と伝えられる天皇陵の写真(絵葉書)です。
昔の写真を参考に、ほぼ同じ角度から写した写真です。昔と変わってないと言えば変わっていません。前の道も7~8年前に出来たもので、ちょっと前までは、昭和初期の写真のように道なき道を進まないとたどり着けなかったそうです。
上述のとおり、こういう古墳系は見飽きたというほど見慣れております。なので、古墳だけならさほど感動がありません。なんやまた古墳かいなと。
しかしながら、淳仁天皇の悲劇の人生のフィルタをかけて見てみると、陵墓に哀愁さえ漂ってきます。志半ばで都から淡路に流され、非業の最期を遂げた悲劇の廃帝には、淡路の景色は何色に映ったのでしょうか。
ところで、天皇陵のほとんどは、京都・奈良・大阪に集中しています。
京阪奈以外となると数は非常に少なくなり、東京にある大正・昭和天皇は別として、滋賀県大津市にある弘文天皇(大友皇子)陵、壇ノ浦の戦いで入水した伝安徳天皇陵(山口県下関市)、天皇家を1000年間震え上がらせた(?)「恐怖の大魔王」、崇徳天皇陵(香川県坂出)があります。
兵庫県にある淳仁天皇陵もその一つで、しれーっと存在しているけれども、大正・昭和天皇御陵を入れても全国でも6例しかないレア陵墓です。淡路島どころか、冷静に考えると兵庫県唯一の天皇陵でもありますね。
淳仁天皇陵のお堀です。
仁徳天皇陵級の古墳と比べると大したことはありません。が、堀が広くて深いのが偉いのかと言われると、そうでもない。
当然、この大きさだと入ろうと思えばふつうに入ることができます。大きな声では言えないが、ここでよく遊んでいました…という、一昔前は子供だった人たちは絶対にいるはずです。
当然、ここは宮内庁の管理につき立入禁止ですが、子供の世界ではそんなこと知ったこったない。好奇心の赴くまま。ただし、大人は入ってはいけませんよ。
御陵の東側に、大きなため池があります。御陵の堀を改造して作られたものなのか!?と思ったのですが、あのか細いお堀を見る限りそうではないようです。
名前はやはりかまさかか、「天王池」。天皇(天王)から名付けられたものでした。
この池、最近できたものなのかなと思って調べてみると、
昔からあったようです。ちなみに、御陵の北を走る一筋の線は、かつて淡路島を走っていた鉄道です。
ええ!?淡路島に鉄道なんかあったの!?
と驚いた方は、巻末にリンクを貼っておくのでそれを見るように。
当麻夫人墓
淳仁天皇陵から南の方向を見ると、黄色の矢印の山が見えます。
近づいて見てみると、やはり周囲の田畑に比して明らかに浮いている小山が。
ここは淳仁天皇の母君である当麻山背(たいまのやませ。生没年不詳)の墓とされている陵墓です。
淳仁天皇は孝謙上皇によって、天皇の位を廃された上淡路島に流されたことは、前編に書きました。それと同時に、母親である当麻山背も流されたとされています。天皇と同罪として同時に流罪になったのか、それとも自分の意思で子供について行ったのか、史料には残されていません。
ここも宮内庁が管理しています。
淳仁天皇陵に較べると、入口(?)に続く階段がある分、立派に見えます。
淳仁天皇陵は、実は自然の丘陵を利用した陵墓で、丘の頂上を少し加工しただけなのですが、ここも『陵墓地形図』を見ると自然の丘を利用したものと見受けられます。階段の奥の部分が陵墓になっているようです。
コメント
淡路島の事 面白く分かりやすく書いてますね
私は淡路島に先祖があり今も淡路島に住んでいます、仕事はサンテレビの駐在カメラマンです
それで淡路島から、特集でまるまる飛行場 淳仁天皇 淡路鉄道など放送しました
特に淳仁天皇の事はずっと調べています
書かれている内容はそのとうりです もっと深く知りたいと思いませんか?
何故、色んなところに墓が有るのか? どこで暗殺されたのか? どんなふうに殺されたのか? など 現地の聞き込みや資料で色んな事が分かりました
もし、知りたいのであれば情報提供するので連絡ください
淳仁天皇に最近興味を持ちました。淳仁天皇は淡路島に流された後、どこで暮らしていたのでしょう?洲本城のある辺りでしょうか?詳しい資料などございましたら、教えてください。よろしくお願いいたします。
>ひで様
拙記事をお読みいただきありがとうございます。
淡路配流後に住んでいたところは、ブログ記事にも書いていますが、
①南あわじ市の大炊神社
②同野邊の宮
など候補が何ヶ所かあって定かではありません。
鎌倉時代にはすでに「~と言われている」と書かれていた次元なので。