神戸は大東亜戦争(太平洋戦争)の末期、アメリカ軍による激しい空襲を受けた都市の一つです。
昭和17年(1942)の日本初の空襲1の一つに選ばれた都市の一つでもあります。
本記事では、神戸空襲の歴史や主な空襲の被害の概要、そして現在の神戸に残る戦災の痕跡記事の紹介について解説します。
神戸空襲概要
神戸市は、米軍の攻撃リストの中でも「真っ先に焼き払うべし都市」とマークされ、大小合わせて神戸が空襲を受けた回数は、なんと128回。これは東京の130回に次ぐ日本2位の記録であり、大阪の33回と比べてもいかに多いかがわかります2。

昭和20年(1945)には複数回の大規模空襲が行われ、特に3月17日、6月5日の空襲では現在の市街地のほとんどが焼き尽くされました。
特に3月、6月の空襲は一般に「神戸大空襲」と呼ばれ、全体の被害は
・死者:約7,500人
・焼失家屋:約14万戸
・罹災者:約53万人
に達しました。
さすがに128回も紹介できないので、本記事では主な空襲の解説を。
第ゼロ回神戸空襲(昭和17年4月18日)
最初の空襲は、昭和17年(1942)にまでさかのぼります。

空母ホーネットに無理やり搭載したアメリカのB25爆撃機16機が、東京や横須賀などを奇襲したこの空襲は、爆撃の指揮官の名をとって「ドーリットル空襲」と呼ばれ、知る人ぞ知る米軍による日本初の空襲です。
このB25爆撃機は元の空母に着艦できるわけがなく、日本をそのまま通り過ぎ中国大陸などに不時着。墜落して亡くなったり、日ソ中立条約を盾にソ連に着陸を拒否られたりという、良く言うとかなり大胆ですが、悪く言うと相当無茶な作戦でした。「アメリカ人が考えた特攻作戦」と言ってもいい。
その上、その割には物理的な被害は少なく、ドーリットルをもじって「Do nothing」(しかし、なにもおこらなかった)だと笑いのネタにされました。
当時はまだ性能も低く、不発弾(=不良品爆弾)も多かったといいます。それが「アメリカ恐るるに足らず」と余計に慢心させることになったのが、皮肉なものです。

小売業のダイエーの創始者、中内功の生家サカエ薬局が神戸の川崎重工の近くにありました。
生家は現在、神戸市西区にある流通科学大学の中に移転・保存されていますが、この空襲の際に焼夷弾が1〜2発、家に落下したそうです。
が、大量ではなかったせいか、火事になるまでもなく消し止められました3。
しかし、神国日本の空が鬼畜米英に汚されたという心理的ダメージは大きく、水際で防ぐべき海軍は何やってるんだと批難の声も高まりました。
これがかのミッドウェー海戦への伏線となったことから、太平洋戦争史のキーポイントでもあります。そういう意味では、「ドーリットル空襲」は戦術的には失敗だったものの、戦略的には大成功でした。
「ドーリットル空襲」は東京など関東では目撃者も多く、作家の阿川弘之も徴兵検査当日だったせいかはっきり覚えており、当時東京に在住していた外国人(大使館員など)も傍観者として記録に残しています。
それだけに、「ドーリットル空襲=東京だけ」というイメージも強いことは確かです。
数年以上前になりますが、Twitterで

横須賀で空母『龍鳳』に改装中の潜水母艦『大鯨』が、ドーリットル空襲の流れ爆弾に当たって損傷した
と書いたら、東京しか空襲していない、知ったか乙と嘘つき呼ばわりされたほどでした。そんなおバカさんにはとりあえず一次資料でぶん殴っておきましたが、それだけ東京「だけ」というイメージが強いのです。
しかし、B25は東京の他、川崎市、横須賀市、名古屋市、四日市市を爆撃しており、神戸市にも1機が来襲、爆弾を落としています。大阪より早くに空襲されていたことに、驚く人も多いかもしれません。
これが記録に残る神戸最初の空襲ですが、被害はほとんどなく、神戸市の公式記録でも空襲にカウントされていません。当時の市民の回想も、

なんか飛行機が来てたよね…
程度で、どうやら「Do nothing」だったようです。
神戸大空襲予行演習(1945年2月4日)
「ドーリットル空襲」の頃はまだDo Nothingと皮肉れるほどの余裕があった日本も、昭和20年に入るとほとんど余裕がなくなっていました。
戦争中の体験記などを読むと、戦前は裕福だった文士も昭和19年末になると食うものも食えず、食糧事情が逼迫し始めた頃でもあります。
昭和19年(1944)8月、サイパン島などマリアナ諸島が陥落、ここに米軍が飛行場を作ったことにより、日本本土のほとんどがB29の空襲の射程範囲に入りました。
日本本土への空襲も、翌年から各地で行われることになりました。
サイパン陥落以降、神戸の上空にはB29の編隊が飛んでくるようになりましたが、あくまで偵察や写真撮影用。なーんだ、爆弾落としてこないのかよと市民が安堵する中、焼夷弾による爆撃が2月に行われました。

濃い赤の部分が被害箇所ですが、これは焼夷弾の威力を試すための実験空襲だったことが米軍の公開資料からわかっています。鐘紡や川崎車両などの工場が被害を受けたものの、友軍機も応戦したこともあり範囲の割には被害は少なかったようです。
また、7日の午前1〜2時の間にも空襲があり、1トン級大型爆弾で元町の大丸界隈の建物のガラスがすべて割れたなどの被害が出ました。
しかし、この前月に、米軍は無差別空襲を主張したカーチス・ルメイが司令官に就任。これは翌月から起こる地獄絵図の、ほんの腕鳴らしに過ぎませんでした。
第一回神戸大空襲(1945年3月17日)
空襲実施機数(B29):307機
投下爆弾量:約2,328トン(焼夷弾が中心)
被害区域:兵庫区、林田区、葺合区、新開地、元町、三ノ宮
東京大空襲から一週間後、神戸ははじめて大規模空爆の被害に晒されます。
都市工業地域に対する夜間焼夷弾攻撃と中高度昼間攻撃法が併用されることになったこの空襲によって、西は現在の長田区・兵庫区、東は三ノ宮駅前など神戸市の西半分が多大な被害を受けました。
妹尾河童の傑作、『少年H』で描かれている神戸空襲は、この3月のものです。



この空襲に一つ、大きな特徴があります。それは超がつくほど低空からの爆撃だったということ。
B29による空襲と聞いてイメージするのは、「かなり高いところ」からということを想像することがほとんどだと思います。それはある意味当たっています。実際の空襲も、6,000~10,000mからということが多い。
しかし、この空襲の攻撃高度は1,900~2,500m。
神戸の空襲全体の平均攻撃高度が、ざっくり5,000~6,000mくらいなので1、2,000mなど異常とも言える高度です。3月10日の東京大空襲も同様の高度でした。
地面と高度の距離が近いと、目標に対する命中率は当然上がりますが、撃墜されるリスクも高い。2000メートルなど対空高射砲の絶好の餌食なのに、敢えてその高度でやってくるということは、やる方も決死の覚悟です。
勝ったのですべて「正義」とされましたが、アメリカさんも彼らなりに「特攻」をやってたのです。ただ、パイロットに「死んで来い」とは言わなかっただけで。
しかし、さすがにこれは高度が低すぎて迎撃の友軍機や高射砲の餌食になり被害も大きく、以降の空襲の高度は上述した5〜6000mとなっています。

コメント