天童と遊里
天童とくればまっさきに思いつくのが、歌手の天童よしみ…ではなく、将棋をイメージする人が多いと思います。
江戸時代、天童は織田信長の次男信雄の子孫である天童織田藩の領地でした。といっても織田家が天童に入ったのは19世紀の天保年間。その後すぐ明治維新なのでたった40年間だったのですが、その40年間に、現在へとつながるある産業を興します。
それが将棋の駒。藩士の貧困対策に始まった内職でしたが、それが有名となり「天童=将棋」の土台ともなりました。現在でも、将棋の駒のほとんどが天童産、「天童=将棋」を根付かせた大功労者です。
二つ目が温泉。天童は温泉も有名ですがその歴史は案外浅く、明治20年代に干ばつが起こりそうだったので、ある農民がその対策にと井戸を掘ると温泉が出てきたのが始まりです。
が、当時は温泉目当てではなく灌漑用で堀ったもの、その価値がわからず放置プレイだったのですが、20年後の明治末期にそれに目を付けたある人が温泉宿を開いたのが、現在の天童温泉の始まりです。
現在では、将棋+温泉コラボで将棋のタイトル戦の舞台ともなり、
温泉入りながら将棋指せるぜヒャッハー!
と、死ぬまでに一度は行けという将棋好きのエルサレム状態。
そんな廓とは縁のなさそうな天童にも、遊郭は存在していました。
遊郭があった街、三日町
天童の遊郭があったところは、現在の奥羽本線(山形新幹線)天童駅の南側にある三日町という場所でした。
ところで、今まで本ブログで扱った遊郭は、風紀上の理由などで町外れの一角に集約、言い方を変えれば隔離されていました。その区画を本来は「遊廓」-法的な正式名称を「貸座敷免許地」-と言います。「女郎屋」と呼ばれた妓楼=遊廓という本来は間違った使い方が多く見受けられますが、まあそこは私はマナー講師ではないので、細かいことは抜きにしましょう。
(『ふるさと三日町のあゆみ』より。大正時代の三日町)
羽州街道沿いに開けた宿場町として栄えた天童の中でも、いちばんの繁華街だったところがここ三日町。妓楼は置屋や料理屋などと共に、上の地図で示した赤枠内のあちこちに散在していました。めし屋や酒屋、宿屋が建ち並ぶ商店街の中に「女郎屋」もあったというイメージです。
ここが、今まで紹介した遊里とは大きく違うところであります。
大名の参勤交代も通る天童宿の、明治以前の遊女の歴史は定かではないですが、やはりというかまさかというか、ここにも「飯盛女」がおり、旅籠屋(宿屋)が抱えて(雇って)いたとの記録があります。
「飯盛女」、または「食売女」とは、街道筋の旅籠屋の雑役を行う女性スタッフの一種なのですが、そんなものはただの建前。実際は売春婦の代名詞でした。
飯盛女がいつから天童に居着くようになったのか、記録には残っていません。が、幕末の文久3年(1863)に天童の飯盛女が藩公認の公娼扱いとなり、この年が天童遊郭元年とされています。
その時、次のような遊女屋があったそうです。
参考:『天童の生い立ち』『ふるさと三日町のあゆみ』など
屋号は遊郭によくある「~楼」ではなく「~屋」。この屋号を見てわかるとおり、天童の遊女屋は旅籠屋兼業。天童の妓楼の屋号は、一部例外を除き戦前を通して「~屋」だったのですが、ルーツをたどると旅籠屋の転業で、遊女のルーツは飯盛女だったからなのです。
近代以降、天童遊郭の名前が出てくるのは明治14年(1881)の『山形県統計書』より。その時の天童遊郭の数字が妓楼11軒、娼妓39名となっていますが、実はこれが天童遊郭の数字的なピーク。娼妓は出入りが激しいのでそれ以上になることもありますが、妓楼数はこの11軒が歴代MAXで、あとは徐々に、皮を一枚ずつめくるように衰えていきます。
その理由は二つあります。
一つは鉄道(奥羽本線)の開通。明治34年(1901)に天童駅が開業するのですが、人とモノの流れが鉄道に一気に傾きます。
そして、もう一つは温泉。温泉は繁華街だった三日町とは方向が全く違います。
図で示すと、鉄道と温泉で人とモノの流れが全く変わってしまっていることがわかると思います。
さらに、郷土資料によると鉄道で山形や新庄・酒田の商人がどっと天童へ押し寄せ、在来の商家が競争についていけず消えていった影響もあったようです。
それにつれ、三日町は繁華街としての機能が徐々に衰えていきます。三日町にあった遊郭も当然その影響を受け、統計書の数字を追っていっても、本当に皮が一枚ずつ剥がれていくような衰退のさまが見て取れます。
全国に何人いるか定かではないですが、全国の遊廓跡を回る私を含めた物好きの中でも、天童の遊郭はほぼノーマーク。それは何故かと言うと、遊郭・赤線跡をゆくバイブルの一つ『全国遊廓案内』には非掲載だから。
そんなアホなと山形県の欄を見ると、確かに載ってない。なぜ無視されたのかは不明ですが、隣町の谷地町の遊里は掲載されているのに不思議です。
では、このときには消滅していたのではないか?という仮説を立てましたが、統計書には首の皮一枚の虫の息ながら存続しています。
このブログ記事を見た物好きは、
天童に遊郭があったのか!『全国遊廓案内』には書いていないぞ!
と地団駄を踏んでいるかもしれませんが、参考資料を一冊だけにするのがいけないのだよ。
天童の遊郭のその後は、資料からは明らかになっていません。推定にすぎませんが、「遊女屋」は三日町の衰退や戦争による緊縮・贅沢禁止のかけ声と共に衰え、消えていったのではないでしょうか。
コメント
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