山陰の京都とも呼ばれる鳥取県の倉吉。昔の白蔵が残る町並みは山陽の「倉」こと倉敷に対し、山陰の「倉」と呼ばれているのだとか。
そんな古風な雰囲気を醸す倉吉に「変化」が訪れています。
アニメの聖地として町おこしをしようとしているそうで、倉吉駅の改札を出た途端になんだか萌え~な空気に。日本最大級のフィギュアの博物館もオープンしたんだとか。嗚呼教えてくれ、どこへ行ってしまうんだ倉吉よ。
気を取り直して、今日のお題はそんな倉吉にあった「遊郭」の話です。
倉吉の「遊郭」
今回のお題は、鳥取と米子の間にある倉吉市。倉吉に遊郭があった…そのようなデータはどこにも存在はしません。いや、公式データにはなかったが故に、ほぼノーマークだったと表現した方が正解です。
倉吉市は江戸時代から栄えた商業都市で、その時の町並みが今でも残っています。文字通り「倉」の町で、瀬戸内側「倉敷」、日本海側の「倉吉」とも言われているそうです。
江戸時代初期、大阪に淀屋という商家がありました。
今で言う先物取引で大金持ちになった豪商で、当時の大坂より西の大名で淀屋から金を借りていない大名はないというくらい、その借財は合計20億両、今の金額に直したら120兆円と言われています。
しかし、その金持ちぶりと贅沢ぶりが幕府に目をつけられ、「町人の分際であるまじき行為」という理由で五代目の代に財産全没収、大坂追放の処罰を食らってしまいます。
で、その淀屋と倉吉と何の関係があるのか。
五代目淀屋辰五郎は結局、30歳で失意のうちに亡くなります。全財産没収だからそりゃそうでしょう。
が、その後、淀屋の先代の番頭、牧田仁右衛門が淀屋から暖簾分けしてもらい、生まれ故郷の倉吉に店を構えました。その牧田仁右衛門が淀屋取り潰しの後、淀屋を復活させます。
牧田家は代々淀屋清兵衛を名乗り、「淀屋マークⅡ」として幕末まで倉吉随一の商家として栄え、倉吉の発展を支えました。
明治以降は近代交通の発達で商業都市としての役割は終えました。が、開発から取り残された分古い町並みが残り、観光都市として脱皮して現在に至っています。
倉吉にあった新地とは
さて話を戻して、その倉吉のどこに遊里があったのかというと…
倉吉市旧市街中心部、越殿町の一部となります。
越殿町という少し変わった名前の由来は、古くは戦国時代にさかのぼります。
倉吉界隈はその昔、南条氏という豪族が支配しており、毛利氏の勢力下になっても領土は安堵されたようで、その体制が関ヶ原の戦いまで続きました。
南条氏は関ヶ原で西軍側につき改易されたのですが、その家臣に山田越中という人物がいたそうです。山田越中が本名なのか、山田越中守を名乗っていたのかはわかりません。山田越中はこのあたりを領地としており、領民は「越殿」と尊称していたことから、ここが越殿町となったそうな1。
隣に「越中町」がありますが、そこも同じ山田越中からきています。
話は一気に近代に飛びます。
鳥取や米子などに遊郭が出来た頃、倉吉にはまだ遊里というものは存在していませんでした。
現在の新町の界隈が当時の繁華街だったのですが、新町には『旭座』という倉吉一の大劇場がありました。が、そこ周辺で隠れ売春を行っていた「曖昧屋」が数多く存在し、地元の人は『旭座遊郭』と揶揄していました。
(画像提供:Twitterのフォロワーさん)
『旭座』があった場所には現在、倉吉のローカルスーパーが建っています。
『旭座』は時代の流れで映画館となり、東宝系の映画を上演していました。が、映画の斜陽化の流れで今度はスーパーマーケットに華麗なジョブチェンジを遂げ、元東宝系の映画館だったことから名称が「東宝ストア」に。のちに改称されTOHOとなり、現在に至っています。
倉吉新地の成立
いくら取り締まってもなくならない私娼を集約し、「地域発展のため」と使い古された理由で遊里の設置話が持ち上がったのが、大正5年(1916)のこと。そして設置の許可が出たのが大正末のこととなります2。
大正末って具体的に何年やねん!?という、どうでも良い疑問は、ある書物が解決してくれました。
「大正十三年風紀取締の必要上売笑を常習とする酌婦置屋業者を絡めて一廓をなさしむべく、倉吉三朝土地株式会社を創立して資金を供給して(以下略)」
『くらよし』池口季蔵著
倉吉遊郭の成立は大正13年だとはっきり書かれていました3。
そして、倉吉の遊里は「倉吉新地遊廓」という正式名称があったことも記されていました。
ただし!ここで一つ注意があります。
結論を先に書いてしまうと、倉吉が遊郭だったことは一度もありません。
倉吉新地遊郭は『倉吉市史』にも、そんなに詳しくはないけど書かれいる歴然とした事実です。が、なぜ『全国遊廓案内』などの資料には掲載されていないのか。
大正末あたり、倉吉新地が出来たばっかの頃に編集されたと推定される『日本遊廓一覧』ならさておき、『全国遊廓案内』に未掲載なのは何か理由があるのではないかと。
このヒントが、『鳥取県史』に書かれています。
遊郭・赤線跡をゆく米子編でも触れましたが、人身売買禁止の観点からの全国的な廃娼論が活発になったのと、大正末から昭和はじめの恐慌、そしてカフェーなどの新しい風俗産業の進出で遊郭は大打撃を受け、たちまちオワコンとなりました。
鳥取県も例外ではありません。遊廓は高額税金を生む金の卵でもあるので、潰れてくれると地元も県も経済的に困る。
そこで鳥取県が導入した画期的な(?)制度が、「娼妓の酌婦化」でした。
酌婦とは法律的な言い方で、「お客の横について酒のお酌をする女性」ってこと。水商売のおねーさんが「平成の酌婦」に当たります。
もちろんお酌をするだけでそれ以上の行為はNGですが、実際は「酌婦」というと私娼の代名詞。
「大辞林」にも、「酌婦」の欄に
「②下級料理店などで客をもてなすだけでなく売春もする女」
と書かれており、「酌婦≒売春婦」が一般世間での認識でした。
その私娼の集大成というか結晶が、あの伝説の東京の魔窟、玉の井や亀戸。といっても、玉の井も警視庁に黙認されていたため、言い方を変えると「東京の隠れ遊廓」でした。まあ、「隠れ遊廓」と言っても、玉の井は有名になりすぎて「隠れ」でも何でもなかったのですけどね。
娼妓を酌婦にしたらどういうメリットがあるか。
遊廓の娼妓は内務省と県がダブルで管理し、遊郭で働く場合、親の承諾書やら娼妓になる理由やら、提出する書類が山ほど必要になります。もちろん時間もかかります。
酌婦の場合はそんな書類も特に必要なく、地方に行ったらかなりゆるゆるな所もあります。
そういうさじ加減は実際は地方に丸投げで、内務省の娼妓取締りの法律をベースとした、道府県が独自で作った取締条例もありました。
戦前の知事は直接選挙ではなく、内務省のエリート官僚が中央から派遣されて就く職、条例作る前に内務省に根回ししておけばそれでよし。
例えば、娼妓は遊郭の外に出る時にはその都度警察の許可が必要で、無断で外出したら罰金はもちろん、警棒で殴られリンチを食らうこともありました。
が、鳥取県は条例を変え、昭和2年(1927)に娼妓の自由外出を許可しました4。
国が法律でそれを変更するのは昭和8年(1933)のこと、鳥取県は国より6年先取りしていました。
また、18歳に達しないと娼妓にはなれなかったのですが、酌婦は法律上は16歳から。公娼を私娼(酌婦)にすることによって、法律上は「酌婦」のカフェーの女給と同じになり、天敵であるカフェーとの競争力がつく。
更に、公娼は身請け金という事実上の人身売買が人権の観点から標的になっていたのですが、酌婦だとタテマエ上は身請け金なし、廃娼運動家の攻撃も避けられる。
そんなこんなでメリットが多い公娼の酌婦化、実は倉吉新地遊郭は鳥取県が考えたウルトラC、「公娼の酌婦化」のモデルケースとして作られたみたいで、大正5年の設立案から実際の設立まで10年近くかかったのも、倉吉新地遊郭は今までどおり公娼にするか、それとも酌婦化するかで揉めていたからなのです。
そして倉吉新地は酌婦制にすることが決定したのですが、きちんと区画整理された土地(新地)も用意した、私の造語でいう「準遊郭」でした。
厳密に言えば、倉吉新地が遊郭、近代法制史に言う貸座敷指定地であったことは歴史上一度もありません。よって、「遊郭」と書いてしまうと明らかに歴史ねつ造になってしまうのですが、現地の資料にも「遊郭」と書かれているし(消費者側から見れば「やることは同じ」だから公娼・私娼なんてどうでもいい)、便宜上かぎ括弧をつけて「遊郭」と書かせていただきます。
こちらは昭和4年(1929)の倉吉町(当時)の地図ですが、越殿町あたりに注目。
「新地」と書かれています。地図から確認できる倉吉新地「遊郭」のもっとも古い記録となります。
倉吉新地は新しい「遊郭」ということもあり、その姿は
「山陰唯一、他に見ることが出来ぬ、大廈高楼軒を並べた現在の廓を現出したものである」
『くらよし』池口季蔵著
とな。
図書館の資料を掘り進めていくと、倉吉新地の写真が残っていました。探せばあるものです。
倉吉新地「遊郭」が現役の頃の写真としては、おそらく唯一かもしれない写真です。
写真だけ見たら、「どこが『大廈高楼』やねん!!」とツッコミを入れてしまいそうですが、それは今の常識での概念、当時は東京とか大阪の都市部はさておき、地方では3階4階建てでも「高層建築物」でした。
恐らく大正~昭和初期の倉吉はほとんどが平屋、2階建てでも「大廈高楼」だったのだろうはずです。あるいは、新地の建物の豪華さかつ威圧感が、「大廈高楼」に見えさせたのかもしれません。
公娼の酌婦化のモデルケースだった倉吉新地が成功したせいか、昭和9年(1934)に米子が、昭和13年(1938)に鳥取衆楽園が娼妓を酌婦に切り替え、鳥取県は遊廓がない廃娼県に。もちろん、ここまでの流れでわかるように、売春がなくなったわけではありません。
倉吉新地が「準遊廓」だったことは、内務省警保局がまとめた私娼窟リストにも記載があることか、明らかです。
昭和4年(1929)末でのデータは、
Wikipediaの「遊廓」の「近代以降の遊郭」の項目に書いてある、「草間によれば、「昭和4年12月末日における統計は以下の通り」以降の数字は、Wikipediaの数字とこの資料の数字がぴったり一致し、おそらくこの内務省資料を元ネタにしていることがわかります。
草間というのは当時の社会学者の草間八十雄のことで、当時の貧民や娼婦などを研究対象にしていた学者でした。内務省の嘱託やった時期もあり、内務省には少なからず顔が利いたはず。数字が面白いくらい一致するということは、草間が何らかの形でこの資料を見たか、資料作成に本人が関わっていたのではないかと考えるのが自然です。
現地資料にも、倉吉新地の昭和5年現在での営業者数は12軒、酌婦の数は60余名。世界大恐慌で日本がどん底の時期の遊里としては、規模をABCDにランク分けしたらC+かB-って感じの規模かと思います。
また、現地の古老から聞いた情報では、うろ覚えという前置きつきで、昭和10年前後には一つの妓楼にだいたい8~10人の女性が働いていたそうです。それだと、単純計算では80人か100人になります。
昭和5年現在での倉吉新地遊郭の妓楼の名前は、
・長寿楼(253)
・お多福楼(246)
・扇楼(61)
・勝山楼
・八橋家(251)
・梅の家(215)
・文楽亭(308)
・旭楼(225)
・光島楼(330)
・松竹楼(302)
・第二扇楼
合計:12軒
店の横の括弧の数字は、当時の電話番号です。せっかく資料に書いていたので、備忘録代わりに。
これでわかるのは、倉吉新地の電話普及率の高さ。現在は誰でもケータイを持ってる世の中ですが、昔は電話を持ってるだけですごいステータス、電話の使用権自体が「財産」として売買もされていました。
どれだけ高いかというと、
・東京:1,120円
・大阪:1,020円
・名古屋:865円
というデータがあります。加入権だけでも、地方でなら家が一軒建つお値段です。
いわゆる「遊女屋」に電話があるとないとでは、商売上ものすごいアドバンテージがつきます。とは言え、この電話所持率83%という高水準は、いかに恵まれた環境で遊廓やってるか、妓楼の主が金持ってるかを垣間見ることができます。
ちなみに、同じ私娼街でも戦後の赤線時代の玉の井で売防法寸前(昭和33年)で約13%(私独自調べ)、戦前の「銘酒屋」はもっと低かったのではなかろうかと思います。
また、内務省が内密に調べた私娼街のデータにも、倉吉の名前が「越殿町」の名前で出てきます。
戸数、つまり営業者数は12軒と一致するものの、はたらく女性の数は、上述した地元の資料や地元住民の回想とはかけ離れた数字となっています。まあ、これも「1円の帳簿の違いまでうるさく言われる」公娼ではなく私娼窟なので、数字はあくまで参考程度、真実の数字はどちらか正しいのか、それは今となっては神のみぞ知るです。
戦後の倉吉新地
当然のことながら、倉吉新地は戦後も赤線として残りました。
昭和25年(1950)発行の『倉吉町勢要覧』には、倉吉の企業の広告がページを連ねているのですが、その中に。
こんなものもありました。「越殿町料理組合」の広告です。
当然、こちらは昭和25年当時の、赤線としての越殿町の広告、戦前より3軒減って9軒となっています。昭和5年当時と比べると、「お多福楼」「勝山楼」「長寿楼」の3軒がなくなっていますが、「丸○楼」という一風変わった名前の新参者が入っており、なくなったのは実質2軒のみのようです。
そして売防法寸前のデータを見てみると。
●鳥取:業者数30軒 接客婦数78人
●米子:業者数29軒 接客婦数77人
●倉吉:業者数11軒 接客婦数43人
●境港:業者数9軒 接客婦数23人
(出典:『鳥取県史』 売防法施行寸前のデータ)
そして昭和33年(1958)の売防法完全施行につき、倉吉の赤線も幕を閉じました。
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