倉吉新地遊廓(鳥取県倉吉市)-消えた遊郭・赤線跡をゆく

倉吉新地遊廓サムネ 遊郭・赤線跡をゆく
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倉吉新地を歩く

2020年5月、新型コロナウィルスの非常事態宣言も落ち着いたところで、満を持して越殿町の実地調査に向かいました。
といっても、9年前、まだここが遊郭・赤線マニアの中でもほとんど知られていなかった頃に訪問したことがあります。
当時はかつての大妓楼が何軒か残り、色里だった頃の姿をかなり留めていたのですが、9年経った現在はどうなっているでしょうか。

メインの道路から少し奥まった道を入っていったら、そこは倉吉の新地跡。

倉吉遊郭新地

もちろん現在はただの住宅地になっていますが、電柱の「新地」の文字が、かつてここが遊里だったことをしのばせる、地味な証拠となっています。

 

2020倉吉新地遊廓

早速見つけた妓楼…ではなくその跡の駐車場。駐車可能台数の多さかから、かつてここには大きな建物があったことがわかります。

2011倉吉新地遊廓

9年前、2011年にはこんな妓楼が建っていました。
こちらは「梅の家」といい、写真でもわかるとおりかなり大きな妓楼でした。新地の玄関に位置しているため、かなりの客入りがあったと予想されます。

2011倉吉新地遊廓

2011倉吉新地遊廓

こんな色つきガラスはもちろんのことながら…

2011倉吉新地遊廓梅乃家

裏口には「梅乃家」の屋号まで残っていました。残念ながら、これらはすべて更地になり何の欠片も残っていません。

 

倉吉新地遊廓

この屋号は、上で挙げた昭和初期の倉吉新地の写真に「本梅乃家」と書かれており、屋号であったことが確認できます。

なお、「梅乃家」は赤線廃止後、「旅館梅の家」と転業したと、当時の住宅地図には記載されています。

 

倉吉新地遊郭赤線9年後比較

メインロードの写真を比べてみると、左側の写真にはある妓楼(梅乃家)が更地になっていることがわかります。
逆に言えば、それ以外は変わっていないと言えばいない…。

 

2011倉吉新地遊廓赤線
「コ」の字になっている倉吉新地跡ですが、線と線が交わるところにはこんな元妓楼も残っていました。9年前の時点で人の住んでいる気配はなく建物も朽ちかけていたので時間の問題かと思っていましたが…

 

2020倉吉新地遊廓 案の定お亡くなりになっていました…。

2020倉吉新地遊廓

しかし、建物がない分、9年前には想像すらできなかったアングルで写真を撮ってみました。一体何坪なのかわからないくらい大きく、ここもかなり規模の大きな妓楼だったということがわかります。

2011倉吉新地遊廓

ちなみに、9年前の裏手はこんな感じでした。

 

しかし、BAD NEWSばかりではありません。

 

2020倉吉新地遊廓元扇楼

こちらは9年前と変わらぬ姿で残っていました。

これは元「扇楼」で、赤線廃止後は「梅の家」に同じく旅館となったようです。

 

2020倉吉新地遊廓元扇楼

スマホで撮影のせい…もとい撮影者の撮影スキルが低いせいでアングルが少しおかしくなっていますが、玄関を見てもここもかなりの大妓楼だったことがわかります。

 

倉吉新地遊廓旧扇楼

地元の資料の中で見つけた旧「扇楼」の写真。時期は不明ですがおそらく旅館も廃業した後でしょうか。たたずまいが変わっていません。

 

2011倉吉新地遊廓

側面には、曲線的な格子が残ってました。
木造の建造物に曲線をつけるのはかなりの技巧が必要という話を聞いたことがあります。これもさりげないけれども、贅を尽くしたデコレーションなのかもしれません。

しかしながら、表札は残っているものの、門は固く閉ざされ人が住んでいる気配もしません。持ち主が亡くなって空き家になってしまったのでしょうか。今後ここもどうなるかわかりません。保存状態が良いだけに今後が危ぶまれます。

 

2020倉吉新地遊廓稲荷神社1

新地の真ん中には、稲荷神社が鎮座しています。このシリーズを見ていただいている方はおわかりの通り、遊郭などの遊里には、お稲荷さんがセットのようについています。倉吉新地も例外ではなく、昭和35年の地図にも存在しているので、現役の遊里の頃からあったことは間違いありません。ここで働く女性たちも、ここに参っては手を合わせていたことでしょう。

9年前に比べ、鳥居も新しくなりお供え物もありました。地元の人に大切にされていることがわかります。

2020倉吉新地遊廓稲荷神社3

昔からあると思われる古びた灯籠には、寄進者の名前が刻まれていました。元ここの楼主でしょうか。

 

旧倉吉新地遊廓中倉医院

新地の中に一軒、明らかに年季がありそうな建物が残っています。

こちらは妓楼ではなく、新地内にあった「仲倉医院」だった建物で、昭和初期に建てられたものだそう。

9年前に訪れた際は空き家で、放置プレイされ朽ちるに任せていたのですが、2015年からアートセンターとして再利用されているそうです。中は見れずだったのですが、回廊型のなかなか立派な建物だそうです。

で、私はある疑問にぶち当たることになりました。

私

ここは、遊里指定の花柳病診断医院だったのだろうか?

いつの時代も、私娼というのは世にはびこるものです。公娼という遊郭があっても私娼は遊郭のおこぼれを頂戴したり、時には遊郭の客を奪うこともありました。

当然、公娼がある以上私娼は犯罪。警察は容赦なく取り締まっていたのですが、それでも減るどころか増える一方。ついには警察の方が根を上げ、遊郭並みの頻度で性病の検査をしろという条件で事実上の黙認となりました。

ただし、営業形態は様々。東京の有名な玉の井は「銘酒屋」、大阪の今里新地や和歌山の天王新地は「花街」、大分の別府は貸席と、道府県や遊里によって違っていたようです。

晴れて黙認となった私娼窟ですが、週1~2回の性病検査が必須となりました。公的病院が診療する公娼と違い、私娼窟は近くの病院が兼ねることが多かったようですが、この仲倉病院が果たしてそうなのか!?

あれこれ調べてみると、昭和40年10月22日の『鳥取県公報』に仲倉医院の記載があり、それによると院長は仲倉文蔵、診療範囲は内科・外科・小児科・皮膚科・泌尿器科だそう。泌尿器科は性病の範疇だけれども、どうもここではないようです。

倉吉新地遊廓

ここでなければ、かつて新地の裏にあった「厚生病院」が担当かもしれません。中規模の総合病院があり、婦人科のあったと現地の資料に記載があるので、場所的にも近いのでここではないかなと推測しています。

 

9年前に比べ「大妓楼」が消えてしまい、ますます遊里跡の色彩が薄くなった倉吉新地跡でしたが、時がもう少し過ぎると最後はここも、歴史の一部としてマイナスではなく、プラスのものとして語られる時が来るかもしれません。その時、このブログが微力ながら役に立つことができれば、一歴史語りとして満悦の心持ちであります。

NEXT:米子にあった遊里のお話

・『鳥取県東伯郡倉吉町勢一覧 昭和4年』倉吉町編
・『鳥取県史』
・『倉吉市史』
・『鳥取県警察史』
・『倉吉町誌』
・『倉吉町勢要覧』昭和25年、27年
・『くらよし 昭和5年 附 三朝温泉』池口季蔵著 倉吉 因伯時事評論社
・『倉吉郷土読本 上巻』 成徳小学校教育研究部/編
・『倉吉案内記』柴田文次郎著 桑田書店
・『倉吉考』生田昭夫著 堂設計室

 

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