歴史や地図の上では消えた遊郭も、街路を実際に歩いていればその痕跡が今も眠っています。
鳥取県米子市の花園町、かつてそこには花園町遊郭がありました。
昭和戦前から赤線まで続いたこの一帯には、今なお当時をしのばせる痕跡が街路や建物に残っています。
本記事では、実際に花園町の遊郭跡と歩きながら、その遊里の跡を拾い上げていきます。
米子・花園町遊郭の場所
遊郭跡の場所は米子市の北西部、花園町にあります。
米子駅からかなりの距離があるのですが、遊郭が現役だった時代には花園町の近くまで鉄道が通っていたのは、歴史編で述べた通りです。
また、遊郭跡目当てなら境港線の後藤駅の方が近いです。

花園町イコール遊郭の範囲ではなく、その一部の、赤枠で囲んだ範囲が遊里の跡となります。
花園町遊郭跡を歩く

ここが遊廓のメインロードで、昔は道路の真ん中に桜の樹が植えられていました。遊郭に桜もおなじみのコンビですが、売防法施行以降、航空写真で確認したところ、昭和37年(1962)から47年(1972)の間に取り払われたようです。
左にある「はやし食品」は、昭和35年(1960)の地図にも同じ場所にて存在しております。赤線時代からこの町の変化を見続けていた生き証人かもしれません。

だいたい大正時代後期のものと伝えられる花園町のメインロードの写真です。奥が山っぽく見えないこともないので、もしかして私が撮影した方向と同じアングルからかもしれません。
実は、ここには2011年に一度訪問したことがあります。
当時とさほど変わらないようにも見えたのですが、やはりいくつか歯抜けのように元妓楼がなくなっていることにも気づきます。
まだ写真と撮っておいた分、私はマシかと思っています。

現在残っている中でも、いちばん大きく、また目立つのが、大通り沿いに君臨するこの建物。10年前には人が住んでいた気配があったのですが、現在は空き家になっている様子です。玄関までの奥行き、何千人もの人が通ってすり切れた石畳がある表玄関だけでも、こりゃ「ただもの」ではないなという存在感をいまだ遺しています。
赤線廃業から間もない昭和35年の住宅地図を見ても、ここは個人名しか書かれておらず、かつては何の、どんな建物だったのかを確認することはできません。が、間違いなくこれは元妓楼。

歯抜け更地となって裏路地からも丸見えだったのですが、やはりただならぬ雰囲気を漂わせています。

その隣におわす建物は、住宅地図によると「旅館一富士」と書かれており、赤線時代の「一富士亭」というのはほぼ確定です。
一見ただの建物ですが…

2階に、羽を広げたコウモリの形にくり抜かれた壁が。
コウモリの裏には障子が張り付けられており、夜に部屋に明かりが灯るとコウモリの形が夜の街に浮き出る仕掛けになっていたと思われます。色街らしい妖しい演出です。
で、何でコウモリなのか。
コウモリは夜の魔除けとして信じられ、中国では長寿と幸福のシンボル、韓国じゃ子だくさんの象徴とされています。
西洋ではドラキュラの使いとして忌み嫌われているコウモリですが、東洋で長寿・健康の象徴、日本では害虫を食ってくれる益獣として大切に。所変われば扱われ方も違います。
ちなみに、コウモリのいちばん怖いところは、なんだかんだで哺乳類につき狂犬病などのウイルスを持ってる可能性があるということ。
世界中でパンデミックを起こしてる新型コロナウィルスも、コウモリが感染源だと「現時点では」言われております。ホントのところはわかりませんが…

その「一富士」のほぼ向かいに建っているのが、「旅館 月船」。

その隣が「料亭 月船」。
「旅館」に「料亭」は赤線の転業業種あるあるなので元赤線のあれだったのでしょうが、「月船」という屋号は過去に存在せず、ここの現役時代の屋号は不明です。
住宅地図を見ていると、面白いものを発見しました。

元遊郭の敷地内に「自衛隊クラブ」なるものを発見。自衛隊の人御用達の飲み屋だったのでしょうか。
この「自衛隊クラブ」、昭和35年の住宅地図にも記載されています。つまりけっこう古いと。赤線と何か関係があったかは不明ですが、軍隊と色事は大いに関係があります。
米子には、昭和初期まで軍施設は存在していなかったのですが、昭和13年(1938)に米子飛行場が完成し、同25年(1950)には現在の陸上自衛隊米子駐屯地が創立されます。
米子駐屯地から赤線があった花園町まではそこそこ距離がありますが、若い隊員の体力なら走って行けないこともない距離でもあります。
「よし、港までランニングだ!」
上官の一声で隊員「体力づくり」とランニング。そしてそのまま赤線へ飛び込んで…というシナリオもあったかもしれません。実際、戦前のプロ野球選手は試合後に遊郭に飛び込んでいた…と「神様」川上哲治が回想していましたから。
妓楼はメインロード沿いだけではなかった
私も9年前に訪ねた際は、大通りしか見ていませんでしたが、花園町の遊郭跡は裏通りにも存在していたことが、今回住宅地図の分析から明らかになりました。

メインロードから一本違う筋(道)に入ると、コンクリートで蓋をされた、おそらくどぶの跡でしょう、が裏通りということを物語っています。
おそらく遊郭時代の「お歯黒ドブ」の跡かもしれませんが、確たる証拠はありません。元の道幅はその左側の幅。そうなると大人がすれ違うのがやっとで相当狭い。

裏道にもかつては妓楼が何軒かあったことが昔の地図に痕跡として残っているのですが、一軒のみ、当時をしのばせる建物が残っていました。
ここは「大野家」という屋号の店があったところ。「大野家」は戦前の遊郭時代からある屋号で、建物も大きくはないものの豪華さがしのばれるものでした。玄関の門構えも立派だったと思います。
現存しない元妓楼
残念ながら、2011年当時に比べていくつかの古い建物が消えておりました。
現存はしないですが、せっかくの機会なのでその時の建物をいくつかアップしておきます。くどいようですが、現存はしていません。

建物自体は、アルミサッシになったりしてリフォームはされているものの、左側にある家紋のようなくり抜き装飾が良い味を出していた建物でした。

こちらは戦後のカフェーを思わせるもの。

豆タイルがくっきり残っており、妙な奥行きを持った入口が戦後のカフェー建築の典型でした。人間とは不思議なもので、こういう妙な造りにすると気になって引き込まれてしまう性質があったのか、それとも客が店に入る姿を見られないようにするからか。
米子編の現地探索、これにて読み終わり。
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