白河遊郭の歴史
陸奥への入り口である白河。古くは歌にも詠まれた「白河の関」が置かれ、江戸時代には政治的・軍事的要衝として白河藩が置かれ、名門譜代大名が東北・関東の両方ににらみを利かせていました。
そんな東北の肝心要な場所柄、ヒト・モノ・カネも集まる経済の要衝でもあった白河。当然遊郭も存在していました。
今回は、名前は一度は聞いたことがある陸奥の玄関、白河の遊郭のお話。
白河の遊郭の由来は、市史においてもはっきりしないようです。が、遊女屋の出現は少なくても藩政時代にさかのぼります。
他の場所の遊女屋稼業に漏れず、白河の遊女屋も決まった場所になく、旅人が通る奥州街道沿いに走る本町沿いに遊女屋が散開していました。その繁盛ぶりは「新地・本町、吉原まがい」と地元で呼ばれていたといいます。
明治初期のデータですが、明治12年(1879)の貸座敷数は27軒、遊女数は80名前後。地方都市にしてはなかなかの規模で、現在の福島県中通りの遊里の中では郡山や福島をしのぐ繁盛ぶりだったようです。
しかし、市街地にいかがわしいのがあるのは…といういつもの展開となったところで、明治15年(1882)に市街地を焼く火事があり、これが遊郭の郊外移転ての狼煙となりました。
明治26年(1893)には街のはずれの「向新蔵」に移転しますが、その数年後の明治32年(1899)に正岡子規が白河を訪れ、遊郭で遊んだと記録にあります1。
白河の遊郭が、火が付いたように盛んになる時期がありました。それが「馬市」の時期。白河と馬市、そして遊郭は切っても切り離せない関係にあったので、ここで少し話を外して馬市の説明をすることと致します。
その昔、東北は馬の名産地としてその名が知られていました。古くは『続日本紀』にも記載があり、福島県も伊達や三春が名馬の産地として知られていました。伊達と言えば…あの伊達です。伊達=政宗=仙台というイメージな人がほとんどでしょうが、伊達家発祥の地は福島県です。
白河には江戸時代から馬市が開かれ、かの松平定信が始めたと言われています。木曽福島、伯耆大山と共に「日本の三大馬市」として、全国から馬とその売主、そして買主が白河に集まりました。
大正時代からは年2回開催となり、同時に町の直轄事業となり、重要な収入源となりました。白河町の収入の半分は、この馬市の時期に稼ぐとまで言われていました。
白河駅の旅客ホームに隣接していた貨物ホームは、馬市の季節になると馬と馬喰ばくろでいっぱいになり、貨物列車がひっきりなしに発着したと市史は記しています。
また、隣接する西郷村には陸軍直轄の軍馬補充所と政府(農商務省)の福島種馬所が設けられ、馬の売買だけでなく生産地としても栄えました。つまり、白河は馬の飼育にも適した地というわけですね。
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その西郷村には、「ウインズ新白河」というJRAの施設(場外馬券販売所)があります。普段は静かなところなのですが、競馬開催日になると驚くほど大勢の人が訪れます。日本人なら一度は名前を聞いたことがあるという、すでに引退している某有名俳優が白河のビジネスホテルで安らかな隠遁生活を送っているそうなのですが、なんで白河?と思ったら趣味が競馬…そりゃここなら「聖地」やわなと。
そのウインズ新白河は、公式的には「三菱製紙工場の敷地の一部を利用」となっています。が、おそらくここがかつて馬の生産地・卸市のメッカだったことと関係しているのではないかと、私は密かに思っています。
戦前には隆盛を極めた白河の馬市も、戦後のモータリゼーション、農業の機械化、そして陸軍という大顧客の消失などの要因が重なり馬の需要が減少。昭和39年(1964)を最後に廃止となりました。
白河とくれば陸奥への入口、白河藩の松平定信というイメージが先行しますが、馬の名産地という側面があったことは、私も遊郭を調べるにあたったとんだ副産物でした。
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明治末期と伝わる白河遊郭の写真です。頂上てっぺんにガス燈らしき灯あかりを備えた手前の柱は遊廓の大門です。
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こちらは「万年楼」という貸座敷(妓楼)を移した写真で、『白河市史』によると明治45年(1912)5月の撮影とのこと。写っている女の子たちは年齢的に遊女なわけがないので、ここの楼主の子女か奉公の子守たち、女中かもしれません。
この写真の時期の白河遊郭を記した書物があります。
新蔵町の南端、谷津田川に一橋あり、新橋といふ、是より例の郭内にて、一名新地と称す、石造の大門を入れば、紅楼翠閣甍いらかを並べ、真に不夜城の観あり、其内重ママたるものは、万歳楼、箔楼、角楼等にして、外数軒あり。
『白河案内』熊田黄雲 編
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大正末期の白河を記した地図の中にも遊廓が描かれており、当時の貸座敷の名前がずらりと並んでいます。名前をいちいち挙げるとキリがないですが、明らかに貸座敷だろうなという名前をカウントしてみると、その数18軒。おそらくこの数±3が実数と推 測します。『福島県統計書』の大正末期の妓楼数は16軒なので、まあ誤差の範囲内に入るかと思います。
またこの頃、栃木県の黒磯にあった機関区が白河に移転され、機関士などもいっせいに転属となりました。昭和30年(1955)で機関区の職員だけでも292人おり、それに駅員、貨物の駅夫などを入れると、おそらく戦前の白河駅には1,000人以上のスタッフがいたはず。
上手い具合に、白河駅から遊郭までは道一本。休み前や給料日には、男どもが息を荒げながら駅から通じる「新地通り」を走っていったんだろうな…と現地で想像したりすると、少し笑いがこみ上げてきました。
毎度お馴染み『全国遊廓案内』には、白河はこう記されています。
目下貸座敷が十四軒あって、娼妓は約七十人居る。店は陰店を張って居て全部居稼ぎ制だ。
(中略)費用はお定まりが2円50銭、3円、3円50銭等あって、台付きである。3円50銭は本部屋だ。一泊もできる。
『全国遊廓案内』
ところが、昭和に入り全国的に廃娼運動が盛んになり、遊郭全体はオワコン扱いされていきます。
白河の遊郭も、昭和7年(1932)以降は規模を縮小していっていることが、統計書の数字からうかがえます。
昭和14年(1939)には貸座敷4軒、遊女数7名と明治から昭和初期の勢いはすっかり消え、この数ではほとんど開店休業状態だったと思われます。
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さて、戦後の白河遊郭はどうなったのか?
その意外な姿に驚愕不可避!!さて次ページへ!!
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