群馬県の県庁所在地である前橋市。グンマーの経済的な中心地が高崎のせいか、県庁所在地の割にはえらく地味なイメージがあります。
以前住んでいた滋賀県大津市も、ホンマにここに県庁あるのん?というほど地味でしたが、前橋はその上をゆく地味さ。聞いた話によると、群馬県は日本屈指の車所有率でショッピングも車で郊外へ…という傾向になり、街の中心部の空洞化現象が起こってしまったようです。
しかし、横に高崎があるから政治は前橋、経済は高崎という分担ができるという意味では、特におかしいというわけでもなさそうです。
今回は、そんな地味な前橋のお話となります。
遊郭がなかった群馬県
近代遊郭史紐解いていくと、群馬県は日本でもかなり特殊な区域でした。全国に500カ所以上あったとされる遊郭、実は群馬県にはなかったのです。
昭和初期に埼玉県が公娼制度(遊郭)を廃止するまで、群馬県は全国唯一の「NO遊郭」県でした。
なお、県は公娼制度を敷いていても県庁所在地に遊郭がなかったのは、他に茨城県(水戸)や和歌山県(和歌山)などがあります。
といっても、グンマーも元は公娼制度があり遊郭の設置を認めていました。が、廃娼運動が激しく明治27年(1894)をもって公娼制廃止。廃止は明治26年(1893)とする人もいますが、「明治26年12月31日」で営業終了なので、実際は「明治27年」としても良いかと。目くじらたてるところではないので、ここでは27年新年からとしておきます。
しかし、遊郭がない=売春行為がないクリーン県…とそうは問屋が卸さない。娯楽など「打つ、飲む、ヤる」しかなかった昔、そんなきれい事で人間の欲を封じ込めることはできません。
実際は「乙種料理店」という営業で認可を与え、売春業は行われていました。
乙種料理店とは…
『乙種料理店』とはなにか。
その前に、乙があれば甲もあると思った方は正解。甲があるから乙があるのです。「甲種料理店」はいわゆる料亭で、それに対する「乙種」は、表は料理屋なのだけども、それは仮の姿。果たしてその実態は…ストレートに言ってしまえば売春宿です。
グンマーは遊郭がないけれども、この「乙種料理店」を集めたエリアを県が指定し、実質的な遊郭として機能させました。「乙種料理店」は遊郭でいう貸座敷…これが「廃娼県」の現実です。
遊郭の「公娼」に対し、こちらは「私娼」と呼ばれ、そこで働く女性も花魁でもお女郎さんでもなく「酌婦」と呼ばれました。酌婦とは水商売でお客にお酒を接ぐおねーさんのことですが、暗に売春婦を指す言葉でもありました。
遊郭という公娼制は、廃娼運動などで風当たりが強くなり、大正後期にはオワコンとなり縮小を余儀なくされます。が、その分売春業は地下に潜り、「乙種料理店」のような私娼窟が大繁盛。本来は違法行為なのだけれども、取り締まれど取り締まれどなくならず、アングラ化して盛んになるだけ。最後は警察の方が白旗を揚げ、
性病検査だけはちゃんとやれよ
と黙認となりました。公が公に認めたようなもの…それ事実上の遊郭やん…こういう私娼窟を、私は「準遊郭」という造語で表現しています。
こういう「準遊郭」な私娼窟は、「私娼窟界の吉原」こと東京の玉の井が有名ですが、大阪の今里新地や港新地、長野新地ような、表向きは健全な花街なのだけれども…
いやそれ実質遊郭やんかww
というような「大阪式偽装花街(こちらも私の造語です)」という存在もあらわれます。いや、大阪は偽物の中に「本物」も紛れこませ、
それ遊郭やんか!
と周りがうるさくなった時は、
あんたら、うちらの商売に文句あんのん?
と「本物」が正面に立つので、これはこれで悪質というかずる賢いというか。
というか、今の飛田新地や松島新地、名目上の営業形態は「料亭」。あそこの姫(大阪では江戸時代から遊女・風俗嬢をこう呼ぶ)は「ホステス」なのですが、昔の言い方に変換したら「乙種料理店」に「酌婦」。
そう、あそこは営業形態的には「21世紀に残る遊郭」というより、「令和に残る乙種料理店街」なのであります。
ところで、群馬県の乙種料理店はどれくらいあったのか?
いっぱいありました
いっぱいじゃわかるかい!!
とお怒りの気持ちはわかりますが、本当に物理的に「いっぱい」あったのです(笑)
その数、昭和初期で県内52ヶ所、乙種料理店の数348軒、酌婦が855人。
そして、全酌婦のうち43%が高崎、そして前橋に集まっていました。前橋と高崎は、グンマーの乙種料理店街(くどいですが実質遊郭)のツートップと思っていただいてOKです。
前橋市の乙種料理店
では、前橋の乙種料理店の実態はどうだったのか?
公娼制の良いところは、公的資料、たとえば統計書や市史県史や警察の資料に数字が残っていること。なので、遊郭がどこにあったか、遊女が何人いたかなどの数字的実態が、資料を探すという作業を面倒臭がりさえしなければ比較的容易に見つかります。
が、乙種料理店などの「お隠れ遊郭」には信頼できる資料がほとんど出てきません。なにせ隠れてるから。市史や県史などを見ても、
「そんなものありませ〜ん」
とばかりにガン無視。よって、実態をつかむのはかなり難しいのです。
しかし、グンマーの場合は「実質遊郭」だったせいもあったか、時間をかけていろんな角度から探ってみると、そこそこ見つかります。
それで見つけた前橋の乙種料理店の、昭和5年(1930)時点での軒数は501、同9年(1934)の数は38軒2。
しかし、同14年(1939)になると10数軒にまで減少しています。「甲種」こと料亭も、乙種ほどでもないものの数を減らしているので、やはり戦争の影響はあったのかもしれません。
その乙種料理店は、ある3つの町に固まって存在していました。
その名は、「紺屋町」「榎町」、そして「萱町」。
その名前は、観光案内にも記されています。
(前橋の)乙種料理店は、榎町・紺屋町の所謂下の町に50軒からありまして、酌婦約120名であります。
『前橋観光案内』
実際に複数の資料から乙種料理店街と酌婦の数を導いてみると、こうなりました。
資料によっては、乙種料理店の数100軒以上という記載もありますが、現実的な数字はこんなものだと思います。
実際、昭和14年発行の『前橋商工人名録』記載の乙種料理店の数は17軒となっています。50軒からもほど遠いですが、まあお隠れ遊郭というのはこんなもんは誤差の範囲。誤差にてはすごい数の差ですけどね(汗
さて、その場所はどこなのか…それは後々のお楽しみ。
戦後の前橋
戦争中の前橋は、終戦直前の8月5日に空襲の被害に遭います。
前橋が空襲を受けていたのは、本件を調べていて初めて知った事実ですが、これにより前橋の中心部は壊滅、500名以上の死者が出た惨事となりました。上の写真を見ても、赤丸が現在の上毛電鉄中央前橋駅なので、中心部はほぼ焼き払われたという感じです。
乙種料理店街もこの中心部、実は上の写真の左端が乙種料理店街の東の端となるのですが、この調子ではそこもきれいにお掃除されたものと思われます。
そして戦後の赤線時代へ入ります。
終戦直後の警察資料によると、前橋の乙種料理店は24軒、酌婦の数26人。同時期の高崎の乙種料理店街、柳川町が10軒、18人に比べると前橋の方が繁盛していたようです。
そして、昭和20年代後半には乙種料理店が「特殊喫茶」として公の資料にも出てきます。その数31軒。ほとんどが紺屋町に固まっており、乙種料理店街がそのまま赤線区域になったことを物語っています。
そして、このシリーズでは運命の「その時歴史が動いた」の昭和33年(1958)、売春防止法の完全施行により前橋の赤線は消滅、「乙種料理店」から続いたその歴史に幕を下ろしました。
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