性地巡礼ー八日市延命新地を歩く
前述のとおり、八日市の遊郭は14年前の2011年に探索済だったりします。
今回は、14年前の延命新地と現在(2025年)を一部対比していきながら巡っていきます。

かつての延命新地の入口は、飲み屋の跡が残る遊郭らしいたたずまいでした。
ここから遊郭なのか…という、ちょっとしたワクワク感さえ感じる場所でした。
画像左側の食堂や理容店は現存しているので、現在と比較しやすいと思います。
そして14年後。

大きなホテルが建っており時代の流れを感じました。
いちおう、ここは遊郭の入口だったんだけどねぇ…

食堂と理容店の間にぽっかり穴を開けるような門構えを誇るのが、「招福楼」という料亭。門構えからして非常に敷居が高そうなお店です。
かつては延命新地一の大きさを誇った高級料亭で、大正10年の復元地図にも掲載されている老舗でもあります。
入口からずっと奥の奥を見ても、建物が見えない。遊郭全体の3割弱の面積を占めているのだからさもありなん。
一体中はどんな作りになっているのか。少し気になるのでお昼の定食はハウマッチ?とHPを調べてみました。すると!!
い、いちまんきゅうせんはっぴゃくえん!!
(※19,800円です)
昔行った大阪の貝塚遊廓の料亭「深川」の昼会席8,000円弱でも涙が出そうだった、その倍以上かい!
おまけに、「別途奉仕料20%いただきます」と書いてるし。実質2万円以上。
こりゃ宝くじ当たるか、結婚とかのデカいイベントでもない限り、あたしにゃご縁はございません、トホホ。

「招福楼」を囲む東側の外壁です。
遊廓時代は「黒い板塀」で囲まれていたという記録が残っていますが、今は何の面白みもないコンクリートの壁。

しばらく来ない間に、延命新地にはこんなものが出来ていました。「さつき楼」と書かれています。
大正時代の復元地図や『全国遊廓案内』には「五月楼」という妓楼の名前がありますが、「さつき楼」は「五月楼」とは場所が若干違う。
ここが元遊郭だったのを意識はしてるのでしょうが、元妓楼をリフォームしたものではありません。
ひととおり延命新地を回ってみましたが、昔と比べてかなり建て替えが進んでいました。
「さつき楼」あたりは元妓楼がいくつか形を変えずに残っていたのですが、ほとんど消えてなくなっていました。

しかし、銭湯の「延命湯」は全く姿を変えず残っていました。
延命新地の南端にあるこの銭湯の創業は昭和7年(1932)。遊郭時代からあったお店です。
遊郭の遊女たちもここでお客の迎えの準備をしたり、遊女がワイワイ客や楼主の愚痴を言って花を咲かせていたことでしょう。
料金は大人でも430円。遊郭めぐりついでにひとっ風呂浴びるのもまたよし。

「延命湯」の前には、清水川という小さい川が流れています。そこに架かってる橋から新地を撮ってみました。
写真を橋の手前がいわゆる「娑婆」、この橋を渡ると遊廓の別世界が待っている。
遊女は籠の鳥、廓の外へは出られません。ここまで客を見送った遊女が、客の後ろ姿を見守りながらやるせない気持ちを奥に秘め、ただそれを見守るのみだった…なんてことが、この橋の界隈であったかもしれません。

昔に比べかなり建物がなくなってしまった延命新地ですが、「招福楼」の、南側と東側の壁が交わる前には、まだ建物が残っていました。

ここは「清里楼」という元妓楼で、1階部分は赤く塗られた格子が残っています。
正面のインパクトが強いこの元妓楼ですが、後ろに回って見てみると、

裏はたぶん当時のまま残っていると思われます。
よく見ないと見落としますが、「旧清里楼」の裏には渡り廊下があり、隣の建物に移動できたこともわかります。
正面から見たらすごく小さく見えても、奥はかなりの大きさ。これぞ「遊郭建築」と言えるのではないかなと。
以前アップしたブログで使用した、2011年当時のGoogleマップのスクショが残っているのですが、当時ここは旅館だったようでした。

2011年撮影の写真を改めて見ると…確かに看板あるわ。
それでも、営業はしてなさそうな雰囲気でしたけどね。
売防法による赤線廃止で、延命新地の店は営業形態を変えざるを得ませんでした。そこで、旅館派と料理店派に分かれました。
その旅館も、「駅前遊郭」の立地条件的には悪くなかったものの、その後の経営は振るわず現役の旅館としての旧遊廓の妓楼は残ってません。
せっかく旅館だったのだから、玄関を叩いてでも一度は泊まってみたかった。少なくても「招福楼」のランチより敷居が低いわい(笑

昔はこんな細い道にも妓楼が残っていたのですが、今は跡形もなく。
2011年当時でも、いちばん延命新地らしい道が、延命湯の裏側の道でした。

こんな風に道の両脇に元妓楼や置屋と思われる建物が並び、「遊郭通り」なんて勝手に呼んでいたものです。

地図には「髪ゆいの家」と書かれた、かなり個性的な2階の装飾が気になる建物が残っていました。
2019年のGoogleマップストリートビューにもその姿が残されていますが、2025年に再訪問した時は残っていなかったような。

この「遊廓通り」の最後を〆るのは、「旧寿し元楼」の建物でした。
かなりリフォームされていましたが、2階部分の格子がわずかに往時を偲ばせていました。

ここにもかつては、両脇に妓楼が並んでいたといいます。

遊郭の検番があった場所には、かつてこんな建物が建っていました。
戦後の赤線時代の「事務所」だったのか?いやでもこれは遊郭当時の建物ではないはずだけど、コンクリ打ちっぱなしとは言えかなりレトロ感を醸し出していました。

その検番跡の前にあった旧「角正楼」。
ここも赤線廃止後は旅館に転業組でした。

こちらは2025年時点で現存中。
旧検番の建物がなくなってしまったおかげで、全景を真正面から撮影できるようになりました。


こちらは料理屋組。旧「吉勝楼」だった建物。
戦前の地図によると、上の「吉かつ」という会席料理屋だった建物は別の貸座敷で、下の方が「吉勝楼」だったとのこと。
残念ながら、2025年時点でどちらも現存していません。

その旧吉勝楼から本町通商店街へ伸びる道にも、遊郭の建物が残っていました。
こちらは旧「角菱楼」と思われる建物。

2025年はこの通り。まだ残っていることは残っていますが、写真以上に朽ち果てぶりがひどいので、見に行くなら今のうちです。台風が来たら一発崩壊すると思います。

延命新地内には、こんなスナック街、飲み屋街がありました。いや、今もあるのですが、空き家が並び現役の店はなさそうなので、「過去形」で良いでしょう。

こちらは赤線とは関係ないですが、カフェー建築っぽい黒タイルがなんだか元遊郭らしいなーと。

その13年後の姿がこれ。
2011年当時は、人の気配はなかったもののまだ綺麗だったのですが、2025年になるとゴミが溜まり、完全に廃墟と化していました。
こちらも、崩壊するのは目の前ですね。
これにて八日市編、読み終わり。
- 出典:『滋賀県統計書』『滋賀県市町村沿革史 第3巻 (各論) 第六編 八日市市および神埼郡』 ↩︎






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