番外編:山形の私娼窟
戦前の売春史には公娼としての遊郭の外にも、いわゆる私娼のたまり場…私娼窟が存在していました。
私娼は公娼と違って公的な資料にはほとんど存在せず、存在すらあいまいな存在。本来「あってはいけない存在(要は違法)」なので、歴史の地層に埋もれ全く表に出てこないものも多数あります。遊郭・赤線跡探索家にとっては私娼窟も調査範囲なのですが、何せ「モグリ」なので公的書物にはほとんど書かれておらず、当然統計書も対象外。この発掘は非常に困難です。
山形にも、実は公娼の小姓町の外にも、私娼窟がいくつか存在していました。
山形では私娼窟を「バンポ」と呼ばれていました。なぜ「バンポ」なのか、語源は郷土資料でも不明とされています。
山形には歩兵第三十二聯隊があるのは述べましたが、遊郭にとって兵隊はマナーも金離れも良く、上客として両手を挙げて歓迎でした。軍側も、ヘタに「バンポ」に手を付けて性病をもらって「戦闘不能」になったらたまったものじゃない。そういう意味では軍と遊郭は持ちつ持たれつの関係でした。
明治後期~大正時代初期の話ですが、この聯隊は遊郭に登楼できるのは将校と下士官のみという不文律が存在していたそうで、「食う・寝る・ヤる」しか愉しみがなかった兵隊生活にとって、遊郭登楼禁止はかなり痛い。
そんな彼らの受け皿としても、私娼窟は機能していたようです。
前述のとおり、私娼窟というのは本当にデータに乏しいのですが、山形市には以下の3ヶ所の私娼窟が確実に存在していました。
・七日町(花小路)
・薬師公園
・第二公園
一つ目の「花小路」は現在でも飲み屋街として山形市の不夜城となっていますが、かつては芸妓たちの花街でした。しかし、どうも隠れて売春行為もしていたのか、内務省からあやしいフラグを立てられていました。
二つ目は、確かに記録にはあるのですが、近くに軍隊があった歴史もなく、なんでこんなところに?と私が聞きたいくらいなのでパス。
三つ目の「第二公園」はいくつか記録が出てきました。
第二公園は山形駅からほど近い位置にある公園で、昔も今も位置は変わりません。
その左側に見える大きな建物が「専売局」。
現在は山形交通バスのホームグラウンドである「山交ビル」が高々とその存在を誇示していますが、ここかかつての専売局でした。
それと私娼窟は何の関係があるのか?
作家で旧制山形高等学校卒の駒田信二が、高校時代の思い出としてこんなことを書いています。
山形駅の近くの、学生たちが専売局裏と呼んでいた一郭に、軒並みに「和洋中華御料理」という看板を掲げているところがあった。遊び人の下級生に連れられてその「和洋中華御料理」の一軒へ入ったことがある。
『値段の明治・大正・昭和風俗史』p39-40
(中略)1円か1円50銭か、とにかくラーメン代を含めて2円はらえばおつりが来る算段であった。
その一郭は私娼窟だったのである。
駒田のいう「専売局裏」と「第二公園」は、場所的にほぼイコール。同じ場所とみて間違いありません。データをまとめると、以下の通りとなります。
現在の第二公園は、山形を走ったと思われるSLが静態保存されており、親子がのんびり遊べるようなふつうの公園となっています。かつてここ近辺に「和洋中華御料理」の看板を掲げた私娼窟があったなど、想像もつきません。
山形市は先の戦争で爆弾一発落ちていない県庁所在地として稀有な存在ですが、そのせいで古い建物がけっこう残っています。もしかして、公園の近くに「和洋中華御料理」が残ってるかも…そんな淡い期待を寄せましたが、そんな甘い期待は水泡に帰したようで、中華料理屋は一軒のみでした。
ところで、駒田が通った旧制山形高校と遊廓は、地理的に非常に近いところにあります。
旧制山形高校は現在の山形大学ですが、実際に歩いてみると遊郭まで徒歩10分弱。駒田によると高校生は私娼窟に行ってた人が多く、近くの遊郭で遊べばいいのに、何故倍の距離にある私娼窟まで行ったのか。
小姓町遊郭の値段は妓楼のランクによって甲乙丙と分かれており、廻し部屋で甲5円、乙3円50銭、丙が2円50銭。これで一泊ができるのでどっちかと言えば安い。遊郭で朝まで過ごしてそのまま何食わぬ顔で登校したブルジョア高校生もいたそうです。
ところが、遊郭というのは形式ばったところが多く、鼻息が荒いオスに対して男のあしらいにかけてはプロである遊女は、あの手この手でじらしてきます。
まずは一緒に食事をし、酒を共にし、朝を迎えて…と。雅や情はあるものの、やはり形式ばってお金だけがかかってしまいます。
吉原などの老舗になると3回登楼して朝を迎えないと「合体」できないところもあり、さっさとヤリたい人はいわゆる「ちょんの間」へ走ります。そのすき間産業が私娼窟というわけです。
山形の私娼窟だと、回想によると30分で1.5円ほどだったですが、遊郭のように廻しを取られて待ちぼうけや、朝まで一緒にいたのにじらされて…ということがなく、確実にヤレるというメリットがあると。旧制高校生のような血気盛んなオスだと、そっちの方がまどろっしくなくていいやとなったのかもしれません。
山形の私娼窟のことは、また何かわかれば追記したいと思います。
山形の遊里のお話は、ひとまずこれまで。
山形県の他の遊廓のお話はこちらでありんす
東北の他の遊廓の記事はいかがですか?
・『山形市史』下巻
・『山形県警察史』1~3巻
・『山形県商工名鑑1955年/1957年』山形県商工会議所連合会
・『山形県大百科事典』山形放送/編
・『わが町の昭和誌-小姓町3区30周年記念』小姓町三区町内会/編
・『この町は彼が燃やした』渡辺大輔
・『やまがたキャバレー時代』高橋義夫
・『キャバレーに花束を 小姓町ソシュウの物語』渡辺大輔
・『小田原遊廓物語』千葉由香
・『聞き書 昭和のやまがた50年』
・『山形町細見』山形商工会議所/編
・『写真集明治・大正・昭和山形』後藤嘉一
・『やまがた街角 2002年12月・2003年1月号/2006年8月・9月号』やまがた街角編集室
・『やまがた地名伝説 3』山形新聞社/編
・『目で見る山形・上山の100年』渡辺信三ほか
・『写真集やまがた100年』山形新聞社
・『鈴木邦緒写真集小姓町界隈50年史』鈴木邦緒
・『街角の履歴書』田中邦太郎
・『後藤嘉一著作集 第4巻』
・『婦人の保護 昭和34年』山形県婦人相談所
コメント
あと、鶴岡市の鶴岡遊廓も。鶴岡遊廓にいた遊女と鉄門海僧侶の話は泣けます?マガジンファイブ、とみ新蔵作「鉄門海上人伝〜愛朽つるとも」を参考までに。
貴重な研究拝見しました。
私は、旧制山形高等学校の社会科学研究会(社研)を調べています。
亀井勝一郎なども参加していました。
彼らは合宿をしながら、研究活動をしていたのですが、
その場所が花村楼の別荘(諏訪神社の傍)だということがわかっています。
小姓町に花村楼の貴重な写真がありました。
別荘について、場所、当時の様子など、もしわかることがありましたら、教えていただけましたら幸いです。山高の生徒たちが使っていたのは、大正から昭和に移るころの短い期間ですが。
宜しくお願い致します。
>佐藤光康様
はじめまして。拙ブログをご覧いただきありがとうございます。
別荘についてですが、資料をひととおり見直してみましたが、それらしき記述はありませんでした。
お力になれず残念ですが、また何かわかりましたらお知らせさせていただきます。
お忙しいところ、ありがとうございました。
今日、小姓町を米澤さんのブログを思い出しながら歩いてみました。
全く違った風景が見えました。
私は高校の教員をしていましたが、米澤さんの研究に脱帽です。
これだけ丹念に、調べ上げる力、何と素晴らしいことか。
今後もご指導をよろしくお願い致します。
はじめまして。
昭和48年に、小姓町に隣接する山形県山形市諏訪町1丁目2−25(取り壊した後、隣の仁藤豆腐店が土地を購入、豆腐店も今はなくなり大きなビルが出来ていました) だと思うのですが、元遊郭の建物と思われるアパートに、大学受験の予備校に行くために数ヶ月住みました。一階は大家さんの住居なので入ったことはありませんが、二階は、四畳半くらいの個室が左右に並んでいました。大通りに面した部屋だけは、広い部屋でした。その部屋には、小国町から出てきた三姉妹が住んでいました。作っていただいた地図で、これも入っているのかこれから確かめてみます。写真を撮っておけばよかったのに、浪人生でしたから、カメラはありませんでした。(;_;)
地図をみて、品川楼ではないかと判断しました。このあたりでした。
http://snack-ran.blog.jp/archives/1021841914.html
を見ると、品川楼の隣に、一力楼もあります。一力、なんか聞いたような響きがあるので、こちらかもしれません。お陰様で昔を思い出しました。楽しませていただきました。ありがとうございます。\(^o^)/
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