天王新地(和歌山県和歌山市)|おいらんだ国酔夢譚|

和歌山天王新地関西地方の遊郭・赤線跡
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■ここだけではなかった天王新地

天王新地の地図赤線時代

現在の天王新地のエリアは、「コ」を時計回りに90度回転させた道沿いですが、昭和33年売春防止法施行直後と思われる住宅地図を紐解くと、現在の2~2.5倍の広さはあったことはほぼ確実です。今の範囲だと紀和駅(当時和歌山駅)からはちょっと遠く、最寄り駅としては不適格です。が、赤線、または戦前(推定)のエリアだと十分最寄り駅足り得ます。

1939和歌山市街図天王新地

昭和14年の和歌山市の地図にも「天王新地」の名前があらわれていますが、紀和駅の方が心なしか近い気がします。現在では紀伊中ノ島駅が最寄り駅になるのでしょうが。

和歌山天王新地

現在は場末の少しくたびれた下町の住宅地という感がある場所ですが、実はここもかつて天王新地の一部として店が軒を連ねていたと地図は語っております。

和歌山天王新地の昔の場所

暗渠と化した川に沿う道は、東京の玉の井を思い出させます。
店はすっかりなくなったが、
「ちょっとお兄さん、寄っとくれよ」
という声が、今にも家々から聞こえてきそうです。実際に聞こえるのは家から漏れ聞こえるテレビの音声だけですが。

天王新地若葉会事務所跡
天王新地

朽ち果てた看板にいわく「天王新地料理組合」ですが、現在それが本当にあるのかすら定かではありません。稼働中が数軒だと組合もへったくれもないでしょうが…。
しかし、かつては「天王新地料理組合」の前身の建物が存在していました。写真の場所がそうで、おそらく赤線時代の組合のままか、丸電灯だけが寂しげに家の前を見守っています。
全盛期は6~70件の店に100人近い娼婦が嬌声と嬌体を競った歓楽街、ここの賑わいも夜が更けると男と女の臭いがムンムンして盛んだったことでしょう。
もちろん、現在はここも空き家となり当時の面影は見る影もありません。

バス停名からも消え…

天王新地バス停

天王新地の前にはかつて、名前そのままのバス停が存在していました。「現役」をバス停名にしているのは、非常にレアなケースです。

すでに廃線になりましたが、飛田新地の前には南海平野線の「飛田」停留所がありました。設立時期と位置的から察するに新地への客を見込んだのでしょう。が、「飛田新地前」などとストレートに書くのは、さすがにはばかられたようです!?
天王新地バス停には、そんなためらいを全く感じさせません。
だが、見方を変えるとこれは吉事。天王新地が「穢(けがれ)」として忌み嫌われていたのではなく、現地コミュニティに溶け込んでいたあらわれだと、私は思います。そうでもないと、わざわざバス停名にはすまい。したらしたで猛烈な反対運動が起きるのは明白だから。

しかし、この「現地密着」にも終わりが訪れました。バス停が「地蔵の辻」に改名されたのです。新地の入り口があの有様なので、天王新地の終わりを和歌山バスに通告されたかのような措置でした。

あとがき

天王新地の現状を目の前にすると、黄昏などという美しい言葉では表現できません。
前述のとおり数店舗は営業しているものの、それは風前の灯火。
その灯が消え、歴史の固有名詞となるのはそう遠くないでしょう。その流れにいくら抗っても、かつての繁華はもう望めまい…。
ここがかつて嬌声で賑わっていたことを想像するだけで、寂しさ以上に虚しさを感じます。かといって往年の繁栄を想像するのは、死んだ児の歳を数えるようなもの。
これが私の率直な感想です。

私の見た新地の姿は、老いた蛍が絞り出している最期の光かもしれない。
「現役」には興味ないとは言え、その一つが灯を閉じる姿に後ろ髪をひかれつつ、ここで筆を置きます。この記事が天王新地最期の姿にならないことを祈りつつ。

 

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