
なんだかんだでライフワークになっている「遊郭・赤線跡をゆく」。
約20年間、ちまちまと国内を回ってきたわけですが、今回、ついに海を越えます。
今回は、海の向こうの台湾にあった遊郭の話。
植民地にもあった遊郭
台湾は、日清戦争後の下関条約により日本に割譲された、日本が近代史上初めてGETした海外領土でした。
そして、1895年〜1945年の50年間、台湾は日本の植民地、そして外地(日本領)として日本と共に歴史を共有していました。
台湾が「日本」である以上、台湾にも遊郭は存在していました。内地の遊郭は「貸座敷娼妓取締規則」という法律で管理されていたわけですが、その台湾(総督府)版も存在していました。
「台湾の首都」だった台北はもちろんですが、1930年(昭和5)発行の『全国遊廓案内』によると、他にも、台中、彰化、嘉義、台南、花蓮港、馬公(澎湖諸島)にもあったことが記されています。
他にも基隆にあったのは筆者一次ソースで確認済。
高雄の近くの屏東にも、公娼ではない私娼窟があり、実は場所も把握済み。基隆遊郭は場所も特定し、訪問もしています。ただ、ブログ記事にしていないだけ。

今回の主役は、台湾南部の港町、高雄。
高雄はもともと、「ターカオ」と先住民から呼ばれていたのを、漢人が「打狗」と当て字をし、伝統的にこう記されていました。
そして日本統治時代が始まり、それも落ち着いた1920年代。

”打狗”の「犬をぶん殴る」という字面が下品である。改名!
と、打狗→高雄に字が変わったと。
そして、高雄を台湾の港湾都市にすべく、日本人は近代都市工学に基づいて町をイチから作り直しました。
その経緯は台湾ブログの方に書いているので、興味ある方はこちらをどうぞ。
そうなると、高雄にも遊郭を作るという話が持ち上がってくるわけで、具体的な時期は不明ですが、高雄にも遊郭ができました。
遊郭があった場所は現在、「塩埕埔」と呼ばれている地区で、「塩」がついていることからわかるとおり、日本統治時代初期は一面の塩田でした。
そこを日本時代に開拓された新開地だったわけで、「新開地」、そう、遊郭を作るにはうってつけの地だったというわけで。
高雄遊郭がいつから成立したのか。『全国遊廓案内』によると、1905年(明治38)に「旗後」という場所には昔ながらの色街があったとされます。

旗後とは高雄が日本領となる前から栄えていた、言わば「打狗旧市街」。現在でも古い下町風情が残りシーフードが名物の場所となっています。
が、 『台湾総督府統計書』を紐解いてみても、遊郭のデータが残っているいちばん古い1901年(明治34。日本統治開始6年後)には、打狗の「た」もありません…。
いや、遊郭はありました。が、旗後ではなく「鳳山」という名前。鳳山って場所全然ちゃうやん?
…これは何のことはない、当時の台湾の行政区画が「打狗」ではなく、「鳳山庁」だっただけのことで、その中の区画の一つに「打狗」があったと。これで解決。
その数字によると…
・貸座敷数:10軒
・娼妓数:40名
(ソース:『台湾総督府統計書 明治34年版』)
旧市街の名のとおり、最初は本島人と呼ばれた台湾人居住地との雑居という形でしたが、1920年代に入り近代高雄新開地の輪郭が見えたところで、1919年(大正8)に上の塩埕埔に移転されました。

昭和初期の高雄の遊郭図です。遊郭内にある「婦人病院」がまた生々しさを感じます。
いつもお馴染み『全国遊廓案内』に書かれている高雄遊郭の妓楼は、『大笑楼』『金波楼』『君之家』『花の家』『松葉楼』『真栄楼』『東海楼』『幸楼』『二葉楼』『鮮月楼』『朝鮮楼』等。
赤字が地図に掲載されている貸座敷ですが、時代がほぼ一致しているせいか、ほぼ一致しています。
後述する地図には『朝鮮楼』も11番地に記載されているので、おそらく上の火保図の11は丸々朝鮮楼だったのでしょう。
せっかくなので、『全国遊廓案内』での記述と、『台湾総督府統計書 昭和5年』で数字の違いも比較してみましょう。
◆貸座敷数
・全国遊廓案内:11軒
・台湾総督府統計書:11軒
◆娼妓数
・全国遊廓案内:150人
・台湾総督府統計書:147人
『全国遊廓案内』は記述や数字が曖昧で、一次資料としては正直パンチが足りないのですが(ブログでは全然いいですが、本や論文を書く時は記述を絶対鵜呑みにしないように!)、これは驚きのビンゴ。娼妓数の数人なんて誤差なので気にしない。
『遊郭・赤線跡をゆく』を書く時は、史料批判も兼ねて統計書の数字と比較しているのですが、ぴったり当たるのはけっこう珍しいのです。

そして、高雄の町は港町。当時のアジア随一の近代港湾として民間も軍艦もひっきりなしに寄港していました。
1936年(昭和11)発刊の『日本都市大観』によると、娼妓数は170人強に増え、鼻息が荒いマドロスたちで賑わったことが予想されます。以前の石巻編や焼津編でも書きましたが、マドロスたちの「女の肌」の恋しさは、陸に棲む人間には到底わからないようで。

戦前の地図を見てもわかるとおり、高雄の遊郭は芸妓の花街と一緒くたになっており、いわゆる二枚鑑札もいたと記述されていますが、カフヱーも混在しており、ここあたりが歓楽街として集結していたのでしょう。
ここで、少し話を折ります。
高雄の遊郭を見て育った、ある大選手
その高雄遊郭の入口あたりに、ある小料理屋がありました。
神戸から一旗揚げてやってきた女性が小料理屋をオープンさせ、遊郭に遊ぶ客で繁盛したそうですが、彼女には一人息子がおり、色白でかわいい顔をしていたこともあり、芸妓や娼妓たちにかわいがられたそうです。
彼は高雄で育ち、地元の学校の野球で名を馳せ、のちにプロ野球史に残る大選手となりました。

彼の名は大下弘。
巨人の川上哲治「赤バット」、阪神の藤村富美男の「物干し竿」と共に、「青バット」と呼ばれた、昭和20年代プロ野球の代表選手でした。
しかもこの大下、甘いマスクの超イケメン。女性ファンからは大人気で川上・藤村など及びもせず。実際、高雄時代からモテモテ、高雄の女学生からラブレターをもらって大騒ぎ、あわや学校を退学処分になるほどでした。
この大下、今で言えばイチロータイプの天才安打製造機だったのですが、実はもう一つ、裏の顔がありました。
それは…「球界の赤線王」。
この大下、とにかく病的な女好き。素人玄人問わず色んな女に手を出し、最後はヤクザのヒモがかかった素人女を寝取ってヤクザが家や球団にまで押しかけてきたところで、奥さんに、

素人には手を出さないで!玄人ならいくらでもいいから…
と泣きつかれてしまいました。
「玄人」とはつまり赤線の女。
懲りるどころか、奥さんから「赤線行き放題」の免罪符をもらって大喜びの大下、大手を振って全国の赤線に繰り出していました。時には赤線から球場に通っていたこともあったそうです。
大下はまた、試合後チームメイトを誘って赤線へドボンしていたそうで、大下と共にライオンズのクリーンアップを形成した豊田泰光氏も、大下に連れられて赤線に繰り出していたことを回想しています。
また、鉄腕と呼ばれた稲尾の童貞を奪わせたのも、この大下。
その豊田は、オリックスで無双していた時のイチローを見ていわく。

イチロー君は確かにすごい。でも別に驚かないよ。
だって、同じタイプの大下さんを目の前で見てきたからね。
猫も杓子も
「イチローすげー!!こんな天才バッター今までいなかった!!」
と鼻息を荒くする中、いやいや大下と言う天才バッターが昔いましてね…と、そんなことをテレビで言っていました。
大下の名前は前々から知ってはいたけれど、そうかイチロータイプだったのかと。

実際、シーズン毎歴代打率ランキングの5位に大下の名前があります。それも、かの阪神のバースやイチローが出てくる前は事実上の1位。筆者のおぼろげな記憶だと、バースが最高打率を獲得した時に大下の名前が出てきた気がします。張本?いいえ、知らない子でした(笑
今風に言うならば、大下は「努力もせず、毎日酒と女に入り浸る素行大不良のイチロー」といったところ。
不倫で契約解除になったり、素人に手を出して事実上球団を追い出された選手がいましたが、大下なら10回くらいクビになってたでしょうね。なにせ「監督の女」を寝取ったのだから(笑
それでも球界を追放どころか寝取られた監督が彼を使い続けたのは、当時のゆる〜い空気と共に、「昭和のイチロー」たるゆえんだったのかもしれません。
この大下、現役引退後はかなり不遇の人生を送ることになるのですが、それはまた別の話。
そして、戦争を経て日本統治が終わったと同時に、高雄の遊郭も終わりを告げました。
…となればスッキリするのですが、そうは問屋が卸さなかったようで、台湾人によると戦後も旧遊郭エリアは「盛り場」として栄えたそうです。
それから約80年、現在の高雄遊郭跡はどうなっているのか!?

姉妹ブログサイトの台湾史の方で制作中なので、少々お待ちを。。。
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