黒磯と言うより、那須と表現した方が万人にわかりやすいと思います。
那須と言えば、高原でハイソなイメージを持つ方が多いのではないでしょうか。
それもそのはず、天皇家や皇族方の別荘として使われている那須御用邸の最寄駅として、駅には皇室専用出入り口や貴賓室も備えられています。手前の扉が皇族の方専用、奥が侍従などお付きの者用だそうです。ただし、東北新幹線と那須塩原駅開業後はもっぱらそちらを使うようになり1、こちらが使われることは滅多になくなったとのこと。
貴賓室は非公開ですが、気まぐれに公開されることがあるようです。
なんでこんな話から始まったのか?この話をしないと、黒磯の遊郭の話、なぜ黒磯に遊郭ができたのかが説明できないので。
那須の歴史と黒磯の遊郭成立
黒磯駅ができるまでの那須野は、駅前ですら人間がほとんど足を踏み入れていないような、うっそうとした原生林が広がる未踏の原野だったと言います。現在の姿では到底想像もできません。
なぜここが江戸時代を通して開拓されなかったのか。一言で言ってしまえば、水資源が乏しく人の居住と農業に不適な土地だったからです。
そんな「人が住むところじゃない」原野に目をつけたのが、明治以降の華族。農業に適しない代わりに酪農などの牧畜には適していると察した華族は、ここに莫大な投資を行い、那須野の開拓を行います。
開拓者の中には、栃木県令(知事)として先頭に立って開発を行った三島通庸2、松方正義や大山巌に山県有朋、青木周蔵や山田顕義など、ビッグネームがそろっています。また、穏やかな気候から避暑地としても適しており、上に挙げた那須御用邸はもちろん、乃木希典などもここに別荘を構えました。
もちろん、のちに総理大臣や大学を作るような華族が、鍬と鋤を持って自ら原野を開拓したわけではありません。開拓には人が必要ということで、開拓の人員を全国から募集し、那須野を開拓させていきました。開拓は昭和30年代まで行われていたといいます。
また、現在は新幹線を使えば東京まで1時間圏内という立地の良さもあり、別荘どころか移住してしまった人もいます。芸能人では女優の高木美保さんがその代表ですが、60代の人なら知ってるかもしれない新藤恵美さん(芸能界引退済)も那須移住組、そして山本耕史・堀北真希夫妻も、コロナを基に那須へ移住したという話があります。白河から新幹線通勤しているサラリーマンもいるくらいだから、那須からなんて余裕っしょ。
ところで、江戸時代、那須が開拓される前は、南東の方向にある大田原が奥州街道の宿場町として栄えていました。松尾芭蕉も大田原を通り、奥の細道の旅路へ向かっています。現在は鉄道の利もあって、黒磯がある那須塩原市の人口の方が多いですが、商業施設は現在でも大田原の方に固まっているそうです。
そこで、栃木県の歴史は全くの門外漢である私なんかは、ある疑問が浮かびました。
なんで大田原に東北本線を敷かなかったの?
大田原が鉄道のルートから大きく外れ、陸の孤島のように存在しているのが、一関西人から見るとやけに不思議なのです。
が、調べてみるとその謎は解けました。
そもそも、東北本線の宇都宮〜白河間は、人口密集地だった大田原を通り、奥州街道沿いに敷くはずでした。歴史や当時の人口密度から考えたら、それが至って常識的です。
しかし、それに待ったをかけたのが華族たちでした。大田原に鉄道が通ってくれたら、那須に投資した資金がすべて水の泡になってしまう。そして、那須に建てた別荘へ行くにも鉄道があれば便利。なんとしても那須に鉄道を通すべく、
那須に鉄道通したらんかい!
と政府に直接介入した結果、現在の東北本線のルートになったわけで。原野だったので、すでに民家が多い大田原より土地買収が容易だったこともあったでしょうが(実際、那須野の線路は物差しで引いたような一直線)、なんといっても、当時の大蔵卿(現在の財務大臣)は松方正義。
那須に鉄道通さへんかったら建設の予算やれへんぞ!!!
と言ったかどうかは定かではないですが、金庫番にそうすごまれたら、はいかしこまりましたと平伏せざるを得ない(笑
閑話休題。
明治の元勲の権力にものを言わせたわがままが功を奏し、明治19年(1886)、日本鉄道の宇都宮〜黒磯間の開業と同時に黒磯駅は開業しました。
開業当時の黒磯駅は、上述のとおり原生林しかなかった未開拓の地でしたが、駅を起点とした街の開発がゼロから行われ、それにつれ人集まってきました。
人が集まると娯楽が必要。そして、その一つとして遊郭ができる…それは必然の成り行きでした。
黒磯駅開業から十数年後の明治32年(1899)、すでに栃木県内で遊郭の設置が認められていた16ヶ所のうち、9ヶ所がさらに追加されることになりました。その9ヶ所に、黒磯が入っていました。
結局、9ヶ所のうち7ヶ所が実際に開業されたのですが、黒磯は翌33年(1900)の警察資料に初めてその名前が出てきます。
貸座敷は7件が新規オープンしたのですが、娼妓数はゼロ。要は、お店は作ったけど肝心の商品が置いていない状態。
上の表の欄外には、こんなことが書かれていました。
黒磯(中略)の娼妓数なきは貸座敷営業の許可を得たるも未だ開業せざるものを記入せしものなるに依る。
引用:『栃木県警察統計表』 原文はカタカナ
要するに、「まだ正式開業してないけど、いちおう記載しとくね」という参考記録でした。「車の免許取った!あとは車買うだけ!」という感じか。
そして翌34年のデータには記載がなく、35年(1902)に貸座敷4軒、娼妓21人との記録が残っています。が、その35年の表に「越員」として貸座敷4軒、娼妓7人の記載があるので、事実上のオープンは明治34年(1901)で間違いないかなと。それにしても、何故明治34年に記載がないのか、「仮オープン」の時は7軒だったのに、なぜ3軒も減ったのか…新たな謎を残すことになりましたが、もう100年以上経ったことだし、おそらくわからないでしょう。
黒磯の市街地の土地は、1〜5等級に分けられ、1〜4等地は人が住んでいる地域。密度によって等級が分けられていたのでしょう。5等地は人家がまばらな場所でした。遊郭は比較的人が密集している「4等地」でしたが、駅や市街地から遊郭へ伸びる「新地通り」は5等地。現在は住宅街や飲み屋が並んでいる新地通りも、昔は民家が点在、もしくはほとんどなく、遊郭へ向かってまっすぐ道が延びていただけだったのでしょう。
黒磯遊郭オープン間もない明治36年(1903)、世間はロシアと戦争かとボルテージが上がっていた頃のこと。黒磯遊郭である事件が起こりました。
明治36年1月、黒磯駅勤務の男Aは、遊郭の娼妓小菊にお熱をあげ、遊郭に揚がっていました。しかし、小菊目当てに揚がっていたのはAだけではなく、同僚Bも同じでした。
AはBに嫉妬し、大事件を引き起こします。
小菊てめー!俺に黙ってBと浮気なんてしやがって!
Aさん、やめて!
怒りにまかせたAは、Bと小菊を銃で撃った後、遊郭の大門前で銃口を口に含み、足で引き金を引いて自殺しました。
遊郭では心中事件がちょくちょく発生するのですが、女を巡る三角関係による殺人事件もたまに起こります。
この話は『下野新聞』に書かれていた事件ですが、果たして本当か。その間接的な証拠が『栃木県警察統計表』に残されていました。
事件が起こったとされる1月の欄に、「怨恨による殺人」により男女1名ずつが死亡、同時に「銃砲にて自殺」により男1名が死亡しています。まさに遊郭殺人事件の数字とおり。小菊とBは結局亡くなったようですね。
栃木県は残念ながら、統計書に遊郭のデータがない…いや、あるにはあるのですが個別の遊郭の数字がないので、黒磯単体での数字を追うことはできません。
昭和5年(1930)の内務省警保局のデータによると、黒磯の貸座敷数は3軒、遊女の数は12人とあります。明治の設立時が4軒、昭和はじめで3軒なので、おそらく大正期も3〜5軒くらいで推移していたと推定しています。
栃木県は、江戸時代の宿場町の飯盛女を抱えた宿屋上がりも含めて、面積の割には大小合わせて遊郭の数が多かったのですが、黒磯はその中でも小規模っちゃ小規模。栃木県の遊郭を売上や遊客数で、私の独断でJリーグのように「Y1〜Y3」に分けてみると、んーまあY2には入るけれど、その最下位争いのレベル、Y3と入れ替え戦やる?ってところでしょうか。
私が資料としてよく使用している『○○道府県統計書』には、たいてい「貸座敷・娼妓一覧」という独立した項目で遊郭の情報が書かれています。が、栃木県に限ってはそれがない。なんでないねん!!と過去の資料に怒っても仕方ないですが、地元の図書館にも「遊郭の資料はありません」と断言され、かなり乏しい資料の中、その痕跡がわずかに残されていました。
まずは電話帳。
大正11年(1922)の栃木県の電話帳によると、黒磯の貸座敷数は3軒。「松風楼」「宝来楼」そして屋号不明の1軒が掲載されております。
しかし、昭和2年(1927)になると「松風楼」の掲載が消え、屋号不明の1軒の主の名前が変わっています。何にしろ、ここで1軒減少して2軒となっています。電話帳掲載イコール妓楼数ではないですが、電話は遊郭稼業にとっては非常に有用な営業ツール、貸座敷の電話加入率は周囲に比べて高めです。黒磯に関しては、手持ちの資料の貸座敷数と電話帳加入数がほぼ同じなので、ほぼ間違いないかと思います。
もう一つは地図。
昭和17年(1942)の黒磯の地図には、「宝来楼」「荒川楼」の二つだけが掲載されています。横に書かれている「指定地」とは遊郭のことで、遊郭と俗に言いますが、法的な正式名称は「貸座敷指定地」。貸座敷(妓楼)を作って営業することをお上に指定された土地、それが「遊郭」というわけ。
この時期にいちばん近い数字で、昭和9年(1934)の貸座敷数2軒、同12年(1937)の芸娼妓数10人。この数字が正しいとすると(公的数字なのでたぶん正しい)、貸座敷の2軒は上述の2軒だったのではないかと推測しています。
何にしても、黒磯の遊郭は特に発展することもなく、平行線のまま徐々に萎み、戦争の中で消えていったものと思われます。
戦後も、栃木県には遊郭からスライドした赤線や青線が花盛りだったのですが、黒磯の文字は見当たりません。那須野の温泉街の芸者が…という情報は、地元新聞の記事に散見されたものの、黒磯はおそらく赤線・青線として復帰はしなかったものと思われます。
コメント
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地元に住む者です。 30年ほど前に都会よりここに移り住みました。
この遊郭の話は地元の人から聞きましたが この土地に来てから土蔵の前を歩いただけで女性の声が土蔵より聞こえてきて察しました。
15-18年ほど前まで 現在正面の新しい民家(石碑のある家)が出来る前に 古い大きな三味線手配の宿風の事務所があり古くて立派な建物がありました。 資料館と書かれた新しめのパネルが事務所の前に設置されていましたが 遊郭との表現は無かったですが「風俗」的表記は有ったかもしれません。 石碑は2つあり、もう少し小さな丸いものが有ったような気がしましたが 新築時に撤去されました。 気味の悪い石でした。
比較的最近まで看板には三味線の教室だったように書かれてあったような気もします。
遊郭の話は大正末期にこの上客だった豪農の末裔の人です。
親が遊郭通いによって田畑を失ったと聞きました。
土蔵の横の家(赤い屋根の家)の裏には大きな木が茂っていてクロスする幅の広い道路には寺がありますがここの周囲は霊道となっていて私は昼間でも気味が悪くて通れません。
玄関前の変なポストと入り口の付近は排水が悪く腐ってリフォームされた様に思えます。安物のポストはホームセンターで売っている新しいものみたいです。
女性の声は蔵の下と木の方向から聞こえますが複数です。
9mの不自然な道幅の件はこの記事から納得です。