東岡町遊郭(奈良県大和郡山市)|遊郭・赤線跡をゆく|

奈良県大和郡山市にあった遊郭、東岡町遊郭 遊郭・赤線跡をゆく
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赤線廃止後の東岡町ーそしてヤミ営業へ…

洞泉寺の方は、組合長は最後まで反発したものの、売防法が施行されるときれいさっぱり全店廃業して以後復活することはありませんでした。

対して東岡町はどうだったのか。
「成立すれば法治国民であり法を守るべきである」と、実に優等生なコメントをした東岡町の方は…

私の手元に、

京阪神周辺 酒・女・女の店
「京阪神周辺 酒・女・女の店」
という本があります。作家の藤本義一氏が実際に渡り歩いたルポなのですが、内容はだいたいタイトルでお察しなので詳しくは語りません。
発行は昭和41年(1966)、つまり赤線青線が廃止になって8年後に発行された本なのですが、売防法でなくなったはずの色街がどんどん「復活」してきているあることが、この本を読んでいるとわかります。
その中に「郡山新地」と書かれた場所があります。町名こそ書いていないものの、「近鉄郡山駅からへ徒歩10分」って、わかる人には東岡町やんか!と。ちなみに、洞泉寺町は「へ徒歩10分ほど」なので、方角違い。
その記述を一部抜粋してみましょう。

郡山新地
ここも古くからの新地で約50軒が赤線の火を消さず、(中略)生き延びている。
昼間からこのなかを歩くと「寄ってらっしゃい。ちょっと。おメガネさぁ~ん」といった調子の懐かしい呼び込みに接することができる。(中略)まったく昔の赤線と変わらないようだ。

引用:「京阪神周辺 酒・女・女の店」

また、翌年の「週刊宝石」の記事には、明らかに「東岡町」の名前が出てきており、赤線がなくなった後も「営業」していたことがわかります。

東岡町
もと柳沢氏15万石の城下町。(中略) 城下町は、かつて奈良県下に三カ所あった公娼街の2つを抱えていた。
市内の洞泉寺と東岡町である。このうち洞泉寺の灯は消えたが、東岡町はまだ命脈を保っているという。
郡山警察によると、東岡町は旅館が15軒、バー・小料理屋などが14軒、その旅館街にさしかかると、ヤリ手婆さんが手招きする。「ええオナゴはんがいまっせ。やすんでいきまへんか。一本(40分)で1600円や。二本ならもう千円追加してもらわなならんけど。泊まり5千円やけど、それは12時すぎなあかんわ」バーはたいてい1坪か、せいぜい2坪ていどの狭い店ばかりだ。ところが、そこにホステスが平均4,5人。ストールに腰掛けたり、店の前に座っていたりする。
(中略)生駒の料理旅館と同じシステムの旅館もあり、芸者は人口5万人足らずの郡山市内に約50人。(中略)ちいさな町にしては、なんともお盛んというほかないのである。
(中略)今後、郡山市がますます近代産業都市としての性格を強めれば、夜の風俗は並行して多岐になり、大規模化する可能性があるといわれる。不死身の赤線・東岡町の姿は、その将来を暗示するかのように賑わっている。

引用:『週刊宝石』

どこが「成立すれば法治国民であり法を守るべきである」やねん!!守ってへんやんけ!! とツッコミ入れたくなったでしょ?
もちろん、「料理屋」や「旅館」に衣替えはしています。が、実態は赤線の時と何の変わりもなし。嗚呼、「泊まり」あるなら私も一回くらいは体験してみたかった。

さらに、1980年の成人雑誌には、こんなことも。

ホンバンをやりたい人は、近鉄天理線の郡山駅下車、東口銀座を天理方向へ300mほど歩いた旧赤線「蓑(ママ)山新地」。入口はスタンドバーが7、8軒あり、牧(?ママ)の奥に、旧赤線の建物が10数軒“旅館”として看板をあげている。
夕方、5時頃からオープンしていて、旅館の前を歩くと、ヤリテ婆さんが手招きする。
中に入るとすぐ2階の四畳半に通される。部屋にはフトンの用意ができていて、テレビ、タンス、テーブルのたぐいがある。
やがてガウンを着た女のコが入ってくる。ショートは約20分で6千円、時間遊びは1万円が相場。
前金で受取った女はネグリジェ1枚になり、フトンの上へ仰向けに寝る。
もちろんパンティなしだから、見たり匂いだりがOK。時間遊びなら連発OKというから、時間遊びをオススメする。泊りは11時以後で2万円が相場。

そして、とどめはこちら。

雑誌「太陽」8(12)平凡社(1970年12月号)

雑誌「太陽」8(12)平凡社(1970年12月号)滝田ゆう

雑誌「太陽」8(12)平凡社(1970年12月号)滝田ゆう

昭和45年(1970)の雑誌より、東京の私娼窟、玉の井を見て育った漫画家の滝田ゆうの画による東岡町です。

当時のことは記憶どころか生まれてすらない私ですが、赤線時代を彷彿とさせるタイルにケバい色使いの壁、そして木造3階建ての「木の摩天楼」など、東岡町の雰囲気がよく出ているなと感じます。リアルタイムで見たことがないですが、まるでここだけ売春防止法が適用されない性の聖域。ちょっとだけでいいから、リアルで垣間見たかった。

なお、この絵では「東岡町」ではなく「岡町」になっております。が、地図や統計書など公文書ではあくまで「東岡町」。それはさておき、滝田氏の絵に描かれた店を住宅地図と照合してみると…絵の位置を特定しました。それはまた後で。

そして、東岡町は突然消えた…

この東岡町、聞くところによるとバブルの時まで隠れ営業、警察も見て見ぬふりしていたようですが…

その警察も知らんフリするわけにはいかない事態が起こります。
1989年、出稼ぎに来たフィリピン人やタイ人を監禁させ、売春行為をさせている…あるタレコミが警察にもたらされました。そこで、奈良県警本部が一斉摘発に乗り出しました。
しかし、警察のガサ入れを手前で知った東岡町、彼女らを隠して「知りませーん♪」と。結局、約100人と言われた彼女らは残らず「雲隠れ」。そのまま曖昧に終わったとのことです。

が、この一件で警察の逆鱗に触れてしまい、徹底的に壊滅させられました。明治時代から続いた東岡町の歴史は、あまりに後味が悪いまま完全終幕。週刊誌に「不死身の赤線」と讃えられた(?)東岡町も、髪の毛一本遺すことすら許されなかったようです。
かつてここが、滝田ゆうの絵のように「女性色」で染まっていた夜の街だったことは、記憶喪失のように忘却の彼方に去ってしまったかのよう。

木偶坊伯西
木偶坊伯西

現在の姿…いや2020年時点での東岡町の姿を見てみよう。
次ページへ続く!

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コメント

  1. 東京YS より:

    米澤様

    いつもながらサスペンスを読むようにドキドキさせて頂きました。

    仕事の関係もあって大和郡山にはよく行きますが、奈良県警の関係の方や源九郎神社の社務所の方々皆さんここを「おかまち」と呼んでおられました。住居表示とは別の俗称なんでしょうね。

    ここらか道路を挟んで北側にある『紀元二千六百年記念碑』の先の一画と、南側に広がるバラック住居群もいつも気になります。

    また近鉄の向う側の妙な建物については旧川本邸の案内の方から、この地に生まれた『日本少女歌劇座』の本拠地だと伺いました。

    そろそろこの街も見納めのようですね。

    • 米澤光司 より:

      >東京YSさん
      ここ、「岡町」と呼ぶ人がいて、ブログによっては敢えて「岡町」と書いている人もいるのは知っているのですが、私はあくまで公式として「東岡町」としておきました。
      「日本少女歌劇座」のことは初めて知りましたが、調べてみるとなかなかネタになりそうな歴史ですね。もし本当に西岡町の建物がそうなら、なかなかの文化財ですね。今ふつーの民家になってますけど…

  2. えに より:

    はじめまして。街ブラを趣味としている者です。
    「吉乃」の看板がある物件ですが近隣の方にお話を聞くことができました。
    その屋号で営業を予定し取り付けられたものの、営業されず終わってしまった名残だそうです。
    全国遊廓案内などに記載がないのもその為と考えられます。

    • 米澤光司 より:

      >えにさん

      はじめまして、拙ブログをお読みいただきありがとうございます。
      「吉乃」の件、情報をありがとうございます。未完の店でしたか、そりゃ載るわけがないですね。
      この件、本文に追記させていただいてよろしいですか?

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