前回の龍宮遊郭編で、地元のおじいちゃんから、竜宮は”戦時中”に丸山地区に移ったという貴重な話を聞き、その足で丸山地区に向かうことになりました。
とは言うものの、丸山地区ってどこ?地元土地勘ゼロ。いきなり途方に暮れてしまいましたが、そこは21世紀が誇る文明の利器の出番です。
まずはナビで住所検索。ま・る・や・ま♪と検索・・・はい、一発で出てきました。よし、龍宮のおじいちゃんが言う地区と一致、間違いなし!
舞鶴の知られざる遊里、丸山遊郭
丸山地区は、『遊郭をみる』にサクっと書かれています。
「1940年(昭和15年)、竜宮遊郭は基地の拡張により丸山への移転を命じられ、13軒が移転。
『遊郭をみる』
軍ご用達の遊郭には配給の特配があるというので、京都の祗園からも19軒が移転してきて、32軒からなる丸山新地ができた」
戦後に龍宮から移った業者が龍宮に帰ってきたことは、前回の竜宮編で記した通りです。
が、その後の丸山地区は消えたわけではなく、そのまま赤線として残ったことが以下の資料でわかります。
「京都の取締り対策について申し上げます。
国会法務委員会議事録(昭和32年) より
まず、売春関係地区の現況は、京都における赤線地域は京都市一帯の8カ所、即ち西陣新地、祇園、宮川町、七条新地、島原、中書島、撞木町、橋本の8カ所と、府下6カ所、即ち月見、猪崎、朝代、龍宮、丸山、新浜の6カ所に分けられますが、(以下長いので略)」
昭和32年といえば、売防法施行がカウントダウンとなり赤線廃止が確定となった時期。ここでわかるのは、京都市も含めた京都府のどこに赤線があったのか、文字としてちゃんと残ってること。
ここに丸山地区が戦後も赤線として残り、売防法施行寸前まで残っていた一次資料としての状況証拠でもあります。
また、別資料によると、同じく昭和32年当時の丸山赤線の業者は、「遊海」「栄楽」「朝日」「望月」の4軒とのこと。舞鶴の中では最小規模、こじんまりとした区域だったようです。
そんな丸山地区は、今ではごく普通の、どこにでもある住宅街になっています。実際に来てみると、丸山地区のどこあたりが赤線だったのか、さっぱり見当がつかない。
ここあたりか…とだいたいの目星をつけてみたものの、どっからどう見てもただの住宅街…。こりゃ間違えたか?それとも当時の建物は全く残っていないのか?
それは資料不足につき、当時はわからずじまい。
ただ…
龍宮にあったお地蔵さんがこの地区にもありました。これは舞鶴の地元の信仰か?それとも龍宮のお地蔵さんがもしかして丸山に移った名残か?ただ、「同じものがここにもある」という事実があるだけ。
結局、丸山地区の端から端まで歩いても手がかり的なものは一切なし。
赤線廃止から60年も経っているので、何もないのも仕方ないですが、見当をつけた場所を間違えただけかもしれませぬ。これは今後再調査ということでペンディング。
そして10年の時を経て、丸山新地を改めて再調査してみました。
以前のブログの管理人限定コメントで、地元の方から簡単ながら丸山新地について情報をいただいており、場所はだいたい特定しました。
どうやら私が探していたところはビミョーに違っていたようで、上記の地蔵さんがある場所より「もう少し南」とのこと。確かに地図で照合すると惜しい、違うところを調べていました。まだ駆け出しの頃だった上に、事前情報がないとこんなものか。
丸山地区の昔を航空写真で見てみました。
周囲に家がほとんどないところに、整然と並んだ家々。丸山新地に間違いありません。昭和15年(1940)に移転してきたものなので、写真はまだ7~8年しか経っていないものです。
そのすぐ南にある大きな池は、現在東舞鶴野球場となっており、これが昔の航空写真で丸山地区を探す大きな決め手となりました。
改めて舞鶴市立図書館所蔵の住宅地図(昭和33年8月)を紐解いてみると、この時にはすでに地図上では赤線だったのかわからないくらいになっていました。が、建物は地元の方のコメントによると20年前までは残っていたそうです。
残念ながら、丸山新地について知っていることは以上となります。より具体的な事を知っている人がいれば、こっそり直メール下さい。
コメント
[…] 丸山・加津良遊郭(京都府舞鶴市)|遊郭・赤線跡をゆく 加津良遊廓 前篇 – 花街ぞめき Kagaizomeki 舞鶴加津良遊廓跡 – パンクはいつも突然に […]