石巻の遊郭の歴史
江戸時代の大藩である仙台藩は、藩主の吉原遊郭通いから事が始まった「伊達騒動」の影響もあり、藩内の遊里設置は厳しく禁じられていました。ただし、「二つの地は例外」と。一つは盬竃…と書くとどこかわからなくなるので塩竃と書きましょう。
そしてもう一つが、今回の主役である石巻。
記録には、貞享2年(1685)に両町に女郎屋が開設されています。 二つの地に共通なのは、漁港ということ。海の男は長い間海に出ていると土と女の肌が恋しくなるようで、それは近代に入った海軍でも同じことでした。
陸に上がる時は、「三本足」で立っているようなものだったよwww
もう一本の「足」がどこかはお察しですが、この発言は一兵卒ではなく当時は超エリートの中佐の言です。
海軍には、軍艦寄港時には艦長自ら舵を握るルールがありました。操舵が上手い艦長だとさっさと接岸させて乗員を陸に揚げる。遊郭の女は早い者勝ち、早く上陸した者がいい女をGET。それも艦長の腕次第。それができない不器量な艦長の艦は…
そんな艦から沈んでいったわい
不沈艦としてその名を残す駆逐艦『雪風』を不沈艦たらしめた名艦長、寺内正道中佐の言葉です。さっさと部下を上陸させていい女にありつかせるのは、軍艦のモチベーション保持のために重要だったのです。
そんな海の男の特殊な(?)事情もあり、さすがの仙台藩も特例として石巻に遊郭設置を許可したのです。
江戸時代の石巻遊里は、石巻村、門脇村、湊村の3ヶ所にあったことは確かだそうですが、具体的な軒数・人数についてはよくわかっていません。ただ、かなり栄えていたとは伝えられています。 そして明治時代に入ります。 明治10年代に開業していた妓楼は、『東楼』『千葉楼』『伊沢楼』『旭新田楼』などがあり、観潮楼は近代になり廃止された石巻代官所が払い下げられ、敷地建物をそのまま使った妓楼だったと伝えられています。
明治20年に入り、町中に散在している遊里を一ヶ所に集約させる動きが始まります。明治20年(1887)11月に移転を出願し翌月に許可されました。
移転の場所は、蛇田町と呼ばれたところでした。蛇田町は江戸時代には石巻から他地方への幹線道路として栄え、関所も置かれていたのですが、明治初期には衰退著しい区域でした。 そして明治21年(1888)、蛇田町に廓が移転します。そのとき、町に栄えあれという意を込め、遊郭移転を機に「旭町」と改称されました。これが、現在も続く旭町の由来です。
開設当初には、旭町の通り沿いに14軒もの貸座敷(妓楼)が並んでいました。明治30年代前半の観光ガイドには、旭町の遊里をこのように説明しています。
青楼の一廓を旭町と云ふ。明治21年前は町内所々に散在せしが、風紀の取締上現在の位置に移転せしめられたるなり。 此の一廓は雪月花の郷里、長生不老の別世界にて、高楼曲欄相接し、大廈高楼、巍然として雲際にそびえ、仰ぎては日和の風光、牧山の燦然たるを望み、伏しては北上の流れを見る。 (中略)楼上楼下、千万点明々晃々、歌雲絃雨、あたかも湧くが如く、真に、是れ、不夜城なり。
引用:『石巻案内』明治34年
全文を見ると、その繁盛ぶりが容易に頭の中で再生できそうな美文が並んでいますが、明治31年の春、旭町は火事に襲われることとなります。
火事により妓楼はほぼすべて焼けてしまい、明治44年の資料には4軒を残すのみと書かれています。
その19年後の昭和5年(1930)の『石巻商工案内』にも、貸座敷の数は『朝日楼』『千葉楼』『青山楼』『好見楼』の4軒とあります。『全国遊廓案内』でも4軒(妓楼名は『石巻商工案内』に同じ)とあり、二つの資料の記述が一致しています。逆に言えばこれ、遊郭は19年間ほとんど発展していなかったということ。
さらに、この5年後の昭和10年(1935)の『宮城県統計書』を見ると、貸座敷数の数は1軒、娼妓も2人のみ。数字としては、旭町遊郭はこの時点で「死亡宣告」と言っていいでしょう。 しかし、遊郭は「死んで」も、石巻に売春行為が消えたクリーンシティになったわけではありません。遊郭なんて死ねばいいのにの仙台藩が特例で設置を許可したほどの場所柄、そんなくらいでなくなるわけがない。
石巻の遊里の主役、私娼窟
遊郭の代わりに栄えたのが、「乙種料理店」こと私娼窟。 「乙種料理店」とは、法的には小料理屋のことです。が、戦前の私娼窟がこの営業形態で「遊女屋」を営んでいたせいか、売春宿の代名詞となっています。実際、「ノー遊郭」を明治時代から達成した群馬県は、「乙種料理店」が前橋や高崎など各都市に軒を連ね、事実上の遊郭としての機能を持っていました。
大正末期から昭和初期にかけて、石巻でなんと3ヶ所もの私娼窟が発生しました。決して広くないところに3ヶ所もの歓楽街が出来たということに、石巻が戦前いかに栄えていたかを物語る間接的な証拠とも言えます。 よって、本編の主役は遊郭ではなく、こちら私娼窟の方だったりします。 石巻の私娼窟は、大きく分けて以下の3つでした。
住吉新地
住吉新地は、昭和のはじめに地元の飲食業の畠山又一と牛渡森之助が新地の建設を計画し、昭和4年(1929)に開業しました1。
昭和8年(1933)の地図から引っこ抜いてきた石巻の市街地図にも、「住吉新地」の文字がはっきりと見て取れます。
この新地は小料理屋の形態を採っていたようで、開業時には『一三五』『二見屋』『金水』『牡丹』『菊の家』などの店があったといいます2。
また、昭和13年(1938)の電話帳によると、『二見屋』『牡丹』『あづまや』と3軒。 内務省衛生局(のちの厚生省)調査の私娼窟調査には住吉新地(または新地)の記載があります。が、営業者数の表記は20軒前後と、現地の資料と甚だしい乖離があります。
10軒以上の差があればどちらかが「間違い」となるのですが、現地を実際にフィールドワークした人間の目から見れば、現地の情報の方が正しいように思えます。これについては後述するので、ひとまず横に置いておきましょう。
興味深いのは、新地ができた場所。 上述した1933年の地図を、少し角度を変えて見てみましょう。
赤丸の住吉新地の横には、「旭新地」の文字が見えます。「旭新地」とはすなわち遊郭のこと。住吉新地は遊郭の隣の土地に作られたのです。
この地図には、遊郭内に「朝日楼」「好見楼」、そして「千葉」「青山」の文字が見えます。『全国遊廓案内』などの資料の記述が正しいことが、この地図で証明されました。
なお、地図では「青山」「千葉」さんに「楼」が消えています。千葉昇蔵の名は『石巻商工案内』に「千葉楼」の楼主として名前が残っているので、昭和8年には遊女屋を廃業したのでしょう。
横町
住吉新地はかなり当たりだったようで、それに刺激を受けて牛渡森之助、針生平吉、清野儀兵衞の3名が横町54番地の土地を取得し開発を行いました。そして昭和10年(1935)に開業しました。
横町は、花園町とも表記されます。花園町は正式な町名ではないのですが、なぜ横町なのに花園町と呼ばれのか。新地内にすでに営業していた「花園湯」という銭湯にちなんだと言われています。
開業当初の店は『御園』『松鷹』『鈴蘭』『金鶴』『丁字屋』『常磐』『松月』などがあったとされ3、昭和14年(1939)の内務省データには、13軒の店があり40人の女性がいたと記録されています。 後述しますが、この横町の位置も実は遊郭の隣。言葉は下品ですが、住吉新地といい横町といい、死んだ遊郭の死骸をついばむハゲタカかハイエナに見えて仕方がない(笑
南地
名前の通り石巻の南につくられた新地で、前の二つの新地とは位置が全く違います。
地図におこすと一目瞭然のように、遊郭や住吉新地、横町とは真逆の場所です。なぜこんなところに遊郭…いや私娼窟が?
石巻は今も昔も日本屈指の漁港です。寒流と暖流がぶつかる三陸沖は「世界三大漁場」と世界的に有名で、私も宮城県に来て初めて「本物の魚」を食べた気がします。今まで食ってた魚はスリッパだったのかと。
ところで、中国広東省に留学していた頃、香港人にこんなことを言われたことがあります。
なんで日本人は香港でフカヒレ食うの?
理由を聞くと…香港の高級レストランの最高級フカヒレは100%日本(主に気仙沼)からの直輸入。日本の方が絶対に安くて上手い。
だから、
フカヒレおいしいわね、さすがは香港だわ♪
とご満悦の日本人を見る度に、
いやそれ日本産なんだけど
と心の中で思ってしまうと。
実際、香港の乾物屋に足を運んで見てみると…確かにフカヒレは「宮城県産」「岩手県産」ばかり。こんなんやったら日本で食った方が安いやん!?と思ったのが25年前。
それから四半世紀、何の縁か白河の関を越え実際に魚を食べて(フカヒレじゃないけど)、香港人の言葉を舌で悟った次第であります。 コロナが明けたら宮城県まで「本物の魚」を食べに来てね。
閑話休題。
漁獲高が好調な石巻さん、(旧)北上川河口にあった港が拡張され、昭和10年(1935)に右岸にあたる門脇地区に第二魚市場が開業されました。それに合わせて門脇後町に新しい歓楽街をつくることになりました。
実際に 「新しい歓楽街の名称募集!」 と新聞にも募集広告を打ち、昭和10年(1935)6月に公募の結果、「南地」と命名され、各店舗の敷地は60坪と均等に区分けされました。なお、60坪とはコンビニのローソンがHPで公表している郊外型店舗の標準テンプレ面積、これでだいたいイメージがつくと思います。
南地の店舗は、開業当初は『花月』『金波』『不二家』『村田家』『大漁』の5軒。さらに『躍進石巻』(1939年)の乙種料理店リストにはプラス7軒。合計12軒の店があったと推定されます。内務省のデータには13軒とあるので、現実には12軒±1軒という誤差だったでしょう。
戦後の石巻遊郭は?
そして戦争が終わり、遊里史で言えば「赤線・青線時代」となります。
石巻はどうなったかというと、明治時代からの遊郭は昭和26年(1951)時点で千葉楼は鉄道青年寮、好見楼は鉄道家族寮、朝日楼と青山楼はアパートになっていました。昭和10年(1935)時点で妓楼1軒のみだったので、戦争中か戦後直後のどさくさに廃業、貸座敷免許も返上したと思われます。よって、旧遊郭は赤線となっていません。
対して、昭和初期に開業した私娼窟3ヶ所は、赤線として戦後も生き続けます。まるで遊郭の看板を引き剥いだかのように。
戦後は『特殊喫茶店』として出発したようですが、「特殊」とは何か、それはもうお察し。 とある地図があります。
「南地」があった門脇地区の戦後の姿を、当時の住人の記憶をもとに作成した地図ですが、「南地」があった場所をクローズアップしてみると。
なんと
「遊郭」の文字が!!
厳密に言えば南地は「私娼窟」であり遊郭ではないのですが、「女とイチャイチャする場所」としての代名詞としての「遊郭」。少なくても現地ではここは「遊郭」で、「遊郭」と呼ばれていたのでしょう。
これは石巻に限らず全国各地で見られる現象で、地元の人が「遊郭」と呼んでいたからここは遊郭だった!と早合点するのが遊郭・赤線探索者あるあるです。鳥取県倉吉新地のように、現地の人どころか、市史などの公文書にも私娼窟を「遊郭」と書いているという大トラップもあるので、そこは頭を整理しなければなりません。
それはさておき、この地図には興味深いことが二つ書かれています。 一つは、「南地」の由来。
新地(住吉)、花園町(千石町)の遊閣の一部を、南地の大地主鈴木栄一氏(約三千坪)等、南方開発計画により誘致。地名を公募(S10.6)。
引用:1940年代後半門脇地区地図
資料に書かれていた南地の由来が書かれており、南地が住吉新地、花園町からの業者の一部移転で成り立ったこともここに書かれています。
もう一つは、南地の横が辺見庸の出生地だったということ。 辺見庸は作家・ジャーナリストでということくらいしかわからず、私も不知識ながら知らなかったのですが、芥川賞を受賞したのでそこらへん界隈では有名なのでしょう。 昭和19年(1944)生まれなので、赤線時代の南地は記憶にはっきりと残っているはず。
宮沢賢治のように、実家が遊里の目の前ながら文章に残さなかった人もいるので期待はしていませんが、辺見氏の文章の中のどこかに、南地のことを記しているかもしれませんね。
残りの住吉新地と横町ですが、こちらも「遊郭」として地元の人の記憶に残っているようです。
戦後の地図にも、横町花園町の部分に「遊郭」の文字が。
せやから遊郭ちゃうっちゅーねんと70年以上前の地図にツッコミを入れても仕方ないですが、確実に戦前の遊郭(旭新地)の看板を奪ってしまった形になっていました。
昭和32年(1957)3月か4月時点でも、横町31軒(住吉新地込み)、南地3軒の合計34軒が営業していたそうですが、昭和33年(1958)4月1日からの売春防止法完全施行により、同年3月中にはなくなったと思われます。
コメント
冒頭部分の記載に、
貞享2年(1985)
と、ありました。西暦年が違ってましたので、不躾ながら連絡させていただきました。
ご指摘ありがとうございました。訂正しました。
戦後は『特殊喫茶店』として出発したようですが、の下に添付されている地図の名を教えてもらえますでしょうか。もしくは、どこで確認したのかなど教えていただけますと幸いです。
巻末に参考資料をすべて提示しております。資料は基本的に石巻市立図書館か宮城県立図書館で収集しております。