函館大火と大森遊郭
大森遊郭の衰退のとどめの一撃となったのは…またまた火事。1934年(昭和9)、大森遊郭にとって運命の「その時」がやってきます。
まだ残雪と寒さが抜けない3月21日午後、台風もどきの爆弾低気圧が北海道南部を襲い、函館では瞬間風速2~30mという強風が吹き荒れました。この日の風速は、記録に残る函館市1日平均風速ランキングの第3位となっています1。
この強風で住吉町の木造住宅が倒壊、そこから周囲に燃え移った火は折からの強風に煽られ、函館市内を焼き尽くしました。
また、風による電線の断線で全市が停電となり、火災報知器などが機能しなかったことも被害に拍車をかけたといいます。
前回二つの遊郭移転の原因もそうだったように、函館は幕末~昭和にかけての「大火」と呼ばれる大火事の回数が、市史の記録だけでも30回。
はた目から見ても何回燃えてんねんというくらいの被害を被っているのですが、この火事は規模や被害が他に比べて類がなく、俗に「函館大火」と言えば昭和9年のこれを指します。
また、この大火以降函館の人口が減少したのに対し、札幌がその間に人口を抜き北海道一の街となります2。この大火は、北海道一の街が名実ともに函館から札幌へ移ったきっかけでもありました。

函館市のデータによると、大森遊郭には午後9時頃に火が移り、あっという間に遊郭及びその周辺を焼き尽くしました。被災地図を見ても遊郭は真っ赤に塗られています。

北海道一の規模を誇った大森遊郭の栄華は、このようにすべて灰と化しました。遊廓の端にある大森稲荷の鳥居が丸見え、周囲に建物らしいものは残っておらず遊郭の大門だけ残っているのがかえって不気味に見えてしまいます。

明治40年の大火で現在地に移り、遊郭からも信仰を集めた大森稲荷神社には、大火で真っ黒になった狛犬が現在もそのままの姿で残っています。
ところで、火事での死因はほとんどが焼死または一酸化炭素中毒です。確かに、火事で死んだと言えばこの二つを考えるのが常識です。ところが、この函館大火の変わったところは、水死・凍死者(1,134人)が全死者数(2,198人)の半分以上。
もちろん焼死者もいますが、火事なのに死因の第一位ではないというところ。それはなぜか。

火事のあまりの勢いに、住民は南部の海岸(大森浜)に逃げ込みました。しかし火はそこまで迫り、避難した人の衣類に火がつき海岸も地獄絵図となりました。
熱さに耐えかねて、人々は海に逃げ込みます。が、海は海で低気圧により大荒れ。海に逃げた人も大波に呑まれて溺死してしまいます。
辛くも波から逃れた人たちも、当日の最低気温は-2℃、翌日は-10℃まで下がるという不運も重なり3、雪も降る中の強風と低温により凍死。
風、火、高波、低温の四要素が死神となり暴れまわった中、人々はさぞかしパニックだったことでしょう。
遊廓の女性たちも、当然ながら逃げたのですが、近くにあった大森の海岸に逃げた遊女は軒並み亡くなったそうです。

大火後の遊郭はどうなるのか?
そしてこれがきっかけで誕生した「新新地」とは?
コメント