函館遊郭列伝 第二章 蓬莱町、台町|遊郭・赤線跡をゆく|

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第一章 山の上、豊川町遊郭の記事はこちら!

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函館の遊郭 蓬莱町、台町

函館山ノ上遊郭と蓬莱町遊郭

火事で焼失した山の上遊郭と豊川町は、代わりに台町や、「大工町地続大森浜通」の地を与えられ開拓使からも移転支援金3万円が支給されました。後者はのちに、「蓬莱町」という町名がのちに付けられることになります。

函館蓬莱町遊郭の絵葉書写真
遊廓時代の蓬莱町

函館の遊郭は「蓬莱町」「台町」の2ヶ所になるのですが1、メインは蓬莱町の方。

台町は貸座敷数20軒ほどがキャパシティだった一方、蓬莱町は明治14、5年頃には貸座敷数も40軒前後を数え、その繁栄は吉原のようだ2と評されたほど繁盛しました。

2つ合わせての数字ですが、『函館市史』によると移転約10年後の明治15年には64軒、263人だったのが、明治30年には96軒、666人と3倍の規模になります。

興味深いのは遊女たちの出身地。市史にある1893年(明治26)のデータによると、函館近辺が約37%なのに対し、それ以外(不明は除く)は約40%。それだけなら別に珍しくもないのですが、出身地が江戸時代の北前船の寄港地に沿っていること。船でひと漕ぎの青森県出身者が多数ですが、江戸時代からの船のネットワークは、モノだけではなく人も動かしていたことが客観的にわかります。

しかし、これが蓬莱町・台町遊郭のピーク。その8年後には74軒、522人とかなり縮小されています。この間に何があったのか…何かあったのだと思いますが、その理由はわかりません。

函館の遊郭
イメージ画像

この蓬莱町、台町の遊廓の繁栄も約40年で終わりを告げます。原因はまた火事。
明治40年(1907)8月25日、東川町の工場から出火した火は市街地をなめ回し、遊廓があった地区も焼き尽くしました。

しかし、遊郭が移った後も蓬莱街や十字街周辺は小売店やカフェーなどが立ち並ぶ歓楽街として栄えました。

蓬莱町・台町遊郭跡の現在

蓬莱町の遊郭跡には現在、路面電車が貫いており、道幅ものちに拡張されたので往時を偲ぶものは何も残っていません。
ただ、

遊廓があった場所とは少し外れますが、十字街から蓬莱町へ延びる道は「函館銀座通り」と呼ばれ、料理屋やカフェーなどが道の両側に並んでいました。それも昭和50年代にはすでに廃れ、盛り場だった面影はなくなっていたと郷土資料には記されています。

箱館蓬莱町(宝来町)の遊郭跡

しかしながら、ここ界隈には戦前の看板建築がところどころに残っており、盛り場だった面影をわずかに残しています。

台町は現在の船見町の一角に位置し、山ノ上遊郭で述べた地蔵寺、外国人墓地への道筋にあたります。チンチン電車(市電)の終点から向かう際、昭和40年代に消えたという旧台町を横切ることとなります。

函館市台町遊郭跡の場所

旧函館市立西小学校の角あたりが、台町遊郭があった場所とされていますが、詳しい場所は私もわかりませんでした。
ところで、言っちゃ悪いがなぜこんなところに遊郭が作られたのかと考えてみると、やはり造船業が絡んでくるのではないかと思ったりします。

箱館どつくの建物

台町遊郭跡には、「函館どつく」という大規模造船所があります。ここから遊郭へは目と鼻の先、ここの工員を上客にしてたのかな!?と考えたのですが、創立が1896年(明治29)、ドック完成が遊郭がなくなる4年前のこと。特に関係はないと思います。

が、現在は「はこだてマリーナ」となっている場所には、函館三大造船所と呼ばれた島野造船所があったそうで、しかも操業は1875年(明治8)。おそらくこれは…という感があります。

火事によって焼けてしまった函館の遊郭。次なる新天地は「大森」の地。
その遊郭はどういうものなのか。

現在執筆中、少々お待ち下さいm(__)m

  1. 『函館市史』によると、のちに天神町と駒止町が追加されたそうですが、詳しい資料はありません。
  2. 『函館新繁昌記』上篇
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