奈良県大和郡山市の東岡町は、かつて遊郭・赤線として明治時代〜昭和の戦後にかけて栄えた地域です。
東岡町遊郭の波瀾万丈な歴史については、以下の記事で詳細に解説しています。

そして現在の姿はどうなっているのでしょうか。遊郭や赤線時代の建物は残っているのでしょうか?
本記事では、東岡町遊郭跡の現在の様子、当時の建物の有無、場所や行き方についてわかりやすく解説します。
東岡町遊郭跡の場所
東岡町は大和郡山市中心部から少し南側にあり、近鉄橿原線沿いに位置しています。
| 住所 | 奈良県大和郡山市東岡町 |
| アクセス | 近鉄橿原線近鉄郡山駅より徒歩約5分 JR大和路線郡山駅より徒歩20分以上 |
上の地図を見ていただくとわかるように、近鉄橿原線近鉄郡山駅からさほど遠くなく、徒歩でも5分ほどの距離です。遊郭・赤線が現役だった時は、鼻息が荒いオスどもが足早に遊里へ向かっていたはず。だったら3分くらいで行けたかも(笑

昭和47年(1972)、近鉄郡山駅の写真ですが、方向がビンゴなので奥の黄色のところにわずかに東岡町を望むことができます。
これで駅と遊郭の位置関係が把握できると思います。

東岡町は、近鉄郡山駅から南へ5分くらいの位置にあるのですが、そこまでの道筋にはスタンド形式の飲み屋や、その抜け殻のようなものが並んでました。
その昔はここにズラリと呑み屋なんかが並び、まずは一杯ひっかけて理性を麻痺させ、赤い顔を掲げながらお目当ての女の子へと向かっていた光景が、容易に想像できます。
東岡町遊郭跡の現在の姿は
さて、東岡町遊郭の現在の姿を、写真を使って見ていきましょう。
遊郭の入口ー滝田ゆうの挿絵との類似点
実際に遊郭跡へ行って入口に立って、真っ先に思ったことがあります。


入口がやけに狭いな…
東岡町は、歴史編で述べたように大正時代後期に事実上開発された遊郭です。それ以前がどのようなものだったかは不明ですが、ビッグバンを起こすほどの拡張ぶりなら大通りの一つくらい作ってもよかろうと。
しかし、遊郭へと通じるの入口は至って小さい。ストレートに言ってしまえば、かつて奈良県一の規模を誇った廓の入口にしては貧相ではあります。
この光景、歴史編を見た方ならなんとなく見覚えがあると思います。
平凡社(1970年12月号)-846x1024.jpg)
実は滝田ゆうが描いたところだったのです。
私が上記写真をこの角度・距離から撮影したのは全くの偶然。撮影した時はこの挿絵の存在すら知らなかったのだから。

写真と絵を並べて比較してみます。
50年の月日はむごいもので、赤い灯で街が照らされていた頃の面影はほぼ皆無。まったく静かな住宅街になりましたが、少し曲がった道筋、そして黄色矢印で示した電柱の位置は変わっていません。
この位置の決め手になったのは、赤色矢印の位置にあったタバコ屋さん。

画像はGoogle mapのストリートビューからですが、ここの角にタバコ屋がある…いや私が行った時には閉まっていたので、もう営業はしていないでしょう。
タバコ屋は、ある範囲の販売独占権が法律で定められており、その範囲内での他の店の販売は禁止です。このタバコ屋は旧遊郭内唯一だと仮説を立て、住宅地図で他のタバコ販売店を探してみました。結果は写真の1店舗のみ。これで場所が特定できました。
わざとかどうかは知りませんが、滝田ゆうもさりげなく、しかしすごい目印を絵に遺してくれていたものです。
滝田ゆうの絵とともに歩く東岡町遊郭跡
もののついでなので、他の2点も答え合わせしておきましょう。
平凡社(1970年12月号)2.jpg)
実は2枚目と3枚目は一つの絵となっており、上はそれを合体させ原形に戻したものです。
ここにも、右端に「タバコ」の文字が見えます。上記のとおりタバコ屋の場所は判明しているので、場所の特定はもう楽勝です。

Google mapのストリートビューを使って、できるだけ「滝田ゆうアングル」を心がけてみました。面影がないように見えますが、左側の暗渠にコンクリの蓋で塞いだと思われる道は、50年の月日が経っているものの、なんとなく残滓のようなものが見えます。
そして、絵に描かれているヒントを、昭和50年(1975)の住宅地図を使ってピンポイントで探していきます。

電柱に赤々と書かれた「スタンド安全地帯」、「ヤマト」と書かれた求人の張り紙、そして「旅館三光」。

その電柱の前にあった散髪屋。
さて、住宅地図と照合すると!

すべて実在を確認しました!

絵には「寿し」と描かれているこのお店は…

この寿司屋も現存していました。
寿司の看板の左にある、「う」しか認識できなかった看板の店は、「うどん 品の家」という店であることが判明。最初はうなぎかと思ったのですが、違いました。
とどめはこれ。

半分が壊れ蛍光灯が剥き出しになっている電灯広告、「旅館 美X」と書かれています。当時の地図と照合すると、「美」がついた旅館は唯一一件、

「旅館三光」の隣にあった「旅館美福」のみ。ここの看板で間違いないと思います。
これにて答え合わせ終了。これだけでブログ記事を終わらせることができます。
東岡町遊郭跡に残る建物の痕跡
東岡町の色街跡には、10年前に一度足を踏み入れたことがあります。
当然、すでに「現役」ではなかったものの、まだピンク色の臭気が漂っているような妖気を感じました。片側だけになってしまったものの、木造3階建ての「木の摩天楼」も朽ちつつも残り色街としての風格がまだ消えていませんでした。
そして10年後、再訪した時の感覚はどうだったのか。

東岡町でいちばん目立つ建物がこれ。一見トーチカに間違えられそうな、コンクリの洋風の玄関口の上に和風の建物が乗った建物。その姿のあまりの異様さに、カメラのシャッターを切らざるを得ない風格を漂わせています。
当然、こちらも元妓楼。赤線時代の屋号は不明ですが、その後は地図により「朝日」だったり「㐂(七が三つ)美」だったり。
10年前訪れた時には住人がいた、ある意味現役の家であったのですが、現在は「貸家」の看板が貼られ新しい主を静かに待っている様子でした。10年前にあった表札も現在はなくなり、主の不在を知らせてくれています。

2020年(令和2)2月末現当時、取り壊し中の元妓楼。
ここは赤線廃止後は「やまと旅館」として営業していたところでしたが、赤線時代の屋号が不明。少なくても「やまと(大和)」という屋号の店は存在しません。
実に哀れな姿を晒していますが、これが逆に作用し中に入らずして中の構造が拝見できる状態になっています。

中が丸見えの状態になっていますが、左の角部屋が6畳くらい、右が3~4畳というところでしょうか。貸座敷(赤線時代のカフェーも含む)の部屋は、和風建築がそうかのか、理由はよくわかりませんが、角部屋は常に広いんですよね。
しかし、こちらも存在は風前の灯火。このブログがアップされる頃には全壊して跡形もないかもしれません。また一棟、妓楼が消えたということ。

2008年訪問時に撮影した同じ場所を、2020年に同じアングルで撮影してみました。
2008年当時は道の左右に高層木造建築が家が並び、「現役」時代の面影をわずかながら遺していました。歩いていると、家から

おにいさん、どう?
という鼠鳴きが聞こえてきそうな雰囲気すらありました。
が、10年の月日はそれをほぼ消し去ってしまいました。左の木造3階建てがまだ面影を残しているものの、10年前には住んでいた住人も今はなく、ほぼ朽ちるに任せることになるでしょう。
同じ大和郡山の遊郭でも、洞泉寺はどこか「明」を感じたのに対し、東岡町はまさに「陰」でした。かつての「郡山新地」でも、前者が「表」に対し後者は「裏」だったのか、それはわかりません。が、洞泉寺との対象としての東岡町に感じる「陰」を感じることは確かです。
東岡町の謎の妓楼「吉乃」の謎

東岡町を象徴する一つが、この昔の屋号が入った灯籠です。レトロ感の強さが印象深いせいか、来訪者のブログやサイトには必ず掲載されていますが、今回来訪時には消えておりました…
この灯籠、果たして遊郭時代のものか、それとも赤線時代のものか。
昭和5年当時の妓楼は、
「旭楼」「今村」「竹島」「藤近」「千歳」「大阪楼」「都楼」「笹の屋楼」「寿楼」「岡吉楼」「ヨカロー」「御多福楼」「河卯楼」「宝山楼」「駒川楼」「恵美須」「錦水楼」
とあり、「吉乃」は見当たりません。
戦後の赤線時代、昭和30年当時の関西の赤線業者一覧表(非売品)にも、「吉乃」の記載は見当たらず。当然、赤線廃止後の地図を2種類チェックしたものの、結果は同じ。
これはペンディング事項やな…と最初は終わったのですが、この記事を見て下さった方から情報をいただきました。
「吉乃」の屋号でお店を始めようと、灯籠まで付けたがよかったが、結果的に営業されずに終わってしまったものだそう。「吉乃」は幻の屋号だったという予想外の事実でした。
東岡町一の大妓楼跡ー「豊栄楼」跡
東岡町遊郭の妓楼跡の中でも圧巻だったのは、間違いなく以下の建物でしょう。

東岡町遊郭跡といえばこの建物!
というランドマーク的な元妓楼、昭和43年(1968)の住宅地図では「T」と個人宅になっていますが、赤線時代の組合員名簿によると苗字がTの店は「豊栄(楼)」。
なので、ここは赤線時代「豊栄」という屋号だったはずです。

2010年の初訪問時にはすでにシャッターが閉まり、人が住んでいる気配もない廃墟と化していました。
ぱっと見あまり変わっていなさそうに見えますが、10年経って朽ち具合がまた一歩進んでいる感があります。

とはいえ、元々良い木材を使っているのか、格子などはまだまだ朽ちておらず当時の繁栄の姿を伝えています。
シャッター正面から左の小窓、のですが、今年にはそれも無くなっていました。そのせいか、

2010年の時には格子がついていて気づかなかったのですが、窓の上の牡丹(?)のステンドグラスに気づくこととなりました。
花の部分だけガラスの荒目を大きくし、花として浮きだたせる装飾が施されています。
なんだかさりげなくありますが、これの制作費、けっこう高いかったと思うよ…ステンドグラスの制作費、けっこう高いから。
まるで妓楼の死体の放置プレイとばかりに放置されて朽ちるままに任されていた元「豊栄楼」ですが、2024年10月に行政代執行で取り壊しとなりました。

取り壊しから10ヶ月後の2025年8月に再訪問してみましたが、あの3階建ての「木の摩天楼」はこのとおり更地に。
2020年で自然崩壊も待ったなしだったので、近いうちになくなるだろうなとは思ってたものの、いざなくなると寂しいもの。
更地になって気づいたことがあります。
画像は超望遠での撮影ですが、更地を実際に見てみると感じるはずです。

あんなに(上に)デカかったのに、床面積は大したことなかったんやな…
あの「木の摩天楼」は、ある種のハッタリだったのだと(笑
更地になったことによって、今まで発見できなかったものが白日の下にさらされていました。

角にあった正面玄関には、このように白と緑のタイルで敷き詰められていたのだと。

こちらは脇の入口の部分ですが、こちらは茶色のタイルでした。
まとめ
洞泉寺町が「色街の抜け殻」なら、東岡町は「色街の死体の放置プレイ」といわんばかりの廃墟ぶり…10年前に訪れた際の感想は、

遊郭跡というより、遺跡やな…
これに尽きました。
その「遺跡」にも新しい家やアパートがいくつも建てられ、まもなく終焉を迎えようとしています。
古代文明の成れの果てのようなこの「遊郭遺跡」こと東岡町。「男と女どもせめぎ合い」の夢の跡は人々の記憶からも忘れられつつあります。
以下箇条書きのまとめです。
- 東岡町は奈良県大和郡山市に存在した遊郭・赤線地域
- 現在は静かな住宅地となっている
- 遊郭・赤線跡をしのばせる建物は、以前と比べて少なくなった
- 東岡町遊郭のランドマーク的妓楼は、2024年に取り壊しに
- 残りの建物も風前の灯、写真や動画に撮るなら今のうち
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