大和郡山の洞泉寺遊郭、山中楼を見学しました

洞泉寺遊郭山中楼関西地方の遊郭・赤線跡
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特別公開!他の妓楼のベールもついに

今回の公開は、あくまで山中楼のみ。何故かというと、他の3棟は腐敗・老朽化が激しすぎて危険だから。見せて見せてとお願いしても、案内役の「おっちゃん」も、危ないからダメの一点張り。

洞泉寺遊郭

他の元妓楼は、外観こそ往年の貸座敷をキープしているものの、扉から覗いてみるとこのとおり。これじゃああかんわな。

が、あまりの盛況ぶりに気を良くしたのか、我々の熱意に根負けしたか、はたまた新聞記者のおねえさんが熱心かつ美人だったからか、頑固な態度が徐々にほぐれていく様子が手に取るようにわかりました。こりゃいけるかも…と待つこと小一時間、ついに「おっちゃん」が折れることに。1階の限られたスペースだけという条件での特別公開となりました。

元妓楼の中です。仮にA楼としておきましょう。

玄関に入ると右側にあるのがこの部屋。帳場か客の待合室かもしれません。

奥はこのとおり。おそらく楼主と家族のプライベートスペースだったのでしょう。

A楼の公開はここまで。そこから奥は、床が抜けるおそれがあるので進入禁止。

お次は、B楼としておきましょう。

玄関に入ると、まだ生活の跡が色濃く残っている室内が目に入ります。

中から見える外の格子が、幻想的にすら見えてきます。

写真だけを見ると、まだ人が住めるのではないかと思います。しかし雨漏りがひどく床も腐敗して、今にも床が抜けそうな感触を覚えました。私も畳の上を歩いてると、ぬるい沼地に足を入れたかのような感触になった所があり、こりゃあかんと足を引っ込めたくらいでした。「おっちゃん」の判断は正しかったと思います。

しかし、一部の人が無断で2階3階に上がったという話も聞きました。すでに削除されてしまったのか私は未確認ですが、SNSにアップしていた人もいたそうです。正直なところ、あの人出で「おっちゃん」ひとりではUncontrollable。見るに見かねて他の方や私が少々助太刀した程でした。

(筆者註:月曜に行った人のTwitterを見ると、月曜は市の職員(?)の助太刀があったらしいです)

とは言え、ちゃんと2階以上は危ないから上がらないでとは明確に言っていたので、聞いている聞いてないという次元ではない。だったら上がっていいのか聞けばいい。

あくまで個人的雑感ですが、撮影してそれを個人的に嗜んだりするまでは良いと思います。ただ、それを許可なくネットに上げたり(結果論ですが、これも入口に張り紙するなど告知すべきだったでしょうね…)、上記のように行くなと言われている所に足を進めてしまうのはよろしくない。床が抜けて怪我したら「おっちゃん」の責任になってしまう。

翌日(月曜日)に「特別公開」があったのかは定かではありません。が、もし公開されなかったら、明らかに日曜の一部の人のマナー違反のせいです。「おっちゃん」の

「明日は絶対に開けん!!」

という激おこぷんぷん丸っぷりを間近で見ていたので。

今後のためにも、これだけは書いておきたかったことです。ルールを遵守する方がバカを見る世の中になると、じきに中華人民共和国に追いついてしまいますよ。

ちなみに1階も、最初は「ネット公開禁止」でした。が、マナー違反続出で機嫌がすこぶる悪い「おっちゃん」をなだめ、名刺を渡して野良歴史家であることとブログの主旨を説明した上で、載せていいですかと聞いたところ、

「よし、あんたやったらええ」

とOKをもらっています。ただし、自分の名前は出すなだったので、仮名の「おっちゃん」としています。

関係ない話ですが、この「おっちゃん」から興味深い情報を聞きました。

「木辻は青(線)やったんやで」

最初は耳を疑い、

じゃなくてですか?」

と聞き返したほど。「おっちゃん」はそうやとばかりに深く頷いていました。

それでも納得いかない私、

「ホンマですよね?ホンマにだったんですよね?」

思わず2回聞いてしまいました。一次資料教えてという言葉が喉から出そうになりましたが、ご機嫌な「おっちゃん」を目の前にしてそれ以上は言えませんでした。

疑っているわけではないですが、一次か一次半資料がないと納得できない病という持病を持つ私、これは今後の要調査です。

B楼最大の見物だったのは、この電話室。手持ちのiPhoneでは暗すぎて全く撮れず、近くの方のスマホのライト機能のヘルプをいただき、やっと撮影できたものです。

「電話 一三九番」

と書かれています。山中楼の鏡にも電話番号が書かれていましたが、おそらく郡山ではなく「奈良の一三九番」。電話室が明治後期~作で、権利を譲ってもらったのではなく、新設したならば、郡山、いや奈良県で139番目に電話回線を通した場所ということでファイナルアンサー。山中楼が「267号」なので、B楼の電話敷設はかなり早かったという推測が成り立ちます。

ライトを照らすとガラス上の文字が壁に映り、映える情景となりました。

で、自楼の電話室に何故こんなデカデカと番号が書かれているのか。要は客向けだったのでしょう。

今俺郡山にいる。何か用事があったら知らせてくれ

電話は何番?

番号は…ええと…(番号を見て)139番

どこの?

奈良。奈良の139

以上は、昭和11年の226事件の際、極秘に傍受・録音された陸軍軍人どうしの会話に基づいています。

国際電話すらケータイ…いたIP電話の時代では信じられないかもしれませんが、昔は市外にかける時は「電話交換手」を通してつなげてもらう方式でした。その時、当然ながらどこにつなげるのかを聞かれます。つまり電話番号を聞かれると。その時、「奈良の139番」と言うと交換手は139番のB楼につなげてくれるというシステムでした。

それも、一瞬でつながるわけではなく、大阪から東京まで所要時間は数十分~小一時間かかったそうです。1930年代、ある日本人が急用でサンフランシスコ~ワシントンの日本大使館に電話をかけた際、大陸横断なのに交換手を通しても1分かからなかった現状に、

「アメリカは電話が端から端まですぐつながる!そんな国と戦争する気か!勝てるわけない!」

と対米戦争反対にまわった海軍士官もいました。

なお、現在のように電話が日本全国すべて自動化されたのは、1979年のことだそうです。

もったいないと言うけれど

こういう建物を壊すのは忍びない、もったいない…
という声はよく聞きます。私も、個人的感情としては同意見です。しかし、現実には維持費もかかるし修復費用もハンパない。
「おっちゃん」も、周囲からの声に冗談っぽく、しかし吐き捨てるように言いました。
「ここにいる人らがひとり100万円くらい出してくれたら保存できるかもな~」
実は、現建築基準法では「木造3階建ての家」は新築不可。改築するにしても、現法律に見合った改築を行うか、「文化財」としての指定を受けたもののみ。
「山中楼」も文化財の指定を受けたり、耐震基準などをクリアすれば良いのですが、そうなると個人資産での保存はほぼ不可。つまり、現遊郭跡にわずかに残る「木の摩天楼」は消えゆく運命にあるのです。
だからこそ、今のうちに撮影しておかなければならない…せめて写真に収めておこう。気だけが焦るばかりです。

おまけ-山中楼のもう一つの見所

ここまで見ていただいた方のために、ビッグなおまけがあります。
となりの町屋物語館(旧川本楼)から山中楼を見てみると…
洞泉寺遊郭山中楼の屋根
屋根に何かがあります。
洞泉寺遊郭山中楼の屋根
アップしてみると、「山中」の文字が。その中間には山中家の家紋を擁し、山中楼ここにありを誇示しているかのようです。
屋根の部分なんて、正直なところ誰も見ません。私も最初は全く気づかず、後で仲間に教えてもらってはっと気づくほど。誰も見ないところなのに、いや、誰も見ないからこそ、その部分に贅をかける。これが粋ってものなのかなと感じた今日の探索でした。
お次の「消えた遊郭・赤線跡をゆく」は、東岡町にしようかと思っていました。が、記事を書き終えると、この流れだとやっぱり「川本楼」かなとも思ったり…難しいところです。
洞泉寺遊郭跡の記事はこちらもどうぞ!

遊里史(遊廓・赤線)の関連書籍はこちら

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