南紀にあった花街ー田辺新地
和歌山県、紀州南部紀南の地にあった花街ですが、厳密に言えば、ここは遊郭ではありません。花街は芸者が住み芸者と客が落ち合い酒を酌み交わす歓楽街。遊郭とは分けて考える必要があります。
が!

実際に行っていた行為に関しては、遊郭と明確な区別をつけるのは正直難しい
と専門家が述べているように、素人にはその線引きは難しいのです。
田辺新地は、市内に散在していた料理屋・置屋の類を大正時代に市街地西部に集約したもので、田辺市商店街HPには大正7年当時の写真が掲載されています。
今回は図書館での下調べなしで向かったので、田辺新地に関する詳細な数字や逸話はないのですが、戦前から結構賑わっていたことは明らかです。
そして戦後、田辺新地は赤線として賑わいました。ただの花街という話もありますが、昭和30年(1955)の「性病予防組合関西」という事実上の関西の赤線業者組合名簿にも田辺新地が入っているので、まあ間違いないと思われ。
売春防止法施行以降はふつうの花街になって最近まで現役だったようです。
田辺新地を歩く
さて、実際に田辺新地を歩いて見ましょう。

田辺新地の入口と思われる柱が残っていました。川が新地との境界線担っていて、昔はここに橋が架かっていたのかもしれませんが、現在は残っていないか暗渠化しています。

「新地」の文字が残る看板。こういう古い看板には、かつてここが新地だったという残滓が、さりげなく残っていたりします。


田辺新地には、現役の料亭がまだ残っています。
筆者も新地跡に残る料亭で、自腹を割いてランチを食べたことがありますが、それはそれはもう、ランチでそんな値段取るんかい!!!というお値段でした。
ただし、味はめちゃ美味かった、吉○家の牛丼が砂に感じたくらいに…

「田辺新地」の文字が残る和風の灯。
料亭は残っているものの、これがなければどこが新地なのかわからなかったほど、その界隈は寂れていました…。

上記の料亭以外では、この建物が田辺新地の賑わいを示す数少ない遺構となります。
iPhone 15 proの超望遠を使ってギリギリ全体が収まるくらいの大きさ。これは現役の頃はかなりの大店だったに違いない。

この建物の正体は、「初の家」という屋号のお店だった模様。
有料にて公開中の、田辺新地が現役赤線だった頃のお店一覧にも、この「初の家」の名前が出てきます。

すでに営業はしておらず廃屋に。玄関には「風俗営業」の鑑札が今に残っていた。「風俗営業」…京都だとこれが「お茶屋」になるのだが、言葉が生ものの過ぎて少し身震いがした。
この鑑札が残っている建物どころか、鑑札自体現存するものは少なくなったが、和歌山県はなぜか保存率が高い。

往時を偲ばせるお店の跡。「小坂」という屋号だったらしい。

住宅地にいきなり現れる、何やら意味深は看板建築もどき。ふつうの住宅の間にあるため、非常に目に入りやすかったです。
これが昔のお店だったかは、ここでは断言しません。断言するには資料が少なすぎる。
田辺新地のお話、これにて読み終わり。
有料記事ー赤線時代の店のリスト
有料範囲では、ここが赤線時代だった頃のお店の一覧をアップしています。
こういう歴史に興味がある研究者と変わり者以外は特に価値ないと思われますが、逆にいえば研究にはうってつけの資料かと思われます。
他にはない貴重な資料なので、興味がある方はどうぞ。ない方はここで引き返していただいても結構です。
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