戦後の白河遊郭
戦争で世間が女と遊んでいる場合ではないという雰囲気の中、遊郭も営業どころではなくなります。
開店休業状態だった遊郭も、戦後になり全国的に息を吹き返します。赤線の誕生です。
白河の遊郭も戦後は赤線に…と思ったのですが、こちらもお馴染み『全国女性街ガイド』にはこんなことが書かれています。
「みちのくのはじめてのこの都市は、純然たる赤線もなく本通りの右側裏に草餅屋が21軒ほど点在するだけ(以下略)」
『全国女性街ガイド』白河
あれ?向新蔵の遊郭はなくなってしもたん?あったら『全国女性街ガイド』の著者が見逃すはずがないし…。
それ以前に、「本通り」ってどこ?白河に住んでたから地理はそこそこわかるつもりだけど、白河には「本町」はあっても「本通り」なる地名は存在しません。
ちょうど良い具合に、昭和26年(1951)の商工名鑑が図書館以外の場所から見つかったので、早速見てみると…確かに向新蔵の住所の場所には「料亭」「旅館」「料理屋」が散在しているものの、元遊郭あるあるの「特殊感」はない。遊郭時代の妓楼名にも名を連ねていた「箔楼」は、「箔屋」として旅館になっているし、大正時代の地図に載っていた「えびすや」は料亭になっている。
商工名鑑を見ても、確かに遊郭は死んだと明言しても良いという具合になっています。
が、上述したとおり白河は鉄道の要衝でもあり、機関区の職員だけでも300人近くの人が働いていました。駅員なども含めた総数は、やはり1000人くらいいたのではないでしょうか。
馬市も戦前ほどの規模ではないものの、まだ行われていたため彼らの需要を満たすためにも、赤線はなくてはならない存在のはず。それがなくなり、『全国女性街ガイド』の記述を真に受けるとしたら青線として残るのみ。なんだか納得がいきませんが、間接的な資料を見るに赤線に蘇ることなく滅んだのでしょう。
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現在の遊郭跡はどうなっているのだろう?
さてお次は最新の白河遊郭跡レポート!!
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