貝塚遊郭の元赤線カフエーに突入!|おいらんだ国酔夢譚番外編|

関西地方の遊郭・赤線跡
スポンサーリンク

貝塚遊郭略史

かつて、全国には遊郭が何百ヶ所も存在していました。あんなところやこんなところ、今はもちろん普通の住宅街になっているところが多いですが、大阪にも例に漏れず10ヶ所1の遊郭が存在していました。


大阪府貝塚市

関西空港からそう遠くない場所にある、水間観音への玄関口。そしてかつて紡績とタオル製造で栄えた町です。

今では静かな地方の町ですが、ここには江戸時代から遊郭が存在していました。明治末~大正初期には現在の場所へ移転し、昭和の最盛期には娼妓数300名を数えた中規模遊郭でした。が、昭和20年7月の堺・和歌山空襲の「流れ焼夷弾」が偶々たまたまピンポイントで遊郭を直撃し、半分が焼けてしまいます。

戦後は赤線(カフエー街)として再出発しました。

貝塚遊郭赤線空撮

(『貝塚市勢要覧 昭和二十九年』より。真ん中の広い道が、貝塚赤線の目抜き通り)

昭和30年(1955)の資料によると、「貝塚新地組合」に所属するお店の数は41件、昭和33年(1958)売春防止法施行により廃止となるまで赤い灯を絶やすことはありませんでした。

貝塚遊郭赤線1
貝塚遊郭赤線2
貝塚遊郭赤線1

それから60余年が過ぎましたが、その面影はまだわずかに残っています。

これ以上貝塚の遊郭・赤線の歴史を詳しく書き出すと全く本題に入れそうにないので、続きはこちらを見ていただければと思います。

遊郭・赤線跡の建物は、元が元の使われ方ということもあり「穢れ」と見なされ、放置されたまま朽ち果て壊される運命にあるのですが、たまぁ~~に保存されたりリノベーションされることもあります。

また、実はほんの最近まで「現役」だった京都の五条楽園も、インバウンドの流れに乗り外国人旅行者のための宿に生まれ変わったところもあります。これは赤線の建物が「宿泊」に向いているつくりもあり、慢性的な宿不足対策としても上手いリボーン(Reborn)だと思うのですが如何。

そして元貝塚遊郭にも一件、元赤線の建物がカフェとして再利用されることになりました。ここは元とは言え私の縄張り区域にある遊郭・赤線跡の建物の再利用、これは行くっきゃない。

しかし、ちょっと「訳あり」なこのカフェ。何が訳ありかというと、続きをどうぞ。

南海貝塚駅前

朝早くに着きましたは南海本線の貝塚駅。

いささか早く着きすぎたか、駅前はまだ眠りから覚めず、また覚める気配もない様子。静かなること深夜の如しでした。

貝塚遊郭赤線跡

遊郭・赤線跡のメインロードも、まだお目覚めにあらず。ここがかつて色街だった頃、ここが大通りで道の左右には大店が軒を並べ、ピンク色の甘い声が絶えることがなかったと言います。今では到底想像すらできませんが。

お目当ての目標までたどり着いても、案の定まだ開いていない模様。いくら朝早いといっても、モーニングをやっているくらいだからこのくらいの時間に開いているだろう…と思った私の誤算でした。

出直すか…と引き返そうと思ったその時、店の前に車が止まり、スタッフさんかと思って声をかけたらビンゴ。何時オープンですかと聞いてみると、非常に愛想の良い、私と違い人当たりも良さそうな男性いわく、

9時半からです

このとき、まだ時計は8時10分くらいを指していました。あと1時間20分、どこでどう時間をつぶせば良いのか。せっかく琵琶湖方面から来たんや、今日は特別に1時間20分早よ開けろ!!

…というわけにもいかず、仕方なしにどこかで時間をつぶすことになりました。

そして1時間半の時間が過ぎ、もうええやろと見参!

NEXT:さて、噂のカフェとは?
  1. 昭和10年(1935)当時。
スポンサーリンク
error:Content is protected !!
タイトルとURLをコピーしました