日本では、立身出世の象徴として

豊臣秀吉がすぐに思いつきます。
幼少期がボカされ不明な部分も多いのですが(たぶん農民出身でしょう)、そんなものは秀吉だけではありません。当時の戦国大名はみな、3代さかのぼれば経歴が怪しい人ばかり。狸親父も暴れん坊将軍も、先祖を辿れば住所不定職業不詳のルンペ…おっと、徳|||美術館から抗議のメールが来たようだ。
「部下として仕えるなら、信長・秀吉・家康の誰がいいか」
昔からよく言われることですが、私は「天下を取るまでの羽柴秀吉」一択。統一後は越の范蠡よろしく海外へ船出し、高砂国と貿易しようかしら。

○○王に、俺はなる!
実は近代史にも、「ペーペーからトップ」になった人物がいます。それが今回取り上げる、

渡辺錠太郎陸軍大将(1874-1936)です。
渡辺錠太郎と聞くと、「二・二六事件で殺された人」で名前を覚えている人は多いのではないでしょうか。

また、『置かれた場所で咲きなさい』『幸せはあなたの心が決める』の作者である、渡辺和子さん(元ノートルダム清心女子大学理事長。故人)の父として知っている人もいるでしょう。
しかし、二・二六事件で殺されたという知識の枠から出ることができず、あまり知られていないのですが、渡辺錠太郎は、陸軍、軍人という枠をはみ出した「すごい人」なのです。
が、それゆえ「身内に殺された」と言っても過言ではない。
今日は、そんな帝国軍人の異端児の物語。
渡辺錠太郎とは
渡辺は明治7年(1874)愛知県出身。商店主の長男として生まれ、19歳で渡辺家の養子となります。向学心があったものの、実家の経済的状況がそれを許されず、小学校も中退でした。
戦前の日本は貧富の差が激しい社会であったことは事実ですが、国はもちろんそれをわきまえていました。進学したい…でも経済的に不可能な場合、国は彼らのための受け皿を用意していました。
一つは「師範学校」。
師範学校は衣食住学費完全無料の学校で、卒業後は一定期間教師に就くという条件付きですが、ハイレベルな教育を受けることができました。さらに上級の「高等師範学校」(もちろん学費は無料)を卒業すれば、世間の見る目は東大卒、いや教育界ではそれ以上。
もう一つの道が、軍隊に入ること。

ひとの嫌がる軍隊に、志願で入る馬鹿もいる
こんなじゃれ歌がありますが、軍隊は徴兵制の他にも、、志願で入るという手もあります。軍隊なので月月火水木金金ですが、特殊技能を身につけ除隊後に実社会に活かす手もありました。今の自衛隊も、それ目当てで入る人はけっこう多い。
入学するだけで超エリートの陸軍士官学校も海軍兵学校も、進学したいけど家にカネがないから仕方なく…という人も多々いたのが現実でした。
渡辺は「看護卒」と呼ばれていた看護兵に志願しました。当然、虫けら以下からスタートです。
なぜ看護兵を志願したか。
当時は看護兵から上等看護長という階級に昇進すると、医師免許がもらえる制度がありました。途中で廃止になったと思いますが、これも向学心が強い人材の受け皿の一つであると思います。
渡辺は睡眠時間を惜しんで猛勉強していましたが、その姿を上官がしっかり見ていました。上官は士官学校への受験を勧め、明治27年(1894)に合格します(その2年後卒業)。
さらに勉強を重ねた渡辺は陸軍大学校に入学、「恩賜の軍刀組」という首席で卒業します。
こうなると、よほどの不祥事を起こさない限り出世街道は約束されたようなもの。小学校すら出ていない人間がついに大将にまで上り、「陸軍の三長官」と呼ばれるトップの一つ、教育総監に就任します。
渡辺は何故殺されたのか
昭和初期、陸軍は「皇道派」と、それに反する「統制派」(研究者によっては「幕僚派」「反皇道派」という人もおり、「統制派」なんてグループはなかったと主張する人もいます)の対立がありましたが、渡辺はそれと一線を画し、無派閥の一匹狼を貫きました。
そんな一匹狼が、なぜ身内に撃たれたのか。
殺した側の論理は、
「あいつは危険思想の持ち主だから」
だそうですが、何が危険思想なのか。
渡辺は、軍人らしからぬリベラルで視野の広い思考でした。知識が偏りがちの軍隊では、これが彼の大きな武器でした。
その土台は、給料の半分が書籍代に消えていたという旺盛な読書量。

「軍人らしからぬ軍人」と言えば、俗に言う「相沢事件」で皇道派将校に惨殺された、上の写真の永田鉄山(少将)が有名です。
が、永田は社会科学系に対し、渡辺は人文科学系に精通し哲学や文学などを好んだといいます。
昭和初期に問題になっていた「天皇機関説」も、渡辺はその通りだと一定の理解を示しました。
が、天皇は神だと信じて疑わない陸軍軍人、特に若い連中にとっては、天皇は国家の一部である
と言ってのける軍人は、それだけで危険思想の持ち主であり、「君側の奸」として命を狙われる対象に。危険思想の持ち主に「危険思想」をみなされる危うさがここにあります。
皇道派の中心人物荒木貞夫元大将は、彼が殺害された原因はこれだと戦後に回想しています。
青年将校たちは、若い上に軍隊内で純粋培養された上に信念が強すぎたあまり、視野が非常に狭くなっていました。視野が広いと視野が狭い人間には見えない何かが見えるといいますが、彼らにはそれが見えなかったのです。

軍人にしてはあまりに常識的やったから殺されたんや
渡辺が惨殺された理由を私なりに一言でまとめると、こうなります。
決起将校たちの怒りは、渡辺の殺され方にもあらわれています。自宅に土足で上がり込まれた上に機関銃で蜂の巣。それも幼い娘の目の前で。
部屋中に血と肉片が飛び散っていたと、眼の前で父を一塊の肉片にされた娘は生前述べていました。
ちなみに、殺害現場(自宅)は2008年まで現存していました。歴史を変えた事件の現場でもあったので、保存の声も大きかったものの、最後は壊されることに。
渡辺家の希望もあったかもしれませんが、あまりに歴史を大切にしない姿勢に、ため息しか出ません。なぜ移転を検討しなかったのか。同じく事件で暗殺された高橋是清邸は、移転の上保存されているのに。

解体前の渡辺邸の様子はこちらをどうぞ


『アサヒグラフ』昭和11年臨時増刊『ニ・ニ六事件』に掲載されていた、渡辺大将の葬儀の様子です。当時9歳だった和子の姿も写っています。

さて、もしも渡辺が事件で殺されなかったら?
大胆な歴史のIFに挑みます!