札幌すすきの 地名の由来を探偵する

札幌すすきのの地名の由来歴史探偵千夜一夜
夜の札幌すすきの

北海道、いや、東京以北では名実ともに最大の歓楽街だろう札幌のすすきの。「すすきの」という名前を聞くだけで心が小躍りしそうな脈動感に苛まれる人も少なくないと思います。
先月に念願の初北海道上陸を果たした私ですが、もし酒豪だったら、いや下戸じゃなかったらここで飲み明かすぞ~と財布のひもがgdgdに緩んだことでしょう。酒が飲めないので余計な金が飛ばず幸と出たのか、せっかくすすきのまで来て酒を一滴も飲まず全く遊ばないのはもったいない不幸と出たのか…。
ちなみに、「すすきの」や「ススキノ」と表記されることが多いここ、漢字では「薄野」と書きます。ひらがなやカタカナ表記の方が馴染みがあるで、漢字なんてあったんやと驚く人も多いかもしれません。

それはさておき、このすすきのの歴史は、明治初期にさかのぼります。
明治初期の北海道開拓は、開拓というと聞こえはいいが自然という敵を相手にした戦争。人間なら「話せばわかる」と情が通じて命が助かることもなきにしもあらずですが、自然はそんなの関係ね~と容赦してくれません。
それだけに定住者も少なく、ひと稼ぎして北海道を離れる者、あまりに過酷な環境で逃げ出す者が多発。しかも現地には娯楽も何もなく、それだけに「戦場」で婦女暴行など乱暴狼藉を働く輩が多くなり、治安も悪化しました。
そこで、北海道庁の前身である開拓使があることを思いつきます。

そうだ遊郭を作ろう!!

岩村通俊

言い出しっぺは開拓使の役人だった岩村通俊という人物。札幌はもちろん旭川などの都市を作り上げたキレキレの内務官僚。北海道史を語るには外せない人です。
遊郭という遊び場をつくれば逃亡者への足止めとなり、「戦場」ゆえの婦女暴行も減るはず。しかも遊郭の売り上げで税金ががっぽり入る…一石二鳥どころか三鳥くらいのアイデア。

さっそく開拓使が先頭に立ち市街地の南の端の原野を開拓し、明治4年(1871)に遊郭ができました。すすきのの歴史は、この遊郭から始まったのです。

遊郭としてのすすきの(薄野遊郭)については、こちらのブログをご覧ください。

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「すすきの」の由来をめぐる説

筆者
筆者

せっかく北海道まで来たんやから、そこまで遊郭を追わんでええやろ

もっと観光しようや

という中から湧き上がる声を必死に打ち消しながら札幌の遊郭史を調べていくと、必ずぶつかるある謎があります。それは…

この地がなぜ「薄野(すすきの)」という地名になったのか。
北海道には、「サッポロ」がそれであるようにアイヌ語起源の地名が多いですが、「すすきの」はアイヌ語ではなく明治以降につけられたもの。

これには二つの伝説が現代に伝わっています。

一つは、ここ一帯にススキが生えていたから。今でこそ北海道が誇る北日本一の繁華街ですが、開拓当時は子供の背丈くらいはあるススキが生えた原野で、そこらじゅうキタキツネの巣だらけで野生のキツネつかみたい放題の原野。巣穴からキツネの子どもをテイクアウトし、

開拓民
開拓民

なんだよ、キツネってコンコンと鳴かないじゃないかw

と笑いあったという逸話が残っているほどの土地でした。しかし、キツネつかみたい放題ってエキノコックスは大丈夫だったのだろうか。

もう一つの説はというと。
遊郭建設の言い出しっぺ岩村は、設営の現場指揮を部下のある人物に任せました。彼の名はうす井龍之
その彼が遊郭の造成指揮を執った際、彼の一文字の「薄」をつけ「すすき野」となった説

「すすきの」をめぐる二つの語源、地元でいくつもの歴史書や地元民の回想に目を通しましたが、資料によって「ススキ」説「薄井」説が真っ二つ。確かなのは、1871年(明治4)7月に建設中の遊郭予定地が「薄野」と名付けられたこと。

「薄井説」については、こんな話が残っています。
遊郭完成後に、開拓使の測量主任だった藤井某という人物が岩村にクレームをつけます。

藤井
藤井

地名に人の名前つけるなんてずるい!!

すすきのが人名・・ということが気に食わないというのです。
岩村も藤井の抗議に手を焼いたのか、

岩村
岩村

わかったわかった!お前の名前も町名につけてええわ!

その結果、「藤井町」という町名ができたと。これも真偽不明の札幌都市伝説ですが、藤井町は確かに大昔に実在したので信憑性のある話です。

薄野の組合が編さんした『薄野発展史』ではこのエピソードを根拠に「薄井説」をとっており、すすきの観光協会も「薄井説」。また、札幌市の広報は行政だからか平等に「ススキ説」も紹介しているものの、上記の藤井噺も含めた「薄井説」の方に文字数を割いており、間接的な「薄井説」支持を匂わせています。

個人的感触ながら、これは「薄井説」が優勢。「薄井説」でほぼ決まりか!?
と思いきや、地元でこんな話を拾ってきました。ネットではほとんど言及されていない説です。

「夫レカラ薄野ト申シマス名デスガ 彼レモ別ニオ上カラ付ケタト申ス名前デハ有リマセンデ オ上ミデハ矢ッ張リ前ニ申シ上ケマシタ通リ福島通リデ御座イマシタガ 其時分営繕所ナドノ土方衆が朝歸リマス時分ニ両側カラ一盃いっぱいすすきガ茂ッテ居リマシテ 眞中ニ細イ道ガアリマシテモ少シモ見ヘマセンデシテ 其萱ハ朝露デ悉皆濡レテ居ルノデ 歸リマスニハ土方衆ハ皆ンナ丸裸デ頭ノ上ヘ衣物ヲ縛リ付ケテ衣物ノ濡レナイ様ニ致シ 今ノ一條通リ元トノ渡島通マデ参リマスト道モ幾分カ廣クナッテ居リマシテ 衣物ノ濡ル様ナコトモアリマセンデ 彼ノ辺デ皆ンナ衣物ヲ着テ歸ルト云フコトニナッテ居リマシタ 彼様ニ萱ガ大変ニ繫ッテ居ッタモノデスカラ 誰レ申トナク薄キ野薄キ野ト申シマシテ 土方衆ノ話ニモ一寸シテモ薄キ野ヘ行フト彼様ニ申シマスノデ 何時トナク今ノ様ニ薄キ野ト云フ様ニナッタノデゴ座イマス 夫レデスカラ薄キ野ト云フ名ハ土方衆ガ付ケタ名デス」

『札幌昔話』:引用は「すすきの」という地名の由来についてというブログより

口語ながらカナ混じりでめっちゃ読みにくいのですが(口述筆記なので音読すると頭に入りやすい)、まとめると「すすきの」の由来はお上がつけたとかそんなのではなく、(遊郭造営に携わっていた)労働者たちが、この地にススキがめちゃ生えてるから誰となく「ススキ野」と言い出した自然発生的なものだと。
開拓がはじまった明治初期に入植した札幌市民第一期生的古老から、3~40年後に聞き取りしたオーラルヒストリー(歴史研究のために当事者や関係者から直接話を聞き、記録としてまとめること)ですが、なるほど「ススキ説」支持者にはかなり重要な証言。
オーラルヒストリーは本人の記憶違いや思い込みなどが混ざりやすく、時には故意に嘘をつく人もいるので、そのまま信じると壮大に自爆する可能性があります。なのでこれも鵜呑みは禁物ですが、少なくてもススキがめちゃ生えていたことは、他の資料と照らし合わせても間違いはない。

イメージ画像

北の原野の一面に生えるススキを目の前にして、みんな自然にここを「ススキ野」と言い始め、それが地名になった…説得力があります。

しかし、たかが一地名の由来にしても、ここまで真っ二つなのは珍しいかもしれません。

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