『ルンペン節』の時代背景
大正3年(1914年)、ヨーロッパで第一次世界大戦が勃発しましたが、戦場となったヨーロッパ向けの輸出が伸び、戦場ではない日本に受注が殺到。
日露戦争後の「大戦恐慌」で伸び悩んでいた日本は一転好景気。「戦争は儲かる」と言いますが、第一次大戦が日本経済の良いカンフル剤となりました。
「成金」という言葉が生まれたのもこの頃です。
上の有名な絵の紳士が燃やしているのは100円札ですが、今ならざっくり20~30万円の価値があります。そんな大金を、トイレットペーパーにもならねーやとばかりに燃やすほど儲かっていたというところが、この絵のミソなのです。
第一次大戦を通し、火事場泥棒のように儲けに儲けたのが日本とアメリカですが、第一次大戦が終わっても好景気は続き、「大正バブル」と称される投機やインフレが起こりました。
人間というのは愚かなもので、好調の時は「この勢いは永遠に続くもの」と思ってしまう、クセのような思考パターンが存在します。1980年代のバブルもそうでしたが、この「大正バブル」も同じでした。
短期間で膨れ上がったバブルは、1920年の生糸の相場の暴落であえなくはじけ、さらに1923年の関東大震災が追い打ちをかけました。
震災による復興で少しは持ち直すかと思いきや、内需が冷え切ったままで大した効果はなく、不景気の重苦しい雰囲気を背負ったまま、昭和に入ることとなりました。
昭和という時代は、日本全体がドヨォ~~ンとした、光が全く見えない暗闇の中から始まったのです。
昭和の恐慌-不況の泥沼へ
そんな不景気真っ只中の日本経済に、追い打ちをかける出来事がやってきます。
一つは、昭和2年(1927)の金融恐慌。
昭和元年は6日しかなかったので、この2年が実質的な「昭和元年」なのですが、
元号が変わった、みんな元気になるんだ!
と政府が発破をかけても、経済好転の兆しは全く見られません。
銀行も慢性化した不景気で軒並み経営が悪化したのですが、昭和2年の3月の衆院予算委員会で第一次若槻礼次郎内閣の大蔵大臣が、
東京渡辺銀行がとうとう破綻を致しました
と発言。実際には破綻していないのですが、この失言をきっかけに不安を煽られた民衆は、自分の預金を下ろそうと銀行に殺到、「取り付け騒ぎ」が起こりました。
それがドミノ倒しのように全国に拡散、その影響で、第一次大戦時に天才的な投機で大財閥に匹敵する規模となった、神戸の「鈴木商店」が経営破綻。そこに投資していた台湾銀行もあわや破綻の騒ぎとなり、火に油を注ぐ騒動に。
これは、次の田中義一内閣の蔵相高橋是清が対策を打ち、なんとか収拾しました。
破綻の危機を消火し、景気も持ち直したかに思えたのもつかの間、海の向こうから新たな火種の黒船が到来することに。
昭和4年(1929)10月24日木曜日、ニューヨークの株価が大暴落した「暗黒の木曜日」をきっかけに、それが世界中に波及しました。これを「世界恐慌」といい、日本では先の金融恐慌とあわせて「昭和恐慌」と呼ばれています。
輸出をアメリカに頼っていた上に、翌年に浜口雄幸内閣が強行した金解禁で、この恐慌の大波をまともにかぶってしまいます。そして、日本経済は空すら見えない深い谷の底に落とされてしまいました。
昭和5~6年が、昭和初期、いや日本経済史のどん底とも言える時期でした。
公務員の給料は10%減。そうなると公務員の利用が多かったタクシーの利用者が減り、運ちゃんが悲鳴をあげる。タクシー料金は「円タク」と言って1円均一だったのですが、客がいないので「半円(50銭)」、果ては25銭と4分の1にまで値下げする。
この昭和5~6年で、全体の物価が平均10%も下落し、株価も-30%、経済成長率も-9%と目も当てられない状態に。超氷河期なんて次元ではありません。
農作物の価格も下がったため、「キャベツ30個でやっとタバコ1箱が買える値段」にまで暴落。農村では餓死者が出たり、娘の身売りが横行することとなりました。
しかも、東北ではここから5年間の地獄を見ることとなりました。
特に太平洋側は、昭和8年(1933)の地震&大津波、昭和9~10年の、「8月なのに雪が降った」と伝えられている超冷害で太平洋側の農作物が全滅。「日本史最後の飢饉」と言わしめた惨状を生み出しました1。
エログロナンセンス
この不景気の世の中を代表する言葉と言えば、「エログロナンセンス」。どこかで聞いたことがあるかと思います。
エロ=Erotic=官能的(現在の「エロい」とは違い、「セクシー」という感じか)
グロ=Grotesque=猟奇的(現在の「グロい」とはまた違う)
ナンセンス=Nonsense=ろくでもない
先が見えない不景気で自分が明日どうなるかわからない。そんな閉塞感漂う混沌の闇から生まれた、艶かしくも奇々怪々な刹那的世界、それがエログロナンセンス。
この言葉は昭和4~5年頃に流行った言葉ですが、ルンペンが流行語の西の横綱なら、エログロナンセンスは東の横綱。不景気という黒く厚い雲が空を覆った時代が生んだ、双子の流行語と言えます。
「エログロナンセンス」のうち、「エロ」の代表として大正末期から増え始めたのが、「カフェー(またはカフヱー)」と呼ばれる飲食店。
喫茶店の「カフェ」ではありません、「カフェー」です。両者は語尾に棒線を一つ増やしただけの違いだけやんと認識しがちですが、全く違う存在として認識しなければなりません。
カフェーはそもそも、コーヒーを出す「カフェ」はもちろん、麦酒を出す「ビアホール」、料理を出す「レストラン」、そしてアルコール中心の「バー」、飲み食いより女給さんとの触れ合いメインの「キャバレー」の総称でした。それが大正初期から昭和初期にかけ徐々に分裂していくことになるのですが、「カフェー史」を勉強しないと、これらが混同してメチャクチャになります。
エログロナンセンス文化的な「カフェー」は、やはり女給さんが接待するあれ。
大阪のとあるカフェーが、客集めの「オプション」としてエロい接客サービスを始めたのがきっかけですが、これが客に大受け。エロサービスが一気に全国に広まることになりました。2階にある「日本間」ですごい「オプションサービス」もあったカフェーもあったのですが、ここまで来るとほぼ売春宿です。
こうして昭和初期には、「カフェー」は「エロ」の代名詞として大流行。赤い灯青い灯をともす派手なネオンは、上は文豪から下は大学生まで、男どもを引き寄せる灯台となっていきました。カフェーは都会だけでなく、地方都市や田舎、果ては台湾や朝鮮など外地にまで波及し、「日本同時多発エロ」というべき社会現象となりました。
そしてこれが、既存の遊郭や花街をオワコン化させる起爆剤となりました。
缶コーヒーBOSSの「宇宙人ジョーンズ」シリーズに、こんなCMがありました。
メイドカフェ編ですが、メイドが客のジョーンズの横について、「あーん」しています。
実は、これがカフェーです。
私に言わせれば、メイドカフェは21世紀に甦ったカフェー。もし「裏メニュー」にお触りや胸チラ(?)などがあれば、昭和初期のエログロナンセンスカフェー完全復活です。
メイドカフェは、「飲食店」で営業許可を取ってるはず。「飲食店」は法律を文字通り解釈すると、「あーん」どころか客との私語すらアウト。「風俗営業店」の許可を取っていれば話は別ですが…。
おおっぴらにこんなことしてたら警察の指導が入るやろな~と思っていたら、やはり入ったようです。よって、今はこんなことできないはず知らんけど。
「オカマ」の爆誕
この時期、「エロ」と「グロ」の中間のようなものが流行しました。それが「オカマ」。
オカマ自体は昔からおり、明治時代には荒木繁子という「美人」がいたという記録もあります。大正時代にも、東京の上野公園にはオカマがたむろし、上野を逆読みした「ノガミ」は男娼の隠語でした。
ただ、エログロナンセンスの暗雲の中、オカマが裏の世界から表に出てきたのがこの時代。
こんな文章があります。
変態性慾者は、俗にオカマと称する男性である。
『今宮釜ヶ崎の特異性』(塩井文夫 昭和12年)
彼は男性であり乍ら先天的に或は後天的に、女性的心理を有し、立居振舞、言語等全く女型で中には全然女の服装容色を造るものもあり、勿論専ら本能的に同性にのみ愛着を覚えるものであって、更に又一定の夫を持って据養(すゑやしな)ひをしたり、所謂売淫行為を事として暮すと云ふ洵(まこと)に厄介な存在である。
「変態性欲者」とお硬い表現を使っていますが、「俗にオカマ」と書いているとおりオカマのこと。この時にはすでに「オカマ」が世間に定着していたことがわかります。
新今宮周辺の「釜ヶ崎」、のちの「あいりん地区」は労働者の町として知られていますが、その昔の顔は「男娼の町」。戦前戦後を通して男娼が春を売っていたのです。一説によれば、「オカマ」の語源はここ釜ヶ崎という話もあるんだとか。
詳細は下のブログ記事をどうぞ。
そして、エログロナンセンスを代表するもう一つのものが、プロレタリア文学。社会主義や共産主義の思想が入った左翼文学です。これをエログロナンセンスと定義するのはちょっと抵抗があるのですが、荒俣宏氏はプロレタリア文学も時代が生んだエログロナンセンスだと定義しています。
小林多喜二の『蟹工船』が発表されたのが昭和4年(1929)のことですが、それと同時期にヒットしたのが『マルクス・エンゲルス全集』。「円本」と呼ばれた定価1円の本の一種でしたが、これが飛ぶように売れる始末。
直近も、2008年のリーマンショックによる不況の際に『蟹工船』が再ブームになったことがありましたが、不況の閉塞感滲む時代にはこういった文学が売れるそうです。
なお、戦前の「プロ」は「プロフェッショナル」のことではなく「プロレタリアート」のこと。その対義語は「ブル」(ブルジョア)です。
『ルンペン節』はナンセンス歌謡
残りの「ナンセンス」、これは何か。これこそが『ルンペン節』だと私は考察しています。
『ルンペン節』の底抜けの明るさは、実は底抜けの不景気の裏返し。もう全く光が見えなくなると、 反作用でケ・セラ・セラ的な空元気さ、根拠なき楽天さが出てくるのでしょう。そうでもないとやってられねーという、民衆の悲鳴なのかもしれません。
これを「ナンセンス歌謡曲」と呼んでよいのではないでしょうか。
これは持論ですが、このナンセンス歌謡曲の血を引いた二つのバンドがあります。それは「サザンオールスターズ」と「米米CLUB」。
この二つ、アルバムで時々かなり狂れた曲を作ることがありますが、一見クレージーでも世相をぶった切っていたり、エログロのかなり際どいところを攻めていたりと、聞いててもなかなか面白い。米米CLUBは服装の奇抜さでも目を引きますが、あれも見方を替えれば昭和初期の「グロ」ではないかと。
ああ、昭和初期のエログロナンセンスってこんな感じなんだろうなーと、サザンと米米の一部の曲を聴いて感じることがあります。
After『ルンペン節』
『ルンペン節』が発表された翌月、日本を揺るがす事件が「海外」で起こります。それが満州事変でした。
満州事変は、「新聞で事件を知った」昭和天皇がいったんストップをかけたのですが、マスコミも民衆も、鬱憤を晴らすようにやれやれとお祭り騒ぎ。関東軍も、陸軍中央の黙認や「国民の支持」を盾にどんどん調子に乗る。
満州事変は、関東軍が暴走して言うこと聞かなかったんですよ~という歴史的評価で落ち着いています。それはそれで事実ですが、彼らが調子に乗れた背景には国民の熱狂的支持があったことを、我々は決して忘れてはいけません。
なぜ民衆が両手を挙げて支持したかというと、日本を覆っていた不景気というどす黒い雲に、満州事変が穴を開け、そこから光が見えてきたから。この窒息寸前の閉塞感が、この事変をきっかけに打破できるのではないか。民衆はそう感じたのです。
事実、満州事変による軍事特需や、犬養毅内閣の蔵相高橋是清による金融・経済対策、黒田砲ならぬ高橋砲で、日本はデフレからインフレへ針の方向が変わり、世界恐慌から世界でいちばん早く抜けることとなりました。そこから昭和9年~12年の好景気につながります。
学校の教科書的な歴史物語では、昭和は大不況の暗い時代のまま戦争が始まった…ということになっていますが、言ってしまえばそれは嘘。数字だけなら1980年代のバブルをしのぐまばゆい光が、戦前にあったのです。ただ、それは東京や大阪など局地的だった、かつ都市部の好景気が地方に広まる前に陸軍が急ブレーキをかけ、全国には浸透しなかったことは否めないですけどね。
しかし、その光によって日本に蔓延していたエログロナンセンスはニフラムされ…もとい消え、一世を風靡したプロレタリア文学は、古本屋の棚の上で埃をかぶることとなりました。「昭和景気」は昭和初期の日本が放った、最後の大花火大会でもありました。
ただし、花火大会の「開催期間」があまりに局地的かつ短命だったため、気づかない人は気づかなかった…それが「昭和景気」だったのです。
「昭和景気」の話は、また機会があれば。
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