遊郭と性病
遊郭…かつての合法的な売春街…と言ってしまえば男の天国、無味乾燥な性欲の掃きだめですが、遊郭には実は様々な役割がありました。
一つは「犯罪者ホイホイ」。男というものは、大金を手にしたり、犯罪のような大きなことをすると、何故か女のぬくもりが恋しくなる変な習性があるそうです。「大きなこと」をすると母親の懐(母胎)に戻りたくなるのでしょうか。
ウソ!?と思われるかもしれませんが、江戸時代の吉原遊郭の設立理由の一つにそれが挙げられているし、戦前のベテラン女郎や遣り手、娼婦はそういう人間、犯罪者やヤクザなどを嗅ぎ分ける独特の嗅覚を持っていました。
一発ヤってぐったりしている男の耳元で、女がささやきます。
ちょっと失礼…ウフフ
そのままトイレヘ…行くふりをして遣り手か1階の楼主に報告、臨検という名目で警察が踏み込み男は御用。廃娼論が湧き上がっても遊郭が成立していたのと、私娼窟が「性病検査だけちゃんと受けてや」という条件で黙認だったのも、「ゴキブリホイホイ」の効用を警察が認めていたからでしょう。
もう一つは性病予防。
梅毒に淋病、軟性下疳…今でこそ初期段階なら注射一本で治ってしまう性病ですが、抗生物質などない戦前までは不治の病でした。近代日本の国民病と言えば結核を思い浮かべる人が多いですが、正しくは梅毒・脚気と併せて「日本三大国民病」。その一角を担う(?)梅毒は、まさにThe king of 性病の一つとして不動の地位を築いていました。
性の牙城遊郭は、常識的に考えたら性病がいちばん伝染しやすいところ。それは想像に難くないですが、そんなこと百も承知の分、遊女は週に1回の公費による性病検査があり、彼女らの義務でもありました。当然、拒否ると罰則です。
昔の日本で売春が出来たのは、何も遊郭だけではありません。大袈裟でもなく「ありとあらゆる場所」で売春が行われ、うどん屋・牛乳屋が実は…という例もありました。福島県福島市では、「市内の芸者で売春していない者はいない」と市の公式資料が述べている始末で、元手も技能も要らない女の個人事業としては、売春がいちばん手っ取り早かった現実がそこにありました。
しかし、そこで怖いのが性病。昭和の初めあたりのデータですが、性病所有率は芸者が15~6%に対し私娼が10%。「芸は売っても体は売らない」の芸者の性病率が高いのは笑うに笑えないのですが、それに対し遊郭の娼妓の所有率はわずか2~3%1。性病を持った娼妓は容赦なく隔離&職務停止されるので、2~3%でも遊郭基準では高い方ですが、いちばん危ないところが実はいちばん安全…という言葉にふさわしい。
大阪の駆梅院
話は変わって江戸時代、大坂の色町といえば新町が代名詞でしたが、そのほかにも各地に大小の遊里が散在していました。生國魂神社の近く、ラブホが固まる何やら妖しい某区画もそうだったと言われています。
それが明治初期に一箇所に集結統合され、郊外に追いやられます。それが明治4年(1871)のこと。場所は松ヶ鼻。かの松島遊廓の始まりです。
(『松島新地誌』より)
その翌年、その松島に「駆梅院」という施設の稼働が開始されました。本当は「驅黴院」と書くのですが、ここは現代当用漢字で「梅」に統一します。
「梅」とは梅毒のことで、「駆梅院」とは性病専門病院のこと。松島遊廓のグランドオープンはその翌年の明治6年なので、その前にまず病院を作る…当局も性病の蔓延にはかなり神経質になっていたことがわかります。
駆梅院は松島の端っこ、今の大阪市立西屋内プールあたりにありました。
しかしすぐにキャバオーバーになったか、明治16年(1883)に難波へ移転し再オープンします。のちに「大阪駆梅病院」(明治22年)、「府立難波病院」(明治33年)と改称されていったのですが、しばらくは「駆梅院」と呼ばれていたらしく、府立難波病院になった後の明治38年(1905)の大阪府の資料にも、「大阪府立駆黴病院」との記載があります。
(大阪市街全圖(1916年)より)
難波に移転した後の難波病院は、大阪府下の遊郭の遊女の総合病院として、性病その他に罹った娼妓たちの入院先となりました。おそらく性病検査や、今で言う健康診断もここで行われていました。
難波病院が何故いわく付きか。それは、ここがあくまで遊郭ではたらく女性のための性病専用病院であり、一般の患者様お断りだったということ。性質上、かなり特殊な病院だったのです。
複数の地図や資料を参考にした難波病院の敷地を、現在のGoogle mapに落とし込んでみました。現在のヤマダ電機LABI1なんば店の西側、阪神高速を隔てたところ周辺にありました。また、資料によってはもう少し北、現在の難波中公園までが難波病院のエリアだったと主張する人もいます。
難波病院の実情
難波病院の中、その実情はどうだったのか。
娼妓専用の病院という、誰でも入れるわけではない特殊性からあまり伝わってこないですが、いくつかの資料に断片的に書かれています。
大正時代の本に難波病院について一章が割かれていますが、の中に、
『この病院を参観した者は、庭園の中央に鉄錠を固く下した古井戸を見るであろう』
引用:『紅灯ロマンス』(原文は旧漢字旧仮名遣い)
という記述があります。難波病院には学校の中庭のような「庭園」があり、そこになにやら訳ありの『封じられた井戸』があったそうです。
そしてもう一つ。
『又各寮付属の便所数ヶ所の内一ヶ所或は二ヶ所に釘付けになって出入を禁じてある便所を見るであろう』
引用:『紅灯ロマンス』(原文は旧漢字旧仮名遣い)
便所には「開かずのトイレ」まであるという、なんとも怖いお話です。『紅灯ロマンス』に書かれた難波病院の話は幽霊話、井戸に飛び込んだり、便所で首を吊ったりする遊女がいて怪談話には事欠かない…というのが話の趣旨なのですが…
上述の『大阪市パノラマ地図』の難波病院を限界にまで拡大すると、吹き抜けになっている中庭があったことがわかります。『封じられた井戸』はここにあったのでしょう。
さらに、『松島遊廓の研究』(木村俊秀)という松島遊廓研究者のコラムの中に、一章を割いて難波病院の様子が書かれています2。
それによると、難波病院は七棟、43部屋あり部屋の広さは30~35畳、そこに2~30名の入院患者が寝泊まりするとのこと。一人あたりのスペースは1畳ちょっと…プライベートなんかありゃしません。
3食賄いで1日20銭、朝は味噌汁と漬物、昼夜は煮物などでしたが、味は不味かったんだとか。うどん一杯3銭の時の20銭は、日当たりとは言えけっこう高い。それで不味いとなると、もしSNSがあったらこのブラック病院めと炎上不可避。
ご飯は当時「南京米」と呼ばれたインディカ米。時代的に台湾からの移入3だと思われます。それが「臭気あるため食慾が進まず閉口する」ほどだったそうな。
「食慾が進まず閉口する」気持ち、よ~~~くわかります。
南京米の「臭気」は私も中国広東省で散々経験しましたが、鼻が変形してしまいそうなほどのあの激臭を目…ではなく鼻の当たりにすると、口に移すまでの不快感たるや言葉では表現できません。口にさえ含めばどうということはないのですが…あれに馴れるのには、日本人は数ヶ月単位の時間が必要です。
それはさておき、『松島遊廓の研究』によると難波病院の入院患者は平均で500人前後。すでに書いたとおり、難波病院には大阪府下の遊郭の娼妓が収容されるのですが、そのうち松島の娼妓が300人強。松島は娼妓数・売上・登楼客数日本一、戦前の遊郭三冠王でしたが4、それだけに性病患者数もケタ違いといったところでしょうか。
それを物語る公的資料があります。
『衛生年報』という大阪府の公的資料で、こちらは明治45年(1912)の統計です。一年間の入院患者7856人中、松島の娼妓が4995人(約63%)とダントツ。ふふふ、圧倒的ではないか我が遊廓は…とギレン・ザビ総帥なら言いかねない。
入院期間は短くて数日、長いと数ヶ月に及び、将来を悲観して自殺する人もいたそうです。それが『紅灯ロマンス』の難波病院怪談話につながるというわけですな。
ちなみに、この遊郭リストを見て少し違和感を持った人がいるかもしれません。
「あれ?飛田は?」
飛田遊郭の誕生は大正7年のこと。誕生までには、あと数年の歳月が必要です。
大阪には、「難波病院数え唄」という民謡が伝わっています。
「一つ~ 人も知ってる大阪のところは難波の~病院が嫌で~」
から始まる調子の唄は、遊女の恨みというか悲しみ、これも運命かという諦めの文言が並び、今でも住吉区・住之江区の盆踊りで歌われることがあるそうです。
なお、この唄の全文はこちら。