戦争が終わってから、75年が経とうとしています。

あの戦争をまた繰り返す気か!
と鼻息の荒い人の横で、

え?アメリカと戦争していたの?知らなかった!
と驚く若者も現れ、やれ平和ボケだと目くじらを立てる人もいます。が、70年以上も経てば人間の記憶なんてそんなもの。

日本の都市という都市が空襲で廃墟となり、イチどころかゼロからのスタートとなった日本復興。その時代に生きた人たちの頑張りで高度経済成長を遂げ、町並みも戦前とは違った形に変化しました。
戦争抜きでも建物の新陳代謝が激しい日本、75年も経った戦争の遺構も年々少なくなってきています。都市部になると、それは顕著なほど消え去り、それこそ戦争なんてあったの?ということになってしまうのは、時代の流れだもの、仕方ない。
しかしその分、ビルの間にぽっかりと空いた穴のように、意外なところに意外なほどくっきり残っている戦争遺産もあります。それも、一度は通ったことがあるかもしれない、神戸市のど真ん中に…。
神戸市立博物館

神戸の中心地、三宮の旧居留地の中心にある市立博物館の建物は、もともと横浜正金銀行神戸支店として昭和10年(1935)に竣工しました。戦後も銀行として使われた後、神戸市が使用することになり、現在に至っています。
銀行と戦争…一見何の関係もなさそうです。少なくても遠目で見ていれば…。
建物を間近で見てみると、あることに気づきます。

なにやら壁にシミのようなものが…

アップしてみると、孔を何かで埋めた修繕の跡が見られます。
これ、実は飛行機の機銃掃射の跡なのです。

博物館の正面には、数多くの銃痕の跡が、かなり生々しく残っていますが、銃痕だと意識しないとただの「シミ」にしか見えません。
が、これは明らかに街の真ん中に残る戦争の跡なのです。

市立博物館の銃痕を細かくチェックしていくと、正面向かって右側に銃痕が集中していることがわかります。左側にはほとんどありません。飛行機は南側(海側)から飛来し、三ノ宮駅方面に飛びながら機銃掃射を繰り返していたと推定されます。
博物館は、実は建物自体が戦争博物館でもあった、そういう捉え方も可能です。
海岸ビル


歩道橋が邪魔で見えにくいですが、戦前は旧三井物産神戸支店だった海岸ビルは、大正7年(1918)の竣工です。
しかし、建物自体は1995年の阪神・淡路大震災でほぼ全壊、解体後には新しいビルが建設されました。が、昔のビルの外壁だけを新しいビルの低層部分に移築する形で復活。外見は「近代建築」の上に「現代ビル」が乗っかっている奇妙なハイブリッド風となっていますが、低層部なんて飾りです、偉い人にはそれがわから…失礼、神戸の景観を損ねないための一工夫であります。
そんな「現代ビル」ですが、ここにも実は…


海の方向の正面入口の周囲には、カウントできないほどの「シミ」が。市立博物館と同じく、これも銃痕の跡です。外壁は解体された廃物の再利用らしいので、すべて正面にあったとは限らないのですが、白亜の外壁に孔が黒ずんでいて、それがかえって生々しさを出しています。
もしかして、外壁が再利用されたのは、この銃痕のあとを戦争遺産として残すためだったのかもしれない…実際に現場で見ると、そんな想像が頭の中でよぎります。
神戸郵船ビル

こちらは大正7年(1918)に日本郵船神戸支社として建てられた、今年で築101年の重厚な建物です。1994年に大改築された際に耐震補強も施されたのですが、完成した途端に阪神・淡路大震災。もしこれがなければ、前述の海岸ビル同様全壊していただろうと思うと、耐震工事は重要だと思わせる生き証人でもあります。
大正時代築のものなので、当然先の戦争も経験しています。

(神戸市立図書館の資料より)
100年ほど前の海岸通りの写真です。
左奥が戦前の郵船ビル、右手前は前述した海岸ビルですが、現在はその間にある商船三井ビルヂング(大正11年築。後述)がないので、大正8~9年頃かと思われます。
郵船ビル、実は今と形が違っています。戦前にはてっぺんにドーム状の銅葺き屋根があったのですが、空襲の熱で崩壊。銅は熱にめっぽう弱いですからね。
郵船ビルの空襲の傷跡は、これだけではありません。


ここにも機銃掃射の跡が、数は海岸ビルほどではないものの、しかしくっきりと残っています。こちらは海岸ビルと違い数が少ないので、気づく人は案外少なめのようです。
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