寂しき幹線の終着駅、神戸駅の歴史

野良歴史家の歴史探偵

 

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昔の神戸駅はすごかった伝説① 超特急『燕』

 

特急『燕』戦前、展望車

その代表格が、特急『燕』でした。有名なので聞いたことがある人も多いと思います。

この列車は「超特急」と呼ばれており、既に走っていた先輩特急の『富士』『櫻』(いずれも東京~下関間)を超える、高速の特急という意味合いもありました。

この『燕』の名は国鉄を象徴する名前となり、現在にも受け継がれています。今のJRバスにもツバメのマークが付けられ、野球のヤクルトスワローズの「スワロー」もこの『燕』から名付けられました。創設当初は「国鉄スワローズ」でしたからね。

 

特急『燕』の時刻表

当時の時刻表です。赤で囲んだのが『燕』です。登場した当初は通過していた横浜や静岡などにも停車しているので、戦前でもかなり後のものだと思います。

 

三ノ宮駅を発車した東京行き特急『燕』

阪急神戸線の春日野道駅から撮影された、三ノ宮駅を出発したばかりの東京行き『燕』の写真です(1936年)。今から東京へ向け長い旅に出るという感じが写真からにじみ出ているかのような、勇ましい写真です。

 

 

今でこそ新幹線が東京~新大阪間を2時間半ほどで結んでいますが、戦前はこの『燕』が最速で、「東京を朝に出て夕方には大阪に着く」自体が常識破りでした。

 

この『燕』の弟分として、左横に走っている『不定期つばめ』という大阪行きの列車や、姉妹列車として同じ神戸行きの『鷗(かもめ)』(上の時刻表いちばん右に掲載)も走っていました。『鷗』は昭和12年(1937)年から18年まで走っていた特急でしたが、6年間しか走っていない上に、『燕』の影に隠れて存在感がほとんどない、少しかわいそうな気もする列車でした。

鷗よ、君はいい列車だったが君の生まれた時代が悪かったのだよ。

 

昔の神戸駅はすごかった伝説②-急電

 

省線急行、略して急電。モハ52

それが「省線急行」、略称「急電」と呼ばれた、東海道本線京都~神戸間の快速列車でした。
同じ省鉄(→国鉄→JR)でも、「急電」は大阪鉄道局が管轄するオリジナル電車で、『燕』とは並走しないものの、停車駅は大阪・三ノ宮と『燕』に同じ。が、私鉄との競合という大義名分で京都~神戸の所要時間は『燕』より10分速いものでした。

「見たか国民ども、これが日本一速い列車だ!」

と国が自慢していた高速列車より「早い列車」・・・理屈では理解不能ですが、おそらくスピード違反上等電車が関西には少なくても3つ存在していたわけで(笑

「急電」は現在の新快速のご先祖様ですが、今のJR西日本も新快速が急電の子孫と認識しており、

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今の新快速の外側の帯や内装が茶色なのは、「急電」のトレードカラー色(茶色)を引き継ぎ、我は急電の直系の末裔なりという勲章なのです。

新快速の車内

新快速と上の「急電」の車両の色と比べると一目瞭然。「急電」を意識していることがわかります。

同じ車両なのに阪和線の関空快速と東海道・山陽線の新快速で内装の色が違うのは、こういう歴史があるのです。

 

昭和45年の大阪万博を機に復活した「急電」改め新快速は、特急を横目に追い抜き新大阪駅でさえガン無視通過、関西では「新幹線の次に速い電車」と言われていました。実際、新幹線は別格とすれば当時日本で2番目にぶっ飛ばす列車でした。

今でも130km/hという、いろいろとヤバい速度で暴走していますが、新大阪駅を猛スピードで通過して特急『雷鳥』(今の『サンダーバード』)を平然と抜いていった時をリアルに乗ったことがある私にとっては、それでもおとなしくなった方。130km/h出すより新大阪駅をフルスピード通過の方がよっぽど愉快痛快、大阪出たら京都まで止まるつもりはありまへん、それこそ新快速。高槻なんかに止まる軟弱電車は快速に格下げや。

この反則設定、東京の国鉄本社では聞いてねえよだったらしく、

東京本社「新快速を新大阪に止めろ!新幹線との接続悪いし、お客さん乗り間違えてクレーム続発だぞ!」

大阪「ライバルの私鉄がなかなか手強くうちとしても力を入れ…」

(翻訳:いやどすwww)

東京2「特急を追い抜くなんてメンツが潰れるからやめろ!特急を追い抜く快速なんて前代未聞だ!」

大阪「ライバルの私鉄がなかなか手強くうちとしても力を入れ…」

(翻訳:いやどすwww)

(東京に)退かぬ媚びぬ顧みぬの大阪鉄道局の面目躍如。上のやりとりは少し茶化していますが、実際の会話に基づいています。

 

昔の神戸駅はすごかった伝説③-名士列車

東京から神戸への列車は、特急『燕』や『鷗』だけではありませんでした。

今でこそ特急なんてコンビニ化して掃いて捨てるほど走っていますが、戦前は一生に一度乗れるか乗れないかの、名前の通り「特別」「急行」だったのです。当然、本数も少ない。

それを補完する形で、急行が全国を網羅していました。JRの急行(臨時列車を除く)は2016年をもってついに絶滅してしまったのですが、かつては日本中くまなく走っていた急行が今や跡形もないとは、まるで恐竜の絶滅を思わせます。

といっても、昔の急行も大衆的だったといえばさにあらず。長距離旅行自体が一生に数度程度の大イベントの時代、おいそれと利用できる代物ではありませんでした。

 

さらに、戦前には車両に「1等」「2等」「3等」の階級がありました。

今の「普通車」と「B寝台」が3等にあたり、「グリーン車」「A寝台」が昔の2等です。1等は1960年に廃止になってしばらくこの世から消えていたのですが、JR九州の超豪華列車「ななつ星」で、形式の「イ」と共に53年ぶりに復活しました。東北・北陸新幹線の「グランクラス」も事実上の1等車の復活ですが、JR東日本はノーコメントです。

 

今の普通車とグリーン車は、列車にもよるものの質的にさほど変わらないと言えば変わらない。新幹線も「グランクラス」はさておき、グリーン車に乗りたいかと言えば、別に普通車でいいやと思います。

しかし、戦前の1・2・3等は全く格が違いました。

3等は庶民用、2等はそれなりの金持ち、1等はVIP用とほぼ分けられており、1等2等車には「ボーイ」という召使サービスまでありました。

 

戦前の3等車

これが、昭和初期の典型的な3等車です。これで特急・急行用なので鈍行となるともっとひどいものとなります。

 

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旧2等車…といっても写真はJRの新快速ですが、座席はイコールと思ってもらって結構です。関西人的には、阪急京都線や京阪の特急車両の方が、シートのフカフカ具合を含めて2等車に近いと思います。

 

 

戦前の展望車の車内

1等車はこの通り。『燕』の写真の最後尾にある展望車がそれです。

 

昔の国鉄の運賃は非常に単純で、3等車を基準に2等車はその倍、1等車はその3倍。

昭和5年(1935)の特急『燕』の場合、

東京~大阪間 各等運賃3等車:6円06銭(特急料金:2円)=合計8円06銭
2等車:12円12銭(同:4円)=16円12銭
1等車:18円18銭(同:6円)=24円18銭

倍々ゲームみたいでチョーわかりやすいです。今もこんな風にシンプルにしたらいいのに。

ちなみに、同時期の物価で比べてみましょう。

米10kg:2.2円
東京の大工の日給:約1.7〜2円
朝日新聞購読料(月):1円
山手線初乗り料金:5銭

当時は貧富の差も大きかった時代、特急に乗るということがどれだけ「特別」だったかが、料金でわかると思います。それに比べると今の特急は「特別」でも何でもない。そろそろ特急を超える「特特急」なんて出たりして。

急行はもう少し安いものの、それでも長距離旅行自体が今の海外旅行以上に大掛かりなものでした。当時家族で東京~四国を旅行した作家の宮脇俊三氏によると、遠距離の家族旅行は引っ越しほどのお祭り状態だったそうです。

 

この1・2・3等の区分けを踏まえて。

東京~神戸間の急行は、4種類の急行が走っていました。特急と違い、戦前の急行は「吾輩は急行である。名前はまだない」なので、以下列車番号で表示します。

13・14列車:3等車のみ

15/16列車:2,3等車

17/18列車:1,2等寝台車のみ

19/20列車:2,3等車

 

戦前の時刻表より神戸行き急行
(昭和9年当時の時刻表。矢印下の列車が神戸行き急行)

すべて夜行列車だったのですが、何故4本も走っていたかというと、もちろんそれだけの需要があったこともありました。が、需要だけなら全く同じ編成の列車を時間差ダイヤで数本走らせればいいだけ。

これには戦前なりの事情がありました。

当時は貧富の差も激しかったこともありましたが、社会には明確な階級が存在していました。社会を表す列車にも階級があり、その典型が、利用者の多い東京~神戸間の列車にあらわれていました。

3等車のみの13/14列車は「一般大衆用」、15/16及び19/20列車は「全階級」用、そして17/18列車が「セレブ列車」。1等車と2等車、それも割高の寝台車しか連結していないということは、要は「この列車、一般庶民及び貧乏人のご乗車お断り」と言っているも同然。

一般庶民と特権階級は席ならぬ列車を同じくせず。一般ピーポーは黙って3等車にでも乗ってろということです。

 

事実、17/18列車は政財界の要人やエリートサラリーマン、高級軍人などの、経済的に裕福な名士だけが乗車でき、自然と「名士列車」と呼ばれていました。高すぎてとても乗れない一般ピーポーは指を加えて見てるだけ。

名士ばかりが乗車する列車なので自然と列車自体にもブランド価値が付き、知る人ぞ知る伝説の列車になりました。

 

現代にたとえたら…

東海道新幹線に「デラックスのぞみ」という全車両グリーン車の列車があらわれ、車両の半分は東北・北陸新幹線を走っているグランクラスのグリーン車。
料金は、東京〜新大阪駅間ノーマルグリーン車でお一人様片道13万円。グランクラスだと26万円。

乗客「そんな高い電車、乗れるか!」

JR「なら乗るな!たった13万円ごときも出せない貧乏人は『ただののぞみ』にでも乗ってろ」

「名士列車」を現代に例えるとこんな感じです。

戦前の列車の階級を明確に表すものが、もう一つありました。

 

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で囲んだ記号は、「食堂車」です。
神戸行きの4本の急行にはすべて食堂車がついていましたが、「名士列車」だけナイフとフォーク、他は今では見ることがないお椀のマーク。
戦前は、食堂車には「和」と「洋」に分かれており、黄色の丸で囲んだお椀のマークは「和食堂車」、ナイフとフォークは「洋食堂車」でした。
文字通り和食を出すのと洋食を出す違いだけじゃないのと思いますが、ここにも明確な「階級」があったのです。

 

当時の日本人は洋食にはほとんど馴染みがありませんでした。カレーやオムライス、とんかつがようやく浸透しつつありという頃でもありますが、とんかつソースなどの洋食用ソースが普及したのは戦後です。
洋食の値段はまだまだ高く、お出かけの時にフンバツしちゃえ!というレベルの食事でした。
鉄道でも洋食堂車を連結していたのは、片手の指で数える程度しかありませんでした。
ちなみに和食堂車の方は、長距離の各駅停車にも連結されていた、ごくポピュラーなものでした。

 

戦前の洋食堂車の車内
(洋食堂車のイメージ)

さらに、洋食堂車で食べるにしてもメニューはフルコースでした。
特急『燕』の食堂車のメニューは、

昼食(ランチ)
A定食:1円
B定食:1円20銭
夕食(ディナー)
A定食:1円30銭
B定食:1円50銭
(※内容は残っていませんが、運行初日はスープ、伊勢海老のゼリーがけ、牛肉の松茸ソース、七面鳥の蒸し焼き野菜添え、デザート、コーヒーで1円30銭だったそう)

 

一品メニュー
ビーフステーキ:50銭
カレーライス:30銭
サラダ:35銭
ビール(大):45銭

という記録が残っています。

これ、かなり高いです。大阪梅田の阪急百貨店名物だった、百貨店食堂のウエイトレスの日給(10時間労働)が80銭の時代です。時給じゃありません、日給です。
東京でかけそば、大阪でかけうどんが10銭で食べられた時代です。
1円は理論的に今の2500~3000円くらい、感覚的にはざっくりで約4000円と思ってけっこうです。
さらに、物価が安く貧富の差も激しい時代だったので、昭和初期の1円は今の5千円札と思うと感覚的にわかりやすいです。
ランチに「5千円」もかけられますか?カレーが¥1,600ですよ?
食堂車も民間企業が運営しているので、ボランティアでやっているわけでもありません。お客が来てくれないと撤退です。つまり、こんな貧乏人お断りの値段設定でも、客が食事をし利益を上げ経営が成り立つほどの需要があったということです。
洋食堂車が連結されている列車の客層が、これだけでも伺うことができます。つまり、洋食堂車も「一般庶民お断り」だったのです。

 

たかが列車にも社会が現れる。これを「鉄道社会学」と言います。私がとっさに作った造語なので、文字そのままが存在するかは知りませんが。

 

この「名士列車」は戦争中も走り続け、戦争の激化でいったん廃止になりますが、1949年に東京~大阪間の急行として復活。後に『銀河』という名前がつきました。『銀河』は翌年に神戸まで延長されました。

急行『銀河』は数ある急行の中でも、長年別格のような地位を与えられていましたが、それは「名士列車」の血を受け継ぐ、人間で言えば「高貴なお家柄」だったから。

『銀河』は品位こそ落としたものの、2008年に廃止されるまで東京~大阪間を走り続けました。

 

昔の神戸駅はすごかった伝説④-特急「こだま」

戦争を挟んで戦後になっても、神戸駅の地位は変わりませんでした。

『燕』は戦争の激化で廃止になったものの、戦後に復活。しかし、運行は東京~大阪間であり戦前のように神戸発着になることはありませんでした。

その代わり、ある列車が神戸発着となりました。

 

東海道本線特急こだま

 

東海道本線を走る新しい看板列車の『こだま』です。

今でこそ『こだま』は新幹線の列車名ですが、元々は東海道本線を走るビジネス特急として鳴り物入りで現れた、昭和30年代の看板特急でした。それが東海道新幹線の開通で新幹線の名前にスライドされたという経緯です。

 

東京〜大阪間には、既に復活版『燕』や『はと』などの特急や急行が走っていたのですが、なぜ『こだま』が看板特急だったのか。

一つは、国鉄初の電車の特急だったから。それも500km以上走るものとなると世界的にもほとんど例がありません(世界初と書いている人もいます)。今でこそ特急が電車だなんて当たり前ですが、『こだま』が少なくても日本初でした。

我々は我がごとなので意識しませんが、そんなものを終戦から13年後に作ったということ自体、外国が日本にリスペクトを超えて「恐怖」さえ感じる理由の一つです。

一言で「親日」といっても理由は様々ですが、

「戦争で国土が廃墟になって原爆も2発も落とされた。広島・長崎なんか70年草が生えないとまで言われていた。それでも見事に復活して世界屈指の大国だ。スゲーわあんたら!」

アラブ人は特にこの理由で日本チョーリスペクト。アラブをウロウロしていた時あいさつ代わりによく言われましたが、アラブの「親日」はこれに要約されています。

 

もう一つは、電車によってスピードアップし、東京~大阪間往復日帰りを実現させたこと。今でこそ新幹線『のぞみ』が2時間半で日帰りなど余裕ですが、昭和30年代では夢幻の如きなりの世界でした。それを現実にしてしまったわけで。登場した当初は関東~名古屋間ノンストップだったので、『こだま』は今の新幹線で言う『のぞみ』だったわけです。

昭和30年代。東海道線時刻表と特急こだま

『こだま』は2往復走っていたのですが、うち一往復は神戸発着でした。他にも神戸発着の特急や急行が走っており、時刻表を見ても、昭和30年代の列車のメインは「発着」が書かれた神戸の方であり、三ノ宮は「サブ」扱いであったことがわかります。

 

『ALWAYS 続・三丁目の夕日』という映画がありましたが、映画内で小雪が列車に乗り込んでいたのがこの『こだま』でした。

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それも、夕方という設定なので夕方発の神戸行きの『第二こだま(今ならこだま3号)』というところも忠実に再現していました。彼女の後ろにある「サボ」(行き先表示板)もちゃんと神戸になっています。

映画にも出てくるほど『こだま』は当時の看板列車でしたが、東京~大阪間というイメージが強すぎため、のちに1往復が神戸まで延長されていたことは鉄オタの間でも案外知らない人が多いようです。

神戸駅の落日

しかし、神戸駅の栄光もここまででした。

東海道新幹線開通後、神戸を発着とする列車は普通列車を除いてほとんどなくなり、徐々に「ただの途中駅」化していきました。

さらに海外への旅客輸送も飛行機がメインの時代になり、人の流れは海の港から空の港へ。今でも中国への定期旅客船が神戸港から出ていますが、往年の賑わいに比べればかわいいもの。

一時は、北陸方面の特急『雷鳥』の1往復が神戸発になったものの、それも短命に終わりました。私が小学生の頃は神戸行き各駅停車が平日の昼間にあったのですが、それもいつの間にかなくなり現在に至る。

さらに、数少ない神戸駅を通る特急もみんな三ノ宮駅停車となり、『サンライズ出雲/瀬戸』と『スーパーはくと』は神戸駅を通過するという、お寒い限りの冷遇ぶりです(ただし『はまかぜ』は停車)。

 

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栄光の神戸駅の悲哀の歴史が、この1番線に刻まれています。

この1番線、その昔神戸を始発としていた特急の専用ホームで、神戸を始発としていた『燕』や『こだま』などの当時の看板特急が、ここのホームに入り東京への旅路を待ち構えていました。昔は、さぞかし多くの客で賑わっていたことでしょう。

後編はこちら! 神戸・新開地-繁華街の賑わいのあと

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