今から115年前のこと、日本とロシアの間で戦争が起こりました。日露戦争です。
アジアの小国の日本が大国ロシアに勝てるわけねーじゃん
世界の下馬評は1000人中999人がロシア勝利を信じて疑わなかったのですが、蓋を開けてみれば日本の勝利。
死傷者数だけを見ると痛み分けに等しいですが、ロシアの南下を止め、南満洲からロシアの脅威を排除するという戦争目的は達成。その上に南樺太までいただいたので、日本の勝利には間違いない。
戦争をすると、当然ながら捕虜が発生します。
捕虜は国内に移送され収容所に収容されたのですが、日露戦争におけるロシア兵の捕虜収容所は、愛媛県の松山や千葉県の習志野など全国29か所に点在していました。
特に松山は、
・最初に作られた収容所
・収容者が教育レベルの高い将校が中心で、文字で記録を残した(史料が多い)
・郷土史家や地元大学の熱心な研究
・司馬遼太郎『坂の上の雲』の影響
などで、収容所=松山というイメージが強い。
ところが、最大の規模を持った収容所は大阪にありました。
浜寺俘虜収容所ができるまで
大阪には、天下茶屋に小規模の収容所が存在していました。
明治37年(1904)10月に陸軍予備病院天下茶屋分院として建設されたのですが、途中で捕虜収容所として使用することとなり、翌年1月より収容を開始しました。
が、収容キャパが少ないのと、これから述べる浜寺の大規模俘虜収容所の建設が決まったため、3月14日と19日に収容されていた捕虜は浜寺に移され、元の病院に戻りました。
天下茶屋の収容所の場所や具体的な施設・棟数など詳細は、現在もわかっていません1。
さて、浜寺俘虜収容所の話です。
明治38年(1905)年1月1日、難攻不落と呼ばれた旅順要塞がついに陥落しましたが、同時に大量の捕虜が発生しました。そのうち2万人を大阪で収容することとなり、軍は建設会社を呼び収容所の概要を披露しました。
敷地は府内浜寺海岸の4キロ四方、面積26万平方メートル(甲子園6つ分)。それを工期21日で建設を要求、かなりの大規模かつ短納期な工事となります。
入札の結果、工期がいちばん短かった大林組が工事を請け負うこととなりましたが、軍はやはり21日で作れと。
大林組の創業者大林芳五郎は、すべて計算済みでした。
大工の給与を5割増しの約束であらかじめ人員を確保、資材も大阪から陸送するのではなく、大量輸送が可能な船で輸送し海岸に木材を直接搬入するなど先手を打ち、日本最大の面積の捕虜収容所を21日で建設。ホンマに21日で作るとは…と師団長を感激させたといいます。
不可能を可能にした「プロジェクトX」ぶりは軍をはじめ社会の信頼を勝ち得、大林組を建設業界大手に成長させるきっかけとなりました2。
浜寺俘虜収容所の完成
同年2月5日に収容所は完成し、早速2万人余の捕虜が船と鉄道で運ばれてきました。
ここでややこしいのは、収容所は名前こそ「浜寺」なものの、実際の場所は「浜寺」の南に位置した高石村、現在の高石市にありました。
地元でなければ誤差やんと流して良い差異ですが、地元から見ると、
「高石なのに浜寺て、それなんかちゃうんとちゃう?」
と胃に消化不良の何かが残ったような違和感を感じる人がいると思います。
東京に例えれば、御茶ノ水を秋葉原というようなもの。隣同士だけれども、それはちょっとちゃうやろという異物感が、浜寺と高石にあるのです。
実際、現在の浜寺公園にも俘虜収容所はあるにはありました。それゆえ、「浜寺俘虜収容所は浜寺にあった」と誤解する人がたまにいます。
ところが、設備は建物なんて到底言い難い天幕(テント)。
ここはあくまで高石の収容所が完成するまでの仮であり、完成後の2月22日、そちらに吸収されます。よって、「浜寺俘虜収容所」とくれば「高石の方」を指します。
収容所長は誰か
所長は、建設中は羽川という工兵中佐が管理責任を負っていたそうですが、完成直後の2月7日、隈部潜(ひそむ)という後備役陸軍少将が就任しました。
信州小諸藩士の長男として嘉永元年(1848)六月十日に生まれた彼は、大阪兵學寮で学び明治6年に陸軍砲兵少尉に任じられます。
砲兵将校として順調に出世し、明治30年10月13日付『東京朝日』朝刊に、砲兵中佐から大佐へ昇進した人のリストに、彼の名前があります。
明治35年(1902)陸軍少将に任ぜられますが、同時に後備役に。
後備役とは現役を退いたものの、戦争時などお国の一大事で軍から復帰命令が下れば現場に復帰する軍人のこと。復帰の可能性がゼロの「退役」とはまた違います。
隈部も後備役になったものの、日露戦争で召集がかかり、収容所長という後方任務を命じられたと思われます。
なお、
一昨年、隈部の陸軍三八式少将肩章(軍服の肩についている階級章)が軍装店に入荷したそうです。
売れたかどうかは定かではないので、興味ある方は直接上のツイ垢までお問い合わせを。
俘虜収容所は具体的にどこだったのか
南海電鉄高師浜支線の終点、高師浜駅前の広場には、ここに俘虜収容所があったということを示す記念プレートがあります。
現在、俘虜収容所があったことを示すのはこれだけで、建物などは何も残っていません。地元でも、いや、地元だからこそ、現在は閑静な住宅街である高師浜に「日本史上最大の」俘虜収容所があったなど、はい左様ですかと素直に信じることはできません。
私も俘虜収容所の存在は、郷土史としてかなり前から知ってはいたのですが、
本当にここにあったのか???
という疑問は常に存在していました。
そんな違和感を解決すべく、地元の図書館で資料をあさってみたところ…
ありました。
この地図だけでは、どこに何があったか現在の地図と比べてみても不明瞭ですが、一つだけ目印が存在します。
それが高石神社。
神社の位置だけは変わっていないため、これで位置関係が明白になりました。結論から言ってしまえば、高師浜駅界隈に俘虜収容所があったことは本当の本当です。
収容所の範囲は、赤で塗った範囲となります。高石市の海岸沿いのほぼすべてが収容所だったというわけですな。
浜寺俘虜収容所の規模
収容所の規模はどうだったのか。
施工した大林組によると、1棟の長さ97メートル、200人収容可能な幅6.4mの平屋建廠舎100棟、100名収容の病舎が10棟、その他哨兵舎、厨房など15棟の計125棟。
「第一形態」はこれだったのですが、のちにそれでも足りず病棟やパン焼き工場などを増設したそうです。
敷地は4ヵ所に分けられました。
1区:芦田川南〜高石神社
2区:高石神社〜今川(高石交差点付近)
3区:今川〜南方墓地(現高石斎場)
4区:墓地〜小高石川(玉子川)
ちょうど川から川の範囲というわけですね。
本件と関係ないですが、高石斎場に私の祖父と父の墓があります。
初期の収容人数は、
1区:3,811名
2区:6,146名
3区:食堂、病院など
4区:9,975名
合計:19,932名
初期の収容可能人数は2万人程度でしたが、のちに増設され最大2万8千人の収容となりました。
浜寺には主に下士官・兵が収容され、収容人数は松山(最大約6000人)、習志野(最大約14000人)など他収容所に比べぶっちぎりの多さでした。これだけでも、日露戦争最大なのはもちろん、日本史上でも最大級の大きさの捕虜収容所ではなかろうか。
その中には、3人の子どもも含まれていました。「俘虜の連れ子」と書かれているので、捕虜の子どもだったのでしょうか。詳細は不明です。
したたかな地元の人たち
高石市は現在でも、さほど大きいところではありません。
収容所ができた時はさらに小さく、村の人口はわずか3000人ちょっと。そこに2万人以上、最大2万8千人のガイジンが一斉にやってきたのだから、インバウンド景気の外国人観光客大量来日なんて次元ではなく、村に突然「ロシア帝国の飛び地」ができたようなもの。村は蜂の巣をつついたような大騒ぎでした。
しかし、これでひと儲けしようとたくらんだ人も多かったようで、入口に屋台のような野菜や魚の直売所を設ける農民や商人、ガイジン見たさに訪れる「観光客」相手の商売を開いた人もたくさんいたそうです。
また、数万人の捕虜を食わせるだけの食糧も必要ですが、それも地元から調達したものも多く、結果的に、高石村は「収容所バブル」の恩恵を受ける結果となりました。
「一等国」の品格を求めて
明治時代の日本は、当時の言葉でいう「一等国」、司馬遼太郎の言葉を借りれば『坂の上の雲』を目指していました。
19世紀は帝国主義真っ盛り、自分が強くならないと国が食われる時代であり、そのためにはなりふり構わずの時代でもありました。
欧米列強からは
アジアなんて野蛮で非文明的だ
とかなり見下げられていた当時、日本は「一等国」たるべく捕虜にも寛大な処置を行いました。
それを挙げていけばキリがないですが、収容所の空気はいたって自由、外出も許され地元住民との交流も行われていました。
「一緒にセミ取りをした」
「家に来て食事をした」
など地元では昔話が語り継がれています。
また、収容所内も衛生など生活環境を重視しており、高石村には当時電気が敷かれていなかったのに、ここだけは電気がついていたといいます。
実は同じことを、台湾にも行っています。
「日本は世界に『いい恰好』をつけたかった。そのショールームが台湾だった」
「22歳まで日本人だった」李登輝元総統の日本時代観の一つです。日本は台湾を領有すると上下水道を真っ先に整備するなど基本インフラを固めた。目的がどうであれ、その恩恵を台湾は今でも受け、忘れていないと。
台湾在住の作家片倉佳史氏によると、病院のトイレの位置、窓の配置一つとっても、日本人は伝染病が流行らない事を考えて設置しており、台湾人も歴史を知るにつれ、ちゃんと計算してたのだなと先哲の慧眼に感服するそうな。
李登輝氏の言葉を借りれば、収容所の厚遇も『いい恰好をつけたかった』のでしょう。
現在、台湾は対新型コロナにおいては、ATフィールドを張ったが如き防疫を行い世界から注目されていますが、「台湾すごいな~」と感心する日本人に対し、彼らはこう返します。
それ(衛生・防疫の重要性)を教えてくれたのは、そもそも日本(人)ですが…
嗚呼、歴史を忘れた民族は哀れなり。
閑話休題。
収容所で注目すべきは、収容者の宗教を重視したこと。
当時のロシア帝国は、現在のポーランドやバルト三国、フィンランドなどが含まれていました。キリスト教だけでも、ロシア正教にカトリック、プロテスタントなどかなりのモザイクぶり。そこにイスラム教やユダヤ教徒も加わりました。面々だけなら俘虜収容所とは言え、立派な「他民族・他宗教国家」です。
しかし、狭い地域にそれができるとトラブルは不可避、実際に捕虜どうしの宗教上の対立や喧嘩があったようです。
そこで日本軍が採った措置は、収容者を宗教別に分けたこと。
ロシア正教、カトリックを中心に、少数派だったイスラムやユダヤ教徒にも配慮し、それぞれのエリアには教会など礼拝所も設けられていました。上の写真はカトリック教会でのミサの様子です。カトリックなのでポーランド系でしょう。
「一等国」の仲間入りをしたい、というか「アジア=野蛮で非文明的」というレッテルを払拭するため、日本はここまで行っていたのです。
丁重に葬られた収容者
収容所が開設されていた期間、戦傷や病気がもとで89名の死者がでました。
彼らを葬る際、地元の人が土地を提供し作られたのが、現在も泉大津市に残るロシア兵墓地です。墓石には宗教別に葬られ、墓石には一人ひとりの名前も刻まれています。
泉大津市というローカルな地には似合わないくらいの、まるでロシアの墓地に迷い込んだかのような異世界感がここにはあります。
そしてなにより、地元によって100年以上経ってもきれいに整備されています。一言でいうとピカピカです。周囲の日本人墓地の風化と比べると、ロシア人なら感謝感激のあまり十字を切りたくなるレベルでしょう。
ここには、収容所長によって書かれた漢詩が刻まれた石碑があります。
人而死者八十九畢此地地村人所献
彼我有志者相謀建墓標魯人更建記念
碑於場中央遊魂亦以可瞑矣
陸軍少将隈部潜記并書」
「ロシア兵俘虜28,000人のうち、89名が浜寺(収容所)で亡くなった。
心ある者が墓を建てロシア政府が碑を建てた。
ロシア兵の魂よ安らかなれ」
ところで、去年(2020年)、ロシアの民家から浜寺収容所と思われる写真が発見されニュースになりましたが、その一枚に葬儀の様子が写っていました。
もしかして、泉大津に眠る89名の一人かもしれません。今後の研究が待たれるところです。
コメント
今回も楽しく読まさせていただきました。地元千葉県習志野市にもロシア人捕虜収容所があったので、イメージを繋ぐことができました。習志野も宗教別に分かれていたと想像がつきます。線路のが写真がありましたが、現在の南海高師浜線の前身となっていたのかどうか、興味はつきないです。